追憶賛歌(三)
御者は自らのアロンという名が嫌いだった。誰が付けたかも、どういう理由で付けられたかも分からない、アロンにとっては気持ちの悪いものでしかない。
同時に、自分の境遇も合わせて理不尽なこの世界も大嫌いであった。冒険者になったのも、そんな世界への反抗だったのかもしれない。
いや、本当は自分自身が何よりも嫌いだったからこそ、ささやかな抵抗のつもりで冒険者になった。あるいは、心のどこかで許しを求めていた。
全てを清算する意味で、抑えきれない負の感情を自覚しながら、アロンは無意識の内に死を望んでいた。静かに宿る破滅願望は育まれ、次第に歪みを伴い別の何かに変化している。
これはおそらく、幼い頃の出来事が元凶なのだろう。
貧しい家庭に生まれたアロンは、小さな時から過酷な労働を強いられていた。それでも満足に食う事も出来ず、明日の命すら保証されていない崖っぷちで生きてきたアロンには、一人の妹がいる。体が弱く、働く事も出来ない彼女は少額の金で売られる事となった。
その時のアロンは、愛する妹の境遇に同情し助けたいと思った反面、自分ではなく良かったと安堵していた。そう、連れていかれる妹を前にしてアロンは悲痛に顔を歪めるではなく、涙を流すのでもなく、ただ安心感から醜く笑っていたのだ。人間とは自己保身の為ならば愛する存在さえも売り払ってしまう悪魔なのだと悟ってしまったのも、その時である。
助けを請うような瞳と、不安に震える声を今も忘れられない。無邪気に「お兄ちゃん」と呼ぶ妹の声が、脳裏に焼き付いて離れてくれない。
罪悪感と、自分の醜悪さに絶望したアロンは、破滅願望を飼いながらも生き残っていた。それは、きっと救いを求めているからだ。自分ではなく、妹の幸せを望んでいる。その願いもまた、醜いものだと自覚しながら。
冒険者になる為の必要な技術や心構えを教えてくれた祖母も、娘を売り払い絶望して自らの命を経った両親も、今はもう過去の存在だ。そしてアロン自身もまた、過去に生きている。
祖母の言葉によると、アロンは自分が綺麗に死にたいが為に生きているらしい。誰かを救いたいとでも思っているのか。妹を見捨てて、それを糧にしがみついているお前なんかには誰も救えやしない、とも言っていた。
激しい痛みに悶えながらも、アロンは自らの敗北と共に過去を想う。それしか自分には残されていない、そんな主張さえする必死の追想に、激痛を押し殺し苦笑を漏らした。
「ーー今度はどんな願いを叶えようってんだ?」
その声がキルトのものであると理解したのは、少し間があいてから。曖昧な聴覚と思考により、声に宿る空気は違えどキルトが発したものだと分かる。
「富か、名声か、それともーー復讐か?」
嘲りを含ませながら空気を切り裂くように届く声は、とても力強く精神を押し潰すような圧迫感があった。
「そっちで倒れてる奴は……」
一瞬の間の後、喉の奥から出したような笑い声が聞こえてくる。
「こりゃ面白い。テメェ、自分で見捨てておいて救いたいはねぇだろォ。どれだけ傲慢なんだよ」
それが自分に対して言っているのだとすぐに悟る。貶されているにも関わらず、それでも怒りや悲しみが沸いてこないのは、アロンの感情が既に枯れているからか。
「まあ、サービスで教えてやるよ。ーー妹は生きてるぜ、残念ながらな。いや、生きてるって表現が正しいかどうか、かなり怪しいがなァ」
「ど、どういう……」
妹が生きているというのに、何が残念なのかが分からない。根拠もない言葉だが、不思議とアロンは彼の言葉が真実だと思った。当たり前の事を当たり前のように言っている、そんな説得力がある。
「ここから先は有料だぜ。そっちのガキもな」
数秒の間。葉の音と風の音が混ざりあい、ほんの僅かな静寂を乱す。
「ーー目的もなく生きてる奴なんざ、この世に存在しねぇ。どこの世界に行っても、どんな人間に会っても、結局は自分本意な自己中ばっかりだ。ただ、それが願いや祈りとなって俺の存在理由になってんだけどな」
何故か、キルトの姿をした男の言葉に納得した。彼は、人間の汚い部分をずっと眺めていたのだ。そして、人の願いを叶える為だけに存在し続ける。感情や意思に左右されず、ただそれだけを生きる糧にしている。
具体的に予想出来た理由は、アロンもまた彼と似た性質の持ち主だから。悪魔のような人間を内側から眺め続け、しかし醜く生きて足掻いている理由は妹の事を常に想っているからである。それだけの為に存在しているアロンは、彼に同類の空気が流れている事に気付いてしまった。
「もう一度聞くぜ、馬鹿共。どんな願いを叶えようってんだ?」
ーーもちろん、妹の幸せを。
と、すぐに出ればどれだけ楽だろうか。それを言う資格が自分にあるのだろうか。あの時、助けを求めていた彼女の目から視線を逸らし、笑いながら見捨てた自分がそんな事を吐いてしまえば、それこそ本当にクズ以下の人間になってしまう。
望んでいるのは間違いなく、だがそれは自らの安寧を求めるが故だ。ただ純粋に妹の幸せを祈るのではなく、大きな濁りを抱えて矛盾と共に、アロンの中に居座っているこの願いは言葉に出せなかった。
許しなどいらない、必要ない。だけど救いたい。何度も何度も、神へと祈りを捧げた。
ーーどうか、妹を幸せにしてください。
言葉にしてしまえば、冗談のような事だ。他人ばかりを見て、想い、祈ってきたアロンは既に元に戻れない程の歪みを抱えている。闇の中で見つめていたのは、更に暗く深い闇であった。
「確かにまぁ、大抵の人間はクズだ。テメェも、テメェの両親やババアも。ゴミ以下の野郎だ」
否定など出来るはずもない。なぜなら、自らもそう思っているから。
しかし、同時に考えてしまう。家族を想い、幸せを願うのは悪いことだろうか。自分のようなクズが願いを成就させようとする方が間違っているかもしれない。だが妹は関係ないはずだ。
そう、アロンがどれだけの濁りを抱えていようとも、妹は違う。切り離して考えなければならない。たとえこれを言葉にして自分が崩れ去ったとしても、貫く事がアロンの人生だったはずだ。
「あいつの幸せを……」
力なく吐かれた言葉。それが精一杯であった。
ーーああ、言ってしまえば簡単な事だったんだよな。
あの時、そして現在まで続く醜い人生は終わりを迎える。死ぬわけではないのに、そんな予感すら無いにもかかわらず、アロンは思った。
このまま矛盾を抱えたまま終えるのは、一つの物語だとすればかなり未完成なものだ。
だけど、それで良い。それこそ、アロンの自己中心的な性が望まない唯一の結果であろう。救いようもない人間は救われなくても良いのだ。この世界は皆が幸せになれる程優しくはなかった。悪人や罪人、アロンのようなどうしようもないクズまで生き残っている。弱く、優しい者は真っ先に死んでいくような世界の中で、しかしアロンは願った。
罪には罰を、弱き者には祝福を。
歪み、捻れたアロンの心の到達点がそこだった。こんな世界では狂人と言われてもおかしくはない考え。何の淀みもない、最高で幸福な結末を望む。この時点でアロンの精神は壊れているのかもしれない。それでも、正気でも無くとも望まずにはいられなかった。
ーーアロン。その名は誰が付けたかもどういった理由で付けられたかも分からない。
「上等だァ。これからテメェが出会うのは、最高に幸福な絶望。それがテメェが望んだ事だからなァ、叶えてやるぜ。料金は既にもらってるからよ」
浅く薄い意識で聞いた彼の言葉は、やけに悲しそうであった。




