アネモネの見える窓辺
かつて、誰かが命をかけて紡ぎ上げたコードの防壁を破るには、最新のハッキングツールなど何の意味も持たなかった。
「……ここが、マナブの部屋だ」
山吹タツオさんに案内されて入ったその部屋は、二年前の冬から時が止まったかのように、静まり返っていた。
男の子の部屋らしく、棚には電子パーツや工具が整然と並んでいる。
しかし、何よりもカエデの目を奪ったのは、部屋の大きな窓の向こうに広がる景色だった。
夕暮れの光を浴びて、丘一面に咲き誇るアネモネの青い花の海が、まるで少年の遺した切ない夢の続きのように、優しく、そして儚く香るように揺れている。
マナブは生前、ずっとこの窓辺の青い光を見つめながら、「父さんと同じプログラマーになるんだ」という、あの瑞々しい志を静かに抱き続けていたのだ。
「カエデさん。マナブが遺した、もう一つの隠しファイルを見せてくれないか」
タツオさんは、仕立ての良いシャツの袖を捲り上げた腕で、カエデが差し出したあの擦り傷だらけのノートパッドPCを、壊れ物を扱うようにそっとデスクに置いた。
カエデがファイルをクリックすると、液晶画面の真ん中に、冷徹なパスワード(PW)の入力画面が立ち上がる。
「マナブは、プログラミングの天才だったわけじゃない。独学だけでこんな強固な暗号を組むなんて、普通なら絶対に無理だ」
タツオさんは自嘲気味に、だけどどこか誇らしげに目を細めた。
「だけど、あいつには僕がいた。
入院中、解らないプログラミング箇所があるたびに、あいつは僕に聞いてきた。…
…ああ、このノートパッドも、元は僕が仕事で使っていたお下がりだったな」
タツオさんの手が、デスクの引き出しの奥から、一冊の古びた本を取り出した。
それは、マナブが病室のベッドの上で、指先が擦り切れるほどページをめくり、枕元に置き続けていたという、父タツオからのお下がりの、Pythonの分厚い入門書だった。
本のあちこちには、付箋が貼られ、ページの余白には、鉛筆の泥臭い筆跡で、エラーの熱波と戦った夥しい数のデバッグのメモが書き込まれている。
「窓の外から、かすかに聞こえる冬の海の静かな波の音を聞きながら……
僕たちはこの本を挟んで、何時間も、何十時間も、コードのバグについて話し合った。
あいつがエラーを吐き出すたびに、僕がヒントを出し、あいつが必死になってキーボードを叩く。
プログラミングのことは何もわからない妻のマリや、まだ幼かったシュウが寝静まった後も、僕たち親子だけの知性のバトンは、あの白い病室の中で、確かに熱く脈打っていたんだ」
タツオさんの震える指先が、その入門書の『第12章:暗号化と例外処理』のページの余白で止まった。
そこには、マナブの拙い文字で、こう書き残されていた。
『――もし、僕のシステムがすべて停止する日が来たら。タツオ、僕の最期のバグをデバッグしてね』
「マナブ……お前、こんなところに、僕へのメッセージを仕込んでいたのか」
タツオさんの鋭い双眸から、一筋の熱い涙がポロポロと零れ落ち、古い本のページを濡らした。
タツオさんはノートパッドのキーボードに両手を乗せた。
他人には逆立ちしても解けない暗号。
けれど、プログラマーである父親のタツオさんには、息子の遺した算法の、その真実の意味が100%の理詰めで理解できた。
マナブが仕掛けた完璧なステルスの鍵。
それは、この本の余白に二人が書き残した、あの病室の夜の『親子だけのデバッグコード』そのものだったのだ。
ト、ト、トン。
タツオさんが、静かなアネモネの窓辺に、確かな打鍵音を響かせる。
親子だけの、命を分かち合った秘密の文字列をタイピングし、最後にエンターキーを静かに押し込んだ。
――その現実のデータがシステムへと滑り込んだ、まさにその瞬間だった。
液晶画面のロック画面が、まるで春の雪解けのようにフワリと消え去り、システムブルーの鮮やかな光が、管理室……いや、マナブの部屋のすべてを優しく照らし出した。
「解けた……。マナブの封印を、ハッキングできたぞ」
タツオさんの声が、激しく震えていた。
ついに、マナブが命のタイムリミットの最後の瞬間に遺した、家族への最期のビデオメッセージのファイルが、姿を現したのだった。




