何かの鐘が鳴り響く予感、約五秒前
ーー十年前、二代前の光の勇者は誰にも知られる事なくこの世界から姿を消した。
それが世間一般の認識で、アリスもまたそう聞いていた。希望の象徴である勇者がこの十年間で三人も存在していたのは歴史から見ても異例である。
キルトが七の勇者と十の魔王についてよく語ってくれるのは、そういう特殊な時代にいるからだ。その中でも光の勇者は、アリスがいるこのフィストンプルという国と馴染み深い人物で、最もよく聞かされていた。
人々を無条件に惹き付け魅了し、どこまでも正しい存在。自分とは正反対だと、自虐混じりに言っていたのがアリスの脳裏に焼き付いている。何かを達観したような、濁りきった瞳でキルトは自分を間違った存在だと言った。
だからアリスは、キルトにそんな瞳をさせる光の勇者が嫌いだった。正しい事が最良なのか、と聞かれれば否定してやる。話に聞く光の勇者は誰よりも傲慢で、狂った人間だ。何もかもを救おうとして、手のひらからこぼれ落ちてしまう程の量を助けようとする光の勇者が正常であるはずがない。
たった一人の為だけに強くあろうとするアリスとは相容れない存在である。他に何も無くとも、キルトさえいれば、キルトと二人でいるだけで幸せになれる。光の勇者のように、己の身を弁えない傲慢な行いとは正反対だ。
手に余る行いの結果、二代前の勇者は姿を消して、先代は命を散らした。どちらも守りきれなかった。彼らだって、大切な人くらいはいたはずだ。大切な人を悲しませる彼らに、どうして人々を救えるのだろう。
それならば、キルトの方がよっぽど偉大ではないか。傷だらけの心を奮い立たせ、勇者のように強大な力があるわけでもなく、誰にも認められないまま目に映る人だけを守るキルトはアリスにとって希望に近い。
怒りと絶望から掬い上げてくれた。母を失った悲しみを癒してくれた。誰からも拒絶されようと、アリスだけはキルトの味方でいる。また、キルトは何があってもアリスの味方だろう。
決して間違っていない、そう叫びたい。キルトはいつも正しい行いをしている。誰が何を言おうと、アリスはキルトに言いたかった。言葉に出来ない程の感謝と、何よりも彼を愛する気持ちを。
だけど、彼は悲しい笑顔でそれを否定するはず。そんな顔を見たくないから、アリスは想いをぶちまける事はしない。光の勇者を語る時と同じ今にも潰されそうな辛い表情で、キルトは首を横に振る。
先代勇者は魔王の一人と相討ちになって死んだ。二代前は、誰にも別れを告げないままどこかへ消えた。そんな奴等よりもキルトの方が凄いのに、彼はそれを認めようとしない。
先代光の勇者が死んで暫く経ったあの日、暖かい手でアリスの小さく弱々しい手を握ってくれた日を忘れはしない。アリスにとって、キルトはどんな人間よりも偉大な事をした。
ーーその悲しみが、他の誰かに向けられていようと。
キルトはアリスの父親が誰なのかを知っている。そして、母を恩人とも言っていた。アリスに向けられる愛情が、アリスを通して別の誰かに向けられていようと、たぶん嫉妬の念を抱きながらも認めてしまう。
五年前から燻っている疑問も押し殺して、キルトを満たす為に戦い続ける。
ーーどんな事を犠牲にしてでも、突き進む。
▼▼▼
「何かを忘れている気がする」
おもむろにキルトは言った。
森を抜け、近くの村で休む事にしたアリス達は宿にいた。木造の建物は年季を感じさせ、いかにも場末の宿屋といった景観だ。これでも商人や旅人が泊まっている理由は、飯が美味いのと内装はそこまでひどくないからである。
食堂には木造のテーブルとイスが幾つかあり、数人の旅人が食事をしている。キルトとアリスは、何やら用事があるミコトとは別行動をしていた。
「ん? どうしたの?」
何も忘れてない、という疑問も乗せてキルトに言ったアリスの口には、ボイルした豆が入っていた。
「いやぁ、スゲェ重要な事を忘れてる気がするんだよな。何だったか、全く思い出せねぇけど」
「じゃあ重要な事じゃないんだよ。そのうち思い出すんじゃない?」
「それもそうだな。……今は食うか」
「そうだよ、久しぶりに固いパン以外の食事なんだから」
「止めろよ、泣きそうになるから」
そう言いながらも、豚肉を咀嚼しているキルトの口とフォークを持つ手は休まる事はない。アリスもまた、ここ数日間で一番まともな食事に目を輝かせながら口一杯に詰め込んでいた。
決して上等な料理ではないが、流石に旅人や商人が泊まる事もあって腕は良い。高級な食材でなくとも、まともに美味いと言える料理を出してくる。
ちなみに、ここの食事代と宿代はミコトに借りており、今は一文無しというわけではなかった。帰れば依頼を完遂した報酬が貰えるのだから、別に問題はない。
アリスとしては不味い燻製や固いパン以外ならば、美味に感じてしまう。今日は腹が裂けても食う決意をしていた。
と、ここでアリスも何かの違和感を覚える。頭の片隅に置いている姿の見えない影が顔を出しているようで気持ちの悪い違和感。これは先程、キルトが言っていた事なのだろうか。
しかし、キルトに言った通り忘れているのは重要な事ではないからで、そのうち思い出すであろうと結論付けて無視する事にした。今、この時で食事以上に重要な事などない。
二人で物凄い勢いを見せていると、突然焦ったような男性が飛び込んできた。
「たいへんだ! たいへん、たいへん、たいへんなんだ!」
邪魔をされた二人は不機嫌な表情でそちらを見る。他の客や店主も顔を出して疑問符を浮かべていた。
「どうしたんだい、慌ただしい」
呆れたように店主が声をかけると、男性は興奮で顔を真っ赤にしながら無駄な身ぶり手振りで店主に伝える。
「勇者! 光の勇者様がここに来るんだよ! それも明日の朝!」
イスが、勢い良く倒れる音と共にキルトが立ち上がった。
「光の勇者、だけか?」
「いやいや、巫女様も一緒らしい! 何でこんな村に来るのかねぇ! いやぁ、喜ばしい!」
様子のおかしいキルトに目を向けると、蒼白な顔で言った。
「アリス、今すぐこの村を出るぞ」
「え? 何で?」
「理由は後だよ後!」
手を引いてこの場を離れようとするキルトに抵抗しつつ、様々な疑問の前に口から出たのはミコトの事であった。
「ミコトと一緒じゃなきゃ、面倒くさい事になるよ」
「あんな女、知った事か!」
鋭い叫びの後、何かの気配に気付いたキルトは食堂の出入口へと視線を送った。
「よォ、何を慌ててんだァ?」
出入口を塞ぐように立つミコトは、いつもの凶悪な笑みの中に楽しげな感情を混じらせていた。
「嫌だぞ、ミコト。ここだけは我慢してくれ」
「ハハッ、こんな楽しそうな事、我慢しろってかァ? そりゃ無理だぜ、キルト」
ああ、と納得したようにアリスが頷く。勇者が来る、という楽しそうなイベントをミコトが見逃すはずがない。なぜキルトがあんなに焦っているのかは分からないが、意見が対立するのは目に見えていた。そして、対立して意見が通るのはミコトであろうというのも。もっとも、それは力業だが。
認識出来ない程のスピードで魔力を操り、強化を施したミコトは一瞬でキルトに当て身を食らわせ、意識を刈り取った。
「オイ、クソガキ。こいつを部屋で見張っとけ」
「は、はい。わかりましたぁ」
逆らえるはずもない。こういった力業が許されるのがミコトという怪物である。
それでも、アリスはキルトの分の食事まで平らげてからキルトを部屋に運んだ。いくらミコトが怪物だからといっても、食欲を止める事は出来ない。
食堂を出る時、アリスは追加の料理を部屋まで運んでくるように頼んだ。もちろん、自分が食べる為であった。
ミコトといえば、早々に宿から出てどこかへ行ってしまった。




