甘く、艶やかな香りが鼻孔を抜けた
色々とすっ飛ばした理由は活動報告にて。
再びの襲撃が予想されたものの、意外と呆気なく更に襲撃から四日が過ぎた。気候は変わり、肌寒い気温から防寒用の外套が必要な程に冷え込んでいた。骨の内側まで侵入してくるような冷気ではないが、身を震わせる程度には寒い。
最後の中継地点として利用する村は他にも旅人や冒険者が滞在しており、多少の賑わいを見せている。人工の光で照らされ冴えない灯りが視界を確保していた。近くには垣根のように並べられたブドウの樹が植えられており、グリブスレイドの名産品の一つであるワインの原材料として知られていた。
村に着いて早速、宿に籠ったキルトはとても酒を飲む気分にはならない。ここ数日の疲労に加え、七日前からまともな睡眠が取れておらず、夜になれば夢でうなされる毎日だった。動く分には問題はないのだが、倦怠感が体を支配し常に少量の鉛を全身で引きずっているような違和感はある。今日こそはと思っていても、覚えてもいない夢を毎日のように見て起きてしまうので、全く疲れは取れていなかった。
イスに体を預け、目を手で覆う。眉間の辺りをほぐした後、窓から見える景色に視線を移した。イルヴィーラ、アリス、ミコトの三人は今ごろ食事をしているだろう。疲れているからと断ったものの、やはり襲撃の心配は消えない。村の中でも襲われる可能性が無いとは断言出来ないのだ。
しかし、黙って行かせた理由はミコトの存在が大きかった。下手に分散して行動するよりも彼女と共にいた方が安全性は増す。何よりアリスが危険に晒されない最善の選択をしたと思っている。
陽が沈み、宵闇の暗さが淡く冴えない光と混じりあう。そろそろ良いだろうと、キルトはイスから立ち上がった。部屋のランプを消し、外套を身に纏う。ウールの襟巻きで口まで覆い、重苦しい体を叱咤して退出した。
向かう先は既に決まっていて、宿の近くにある馬小屋。薄暗い照明の廊下を進み、建物の裏口から出る。内側から蹂躙するような風が通り過ぎ、肩をすぼめながら裏口を囲むように設置されている柵を目指し歩き続けた。
梢が擦りあい、葉が低い悲鳴を上げるような音を鳴らした。まるで木々が警告を出しているようだと、キルトは口元を歪める。腰から下げているナイフの鞘に触れて気分を落ち着かせた。同時に、糸を取り出して柵と柵を繋ぐように結んだ。魔力を込め、あらかじめ魔法を発動させておく。条件を満たせば発動される魔法だ。
馬小屋へ近づくにつれて灯りが少なくなってくる。徐々に暗闇が濃くなり、薄らかな景色の先には丸太が連なるように建てられた馬小屋が見えた。
懐から拳くらいの大きさの袋を手に持った。手のひらの中で弄りながら、キルトは馬小屋の中にいる人物に声をかける。
「よう、こんな時間まで馬の世話かよ」
馬の背を撫でていた人物が胡乱な動作で振り返る。闇に隠されたその人物は、この七日間の旅を共にしてきた御者の男だった。
「あんたか。どうしたんだい、こんな汚い場所にお喋りのお誘いでも?」
「ああ。ちょっとばかし時間を貰って良いか?」
僅かな静寂が流れた。微かに聞こえる風の音と木のざわめきが、時間を引き伸ばす。
「……珍しい事もあるもんだ。あれだけ嫌がっていたあんたがねぇ。これは、心を開いてくれたと思って良いのかな?」
「そうかもしれねぇな。明日にはグリブスレイドに着くんだからよ」
「嬉しいねぇ。ほら、初日に言った通りになっただろ? 縁は大事にしないといけない。あんたもそう思わないか?」
キルトは御者が初日に言っていた事を思い出した。
「再会は、正直したくないけどな。ま、何だかんだで楽しかったのは否定しねぇよ」
右手をナイフの柄に伸ばし、いつでも抜けるように意識を向ける。
「そうかそうか。俺は、是非ともこの出会いを大切にしたかったんだけどな。ままならないもんだ」
こちらへ歩み寄る影に、顔を悲痛に歪めた。足の裏を動かす時の土が擦れる音が馬小屋の中に響く。
「……このままでいたかった。俺も、あんたと会えて良かったと思ってる。婆さんが、別れが無い縁なんて存在しない、だからそれを大事にしろ、って言ってたよ。ホラ吹きババアにしては良い言葉だ。まぁ、あのババアが死ぬ前に言ったことなんだけどな」
おそらく、彼は全てを理解した上で言葉を紡いでいる。キルトが襲撃の時点から彼を疑っていた事や、それを認めたくなくてグリブスレイドへ着く前日に、こんな場所まで足を運んだ事も。
「最初から騙してた奴が言う台詞じゃねぇよな」
「いやいや、騙してたなんて人聞きが悪い。俺はただの御者で、夢破れた負け犬さ」
「ただの御者が、こんな事するかよ」
「金がさ、必要なんだ。冒険者で大成するって夢は諦めたけど、その代わりに守るべきもんが出来た。まるでありきたりな事だが、妹が病気でな。貧乏な俺には薬も用意してやれない。日々の生活で手一杯だった」
「変に語るじゃねぇか。同情でもしてほしいか?」
「あんたも知っての通り、俺はお喋りだからな。それに、出来るだけあんたとの別れを引き伸ばしたい。これでも、ギリギリの立場で守ってきたんだ。誰にも死んでほしくなかったから」
彼が敵と通じていると考えたのは、襲撃の後だ。戦いの最中、彼は動揺を見せる事も悲鳴をあげる事もなかった。場馴れしていても僅かな動揺はあっても良い。なら、襲撃を知っていた可能性が出てくる。
次に、初日に滞在した村の噂。他の三人に聞けば、噂は確かにあると答えた。しかしそれは、御者の言葉から知ったのだ。精神的な揺さぶりと、幽霊の噂を認識させる事で何らかの効果を得ていた。ここ数日の不眠もそれによるものだろう。
そして、襲撃者の中にいた剣士の存在と、御者が言った噂から得た情報から、とある一つの可能性が見えてきた。それは、御者が内通しているという蓋然性の乏しい予想ながらも、確かにその可能性は存在している。
だからこそ、御者の役目が終わるであろう明日までに尋ねる必要があった。たとえ認めたくなくとも、事実があるのなら。
「危うく殺されそうになったけどな」
「……謝っておこう。俺の都合でこんな事になってしまって」
影が、懐から短い刃物を取り出した。妖しい煌めきを見せるそれは、何かの暗示であるかのように空中を踊る。
「だからさ、もう少しだけ俺の都合に付き合って、死んでくれ」
澄んだよく通る声に応えるよう、キルトは腰のナイフを抜いた。




