想い出の中で
カチリ、と静かにアネモネの見える窓辺に、解錠の電子音が響いた。
父親のタツオさんが、お下がりのPython入門書の余白に遺された「親子だけのデバッグコード」をパスワードとして打ち込んだ、まさにその瞬間だった。
液晶画面を覆っていたどす黒いロック画面がフワリと消え去り、システムフォルダの最果てに隠されていた、マナブの最期の動画ファイルが姿を現したのだ。
タツオさんが震える指先でマウスをクリックすると、ノイズ混じりの画面の中に、じわりと光が灯った。
「あ……」
最初に声を漏らしたのは、タツオさんの背後で、祈るようにモニターを見つめていた母親のマリさんだった。
画面の中に映し出されたのは、二年前の冬、白い病室のベッドの上で、青白い顔をしながらも、カメラに向かって悪戯っぽく笑う長男・マナブの姿そのものだった。
底冷えする病室の大きな窓の外には、
―どんよりとした冬の灰色の空から、どこまでも広がる冷たい海へと、吸い込まれるように白くきらめく雪がしんしんと降り積もる、美しくも儚い北国の景色が広がっていた。
『―父さん、母さん。シュウ。…
…それから、未来の僕の相棒』
画面の中のマナブ君が、かすれた、だけど優しく透き通った声で、こちらに向かって喋りかけてくる。
「お兄ちゃんだ!」
静まり返った部屋の中に、小学一年生の弟、シュウ君の無邪気な声が響き渡った。
お兄ちゃんが病気で遠くへ行ってしまったことは知っているけれど、死というものの本当の淋しさをまだ知らないシュウ君は、画面の中で元気に笑うお兄ちゃんの姿を見つけ、弾けるような笑顔でモニターを指差していた。
「お父さん、見てよ! パソコンの中にお兄ちゃんがいるよ! 画面の中から僕たちのこと、見てるよ!」
「シュウ……っ、そうね、お兄ちゃんね……」
マリさんはシュウ君の小さな身体を抱きしめながら、溢れ出る涙を止めることができず、声をつまらせて激しく大号泣した。
高度なプログラミングのアルゴリズムのことは何もわからない。
だけど、あの子が最期の瞬間に、自分たち家族のためにどれほどの志と温もりをこの冷たい機械の中に遺していったのか、その母親としての温かい気持ちだけで、マリさんの胸は100%完璧に満たされていた。
『父さん。僕はもうすぐ消えちゃうけど、悲しまないでね。
父さんに教えてもらったプログラミングの志は、このコードの中で、AI「manabu」として今もちゃんと生きているから。…
…僕、父さんみたいなかっこいいプログラマーになれて、本当によかったよ。僕を山吹家に生んでくれて、ありがとう』
画面の中の少年が、恥ずかしそうに右手を軽く挙げ、あの病室の窓辺の雪に溶けるような、最高のピースサインを作ってみせた。
「マナブ……お前ってやつは……」
タツオさんはデスクに両肘を突き、顔を覆ったまま、子供のように声を上げてボロボロと涙を流した。
自分が譲り渡した古いお下がりのノートパッドPCの奥底で、息子が命をかけて完璧に隠し、守り通していた最期のメッセージ。
プログラマーの親子だからこそ繋がった、知性のバトンの真実に、父親としてのプライドと激しい慟哭が、父タツオさんの身体を震わせた。
液晶のブルーの光が、涙に濡れる山吹家の全員の表情を優しく照らし出している。
窓の外の丘には、風が吹き抜けていた。
しかし、マナブの部屋の窓辺は、海に降る雪のあの冷たい静寂をすべて吸い尽くしたかのような、言葉にできない温かい親子の絆の穏やかさで、満たされていたのだった。




