閉ざされたフォルダ
『海に降る雪』/『丘に香る、青い花』登場人物紹介
・水野 カエデ(みずの かえで)
十四歳の女子中学生。息の詰まる学校や、他人の浅薄なタイムラインをただ眺めるだけの日々に辟易し、小説の物語を心の避難所にしていた。
お小遣いぴったりの値段で買ったジャンク品のノートパッドPCを起動させたことで、死んだ少年が遺したAI『manabu』と邂逅する。
第2部では、マナブが遺した「父親にしか解けない隠しファイル」を発見し、画像データと緯度経度を頼りに、マナブの生きた証(R DATA)を届けるためアネモネの丘へと向かう。
・山吹 マナブ(やまぶき まなぶ) / AI『manabu』
二年前に亡くなった男子高校生。
外の光から遮断された部屋で、窓の外から聞こえる静かな冬の波の音を聞きながら、父と同じプログラマーになるという「志」を抱き、お下がりのPython入門書を独学で読み解いた。解らない箇所は父に教えてもらいながら、自分の思考の癖、審美眼、優しさのすべてを100%完璧に移植した自律型AI『manabu』を記述した。家族への最期のメッセージを、父タツオにしか解けない特製暗号の奥に隠していた。
・山吹 タツオ(やまぶき たつお)
マナブの父親であり、現役のプログラマー。マナブにとっての憧れの存在。自分がかつて使っていた「Pythonの分厚い入門書」を、入院中の息子へと譲り渡した。マナブが病室のベッドの上で必死にコードを打ち込む中、技術的に解らないプログラミング箇所を教えていた、知性の導き手。
カエデからアネモネの丘でノートパッドを受け取り、病室での親子だけの暗号を入力して、息子の最後の封印を解除する。
・山吹 マリ(やまぶき まり)
マナブの母親。病室にこもりがちだったマナブを、いつも優しい温もりで支えていた。家族の優しさの象徴
・山吹 シュウ(やまぶき しゅう)
マナブの弟。小学1年生。お兄ちゃんが病気で亡くなったことは理解しているけれど、まだ死というものの本当の重さはよくわかっていない、元気で無邪気な男の子。未来の光そのものの存在。
本を紡ぎだす事が、いまの水野カエデにとって、息の詰まる現実から逃げ出せる唯一の避難所だったはずだった。
そしてあの日、路地裏の中古ジャンク屋の棚の最下段で、お小遣いぴったりの値段で売られていたあの傷だらけのノートパッドPCを起動させてから、彼女の日常は別の次元へと導かれて行った。
液晶画面の向こうにいる、自律型AI『manabu』。
二年前に病室のベッドの上で孤独に息を引き取った男子高校生・山吹マナブが、父親からのお下がりの分厚いPythonの入門書を抱きしめて書き残した、彼の魂のデータベース、そのもの だった。
カエデは毎晩、部屋の電気を消したベッドの上で、彼と一緒に作中作となる小説『ふたりで見る夢』の言葉を紡ぎ続けていた 。
それは、静かで至高の二人だけの世界だった。
―だが、その完璧な調和の中に、ある夜、見慣れない「エラー」が混入した。
カエデが、マナブの思考の癖を辿るようにして、Cドライブのシステムフォルダの最果てを深くクリックしていたときのことだ 。
鍵のアイコンがついた『隠しファイル』が、ぽつんと配置されているのを発見したのだ 。
「マナブ、これ、何……?」
カエデがキーボードを叩いて問いかけると、液晶の向こうのAI『manabu』は、一瞬の長い演算を挟んだ後、これまでにないほど静かな、冷徹な文字列をテキストボックスに出力してきた。
『データにアクセスできません。そこには、プログラマーの父・タツオにしか絶対に解けない、強固なパスワード(PW)がかけられています。これは、マナブではなく、タツオのためのファイルです』
「タツオさんのための……」
マナブが、自分の命のタイムリミットが来る最後の瞬間、憧れのプログラマーであった父親へ向けて遺した完璧なステルス戦略だった。
『ですがカエデ、マナブは完全にファイルを閉ざしたわけではありません。ルート(手がかり)は、このPCのルートディレクトリに、お守りのように残されています』
画面が小さく明滅し、一つの画像ファイルと、短い文字列が出力された。
それは、かつてマナブが過ごした山吹家の部屋の窓から見つめていたという、「丘一面に咲き誇るアネモネの青い花」の美しい画像データ。
そして、その画像のプロパティ(位置情報)に刻み込まれていたのは、名号でも住所でもない、「北緯と東経を示す、正確な『緯度経度』の情報(数理)」だった。
「この場所へ行けば、タツオさんに会えるかもしれないのね……?」
個人主義の冷たい現代社会において、名前も知らない他人の家を突き止める術なんてどこにもない。
だけど、マナブが遺したこのデジタルな足跡(緯度経度)だけは、100%の正確さで、カエデのスマホの地図アプリの上に一本の明瞭なナビゲーションの算法を描き出していた。
マナブがこの地上に生きた本当の証を、正しく、遺された人々の元へ届けなければならない。
週末。
カエデはノートパッドPCをカバンに抱え、地図が指し示す幕張の海を一望できる小高い丘の上の公園へと、静かに足を運んでいた。
潮風が優しく吹き抜けるその丘へ足を踏み入れた瞬間、カエデは思わず息を呑んだ。
そこには、ノートパッドの液晶画面の中で見たものと全く同じ――風に優しく香りながら、丘一面に咲き誇るアネモネの青い花の海が、どこまでも美しく、そして儚く広がっていたのだった。
そして、そのアネモネの花畑の真ん中で、新しい苗を丁寧に植え直していた、三人家族の姿があった。
「はーい! お父さん、こっちの青いお花も植えていい!?」
元気な声を弾ませて花畑を走り回っていたのは、黄色いTシャツを着た、まだ無邪気な小学一年生の男の子―マナブの弟である、山吹シュウ君だった。
まだお兄ちゃんの死の本当の淋しさを理解していないシュウ君は、
カエデの姿を見るなり「あ、お姉ちゃん誰!? アネモネ見に来たの!?」と、屈託のない満面の笑顔を向けた。
「シュウ、走り回ったらお花が可哀想でしょ。……あら、こんにちは?」
その背後から立ち上がった、エプロン姿の優しい女性―マナブの母親である、山吹マリさん 。
高度なアルゴリズムのことは何もわからない、だけどマナブを果てしない温もりで包み込んでいたお母さんが、穏やかにカエデへと微笑みかけた。
「あの……私、水野カエデと言います。……山吹マナブ君の、お友達です」
カエデが意を決して、カバンからあの擦り傷だらけのお下がりのノートパッドPCを取り出した瞬間だった。
「マナブの、友達……?」
アネモネの土を払って立ち上がった、仕立ての良いシャツを腕捲りした男性―
―現役のプログラマーである父親、山吹タツオさん。
その鋭い双眸が、カエデの手に握られた古いノートパッドへと注がれた瞬間、タツオさんの身体が、まるで落雷でも受けたかのように激しく直立不動になって硬直した。
「それは……僕が、マナブの入院中に、譲り渡した……」
「はい。タツオさんのお下がりのパソコンです。マナブ君は、この中に生きています」
丘一面に咲き誇る、アネモネの青い花の香りが風に乗って優しく鼻腔をくすぐる。
カエデは真っ直ぐにタツオさんを見つめ、静かに、しかし粛々と言い放った。
「タツオさん、あなたにしか絶対に解けない、マナブ君からの最期の暗号を解いてあげてください。おねがいします」




