お願いです、どうか私に気付いてください
「もうすぐ、奴が帰ってくる」
白濁の瞳に映るのは、相反するような暗闇。キルトはそれが自分だと気付くのに時間はかからなかった。何もかもを見透かし、あるべき形にする力強さがネムサールの瞳には宿っていた。
奴、という人物に心当たりはある。自分にとって大きな意味を持っている事も。逸らすべき目も、持ち合わせてはいない。その事からは逃げられないと悟っている。
「奴は再び、この世界を拒絶するつもりだぞ。五年前の再来になる」
「テメェは、いなかった、じゃねぇか」
当事者から見れば、外から眺めていた者が何を言っているのだと一笑してしまいたい。黒い感情が、怒りを塗りつぶす。
「五年前に、傍観、してた、テメェが俺に、指図、するなよ」
「それは関係ない。重要なのは、儂が動いたという現実と、奴が帰ってくるという事実。既に他の魔王、勇者、ドラゴンは動き始めた。このままでは、戦争が起こってしまう」
その言葉に、キルトは気付いてしまった。このネムサールと名乗る魔王が神の奴隷である事に。何のために行動しているのか、そして魔王が視る未来の結果も。
ーーふざけてんじゃねぇぞ。
ネムサールに与するぐらいならばドラゴンの元に下る方がましだ。ドラゴンは神に反逆し、解放を願っている。対して、ネムサールは神の望む未来を創造するのだ。
「鐘の音は、既に鳴り響いた」
瞬間、キルトは天上より遥か先に在る神へ憎悪を向けた。また、この世界に生きる者達を駒にするつもりか。管理をしているつもりで、勇者や魔王を巻き込んで遊ぶつもりである。
「今はまだ、行動を起こさなくてもよい。お主が動かずとも、渦は既にお主を飲み込もうとしている。否応なしに、いずれ会う事になるだろう」
「テメェ、何言って……」
ーー彼と、再会するのだ。
そう告げて、ネムサールは腕からワイヤーを出した。蛇のようにキルトの体に絡み付くそれは、ダメージを残さず意識を刈り取るものなのだろう。
だが、突然ワイヤーが切断されネムサールの手から力が抜けた。拘束から解放されたキルトは、何があったと驚いたような表情をするネムサールを見た。
「なるほど。魔人の仕業であるか」
魔人。馴染みの無い言葉に戸惑いを浮かべるが、ネムサールの口から疑問の答えが出ることはない。第三者が介入したのかと、辺りを見回した。しかし、他に人影は確認出来ず疑問は更に深くなる。
「興味深い。……キルト・レイデンムーンよ、お主はこれから月のノドがあるグリブスレイドに行く。そこで何をするか、儂は見ているぞ。『向こう側』の残痕は世界に満ちているからな」
ネムサールはそれだけ言って、今度はキルトを放ってその場から立ち去ろうと背を向けた。その背に、キルトは鋭い視線を浴びせた。
「待てよ。テメェがまだアリスを殺そうとしてるんなら、俺はまだ戦う」
喋るだけ喋って、何も解決していない。ネムサールがアリスを殺さない、とは言っていないのだ。
「殺さん。本格的に、この街を破壊するつもりは無くなった。魔人と争うにはまだ早いからな」
言葉のほとんどは理解出来ないが、とりあえずアリスは殺さないらしい。その理由も述べていたが、魔人とは何なのか分からない今では意味を理解する事は無いだろう。言葉だけの保証だが、ここでネムサールが嘘を言う可能性は低い。絶対的な上位者が、虫けらに嘘で取り繕う必要がないからだ。
地面で蠢いているワイヤーがネムサールの腕に収納される。結局、キルトがしたのは無駄な足掻きだった。全力で戦ったにも関わらず、極限まで手加減した魔王に傷ひとつ付けるどころか、そもそも戦いにすらなっていたかも怪しい。
「また、会う事もあるだろう。この街に来たのは正解であった」
ぼそりと呟くような低い声と共に、ネムサールは路地から消えた。
「クソッ……クソッ!」
己に対する苛立ちを発散させるように壁を殴った。魔人なんて訳の分からない存在に助けられ、魔王に見逃された。繰り返し、弱い自分を糾弾する。無力感が全身を這いずり回り、何度もアリスに謝った。
折れそうな膝を叩き、堪える。ここで倒れてしまえば、きっと立ち上がるまでに時間を要するはず。脳を突き刺すような痛みと吐き気に耐えながら、ゆっくりと歩みを進めた。
グリブスレイドに行く理由が増えてしまった。ネムサールが知っていたという事はつまり、あの都市には何かがある。そうでなければ、ネムサールがわざわざ話すわけがない。依頼を遂行するのはもちろん、大金の為。偶然だろうと必然だとしても、キルトに出来るのはそれだけだ。
路地から出て、キルトは雲の無い夜空を見上げる。昼も夜も、変わらずあり続ける星に憎しみを込めた。『向こう側』からの嘲笑が聞こえるようで、きつく拳を握った。
しばらく歩くと表通りに出て、キルトは見覚えのある人影に舌打ちを一つ。周りには夜の露店や冒険者が多い。昼間の市場程ではないが、そこそこの人はいた。
「ブレンニア……」
ブレンニアと共に歩いているのは、先日の美女だ。記憶が正しければ、リャムセアラという名だった。おそらく、教会の関係者。今、ブレンニアは彼女からの依頼を受けているはずだ。
今は話したくない。視界から外れようと別の場所を目指すが、踵を接するようにブレンニアから声がかかる。
「キルトじゃないか、どうしたんだい? 体調が悪そうだけど」
見つかった。うんざりした面持ちでブレンニアに向き直り、口を開く。近付いてくるブレンニアが憎々しげに見えるのは、おそらく精神状態があまり良いとは言えないからか。
「話しかけてくるんじゃねぇよ」
「君はいつも機嫌が悪いね。それより……なぜ、そんな薄汚れているんだい? 良く見れば手と口から血も流してるし……」
「何でもない。お前には関係ねぇだろうが」
「関係あるよ。僕は君が心配なんだ。良ければ、これから教会に行くかい? 体調が悪いなら休んだ方が良いけど」
今だけは、この優しさに苛立つ。気持ち悪さを感じ、キルトは顔を歪ませる。ブレンニアが本気で心配しているからこそ、惨めな自分を隠すように虚勢を張る。これが最も有効だと知りながら、キルトは鋭い視線を向けた。
「いらねぇよ。休むんなら、家に帰って寝る。お前が心配する事じゃねぇんだ。さっさと消えろ」
トゲのある口調に、ブレンニアの隣で静観していたリャムセアラが声を上げた。友好的ではない目と、態度に辟易する。
「貴方、失礼ではありませんか? もう少し言葉を選んで発言してください」
「言葉を選べる頭も無いんでな。なんだよ、俺が馬鹿なのを責めたいのかぁ?」
キルトもまたリャムセアラを嘲笑いながら、敵意のある口調を作った。こうする事で、必ずブレンニアが止めてこの場は解散となるはず。
「二人とも、落ち着いて。今回は僕が悪かったんだ。必要の無い善意は、悪意になるからね。不快な思いをさせて悪かった、キルト」
輝くような優しさに、目を瞑りたくなる。合理的なブレンニアだからこそ、行動は予測しやすい。思惑通り、リャムセアラは落ち込んだ顔を俯かせた。
「す、少し熱くなりました。申し訳ありません」
それでも、鋭い視線はそのまま。キルトは観察している瞳にむず痒さを感じて、思わず黙ってしまう。
「すまない、彼女も反省しているみたいだ。許してくれ」
「分かった、分かったから。とにかく俺は疲れてんだ。今は放っておいてくれ」
「ああ。じゃあこれ以上邪魔するのも悪いし、行こうか」
ブレンニアが隣のリャムセアラに優しげな目を向ける。動こうとしない彼女を訝しんだのか、ブレンニアは首を傾げた。
「どうかしたのかい?」
「やっぱりーー」
キルトを観察するリャムセアラは何かを思い出しかのように納得し、知性の感じさせる瞳で訊ねた。
「貴方と、ずっと昔に会った事がある」




