第3声目『5月が待ち遠しいです!』
「す、すみません……! 通してください……っ!」
厳かなチャイムの余韻が残る講堂の入り口から、天音すずは滑り込むようにして中へと入った。
天井の高い大講堂には、数百人もの新入生と上級生、あるいは教職員たちがすでに整然と列を作っている。床に敷かれた深い赤色の絨毯の上を、すずは周囲の視線を気にしながら小走りで進んだ。
目指すのは、自分の所属する高校1年1組の列だ。
早生まれで小柄なすずは、周囲の生徒よりも頭一つ分ほど身体が小さく並ぶべき場所をすぐに見つけることができた。自分のクラスの、文字通り「一番前」だ。
「天音さん、遅いぞ。もうすぐ式が始まる」
列の先頭に立って生徒たちを誘導していたプラカード持ちの教師から、小さな声で注意が飛ぶ。
「ひゃっ……! ご、ごめんなさい!」
すずは肩をすくめ、小さくなって自分の位置へと収まった。慌てて駆け込んできたせいで、膝近くまであるピンク色の長い髪が、まだ硬いブレザーの背中で大きく跳ねる。全校生徒の視線が自分の小柄な背中に集まっているような気がして、すずは耳の付け根まで一気に真っ赤に染めてしまった。
恥ずかしさのあまり、視線をどうにか逸らそうと、すずはキョロキョロと広い講堂の中を見渡した。
少し離れた場所には、上級生である高校2年生の列が並んでいる。その一番前、ひときわ目を引く美しいスタイルで佇んでいた栗毛のロングヘアの少女――新聞部部長の宇佐美栞と、不意に目が合った。
(すずちゃん、またやってる)
そんなふうに語りかけるような優しい目を細めて、栞は小さな口元を手でそっと押さえながら、おっとりとクスクス笑っている。
中等部時代からすずを姉のように見守ってきた彼女にとって、この慌ただしい姿すらも、高等部へ上がってきたすずの「いつも通りの初々しさ」として愛おしいのだろう。
すずがますます顔を赤くしてうつむくと、すぐ後ろの列から、聞き慣れた楽しげな声が降ってきた。
「あはは、すずちゃん、またギリギリじゃん。中等部の頃から全然変わらないね」
「すずちゃん今日も朝からお疲れ様。あ、でも今日の放送もすごく良かったよ」
「そうそう、ミセスの選曲最高だった! 天音さん、俺、教室で聴きながらテンション上がっちゃったよ」
声をかけてきたのは、同じクラスになった中等部からの友人たちだった。女子生徒たちは小柄で可愛いすずを「すずちゃん」と呼び、男子生徒たちは少し恥ずかしそうに距離を保って「天音さん」と呼ぶ。
この桜ヶ丘魔法学校は、中学から高校までの6学年が揃う全寮制のマンモス校だ。クラスの顔ぶれの多くは、すでに気心の知れた仲間たちである。
「もう、みんな声が大きいですよ……! 静かにしてください、怒られちゃいます」
すずは後ろを振り返り、人差し指を口元に当てて「しーっ」と身振りをしてみせる。けれど、自分の届けた言葉や音楽が、ちゃんとみんなの新しい一歩目の力になっていたことが、本当はたまらなく嬉しかった。
ぎゅっと制服のスカートを握りしめるすずの髪の隙間から、嬉しさを隠しきれない小さな桜の花びらが、内緒の粒子のようにハラハラと数枚だけこぼれ落ちた。
その時、講堂の重厚な正面扉が、再び静かに開いた。
そこから、だるそうに黒髪の寝癖をボサボサに尖らせた男が、ゆっくりと入ってくるのが見えた。ブレザーを着崩し、いつも眠そうな目でネクタイを緩めている男――すずたちの担任であり、放送部顧問の右京徹だ。
「ちょっと、右京先生! またそんな締まりのない格好をして……! 今日が入学式という大切な日だと分かっているのですか!」
すぐさま、入り口の近くで待ち構えていた年配の教頭先生が、般若のような顔をして右京の前に立ち塞がった。周囲の教員たちからも、その不真面目に見える勤務態度に冷ややかな視線が注がれる。
「あー……。すみません、教頭先生。ちょっと機材の確認に手間取りまして」
教頭が顔を真っ赤にして小言を並べ立てる中、右京は全く悪びれる様子もなく、缶コーヒーをポケットに突っ込んだまま「へーへー、以後気をつけまーす」と気の抜けた空返事を繰り返している。
(右京先生、また怒られてる……)
すずは呆れたようにその様子を見つめながらも、どこかホッとするような、いつもの学校の日常を感じていた。
だらしなくて、いつも漫画やゲームばかりしている不真面目な教師。けれど、あの人が実況席の隣に座った時に見せる、あの圧倒的に正確で冷徹な解説を、すずは誰よりも知っている。
やがて講堂の照明が一段と落とされ、厳かな入学式が始まった。校長先生の長い挨拶や魔法理論の基本方針についての説明が流れる中、生徒たちは静かに耳を傾けていた。
◇
無事に入学式が終わり、新入生たちはそれぞれの教室へと移動した。
高校1年1組の教室。黒板の前に立った右京は、チョークを片手に持ちながら、やはり眠そうに教壇に体重を預けている。
「えー、改めて入学おめでとう。担任の右京だ。一応、座学の魔法理論とか実技も担当する。まぁ、適当にやってくれ」
あまりにも緊張感のない担任の第一声に、教室内にはクスリとした緩い空気が流れた。
「じゃ、プリント配るから後ろに回して。高校生活のしおりと、年間スケジュールな」
前方の席から、カサカサと小気味よい音を立てて白いプリントが回されていく。一番前の席のすずも、自分の分のプリントを一枚取り、後ろの席の男子生徒へとはにかみながら手渡した。
「あ、天音さん、ありがと」
「はい、どうぞ!」
受け取ったプリントに目を落とすと、そこには普通の高校で配られるような年間行事――中間テストや期末テスト、球技大会の文字に並んで、ひときわ大きく太い文字が躍っていた。
――5月・《新緑杯》
「お、やっぱり5月にあるんだな、新緑杯」
「中等部の頃からずっと見てたけど、いよいよ俺たちの番かぁ」
周りの男子生徒たちが、プリントを見つめながらどこか興奮したようにざわめき始める。彼らの目は、早くも自分の固有の武器を顕現させるための《武器召喚》のイメージを膨らませているようだった。
「お前ら、早くもソワソワしてんじゃねえよ」
右京が教壇をトントンと指先で叩き、気怠げに釘を刺す。
「新緑杯は1年生限定の最初の大会だ。シードはなし。予選は4ブロックのバトルロイヤル形式で行う。そこを生き残った上位2名、計8名だけが本戦の1対1トーナメントに進める過酷な仕様だ。しっかり座学も実技もこなしてねえ奴は、予選の開始10秒で場外にぶっ飛ばされて終わるからな」
その言葉に、クラス中がゴクリと息を呑んだ。
すずは手元のプリントをじっと見つめながら、胸の奥がドクン、と熱く跳ね上がるのを感じていた。
1年生だけの、最初の公式戦。そこにはまだ、誰も知らない、誰にも注目されていない、けれど泥臭くひたむきな努力を重ねている「誰か」が必ずいる。
自分自身は戦えない。あそこへ行って、魔法の光を散らしながら誰かと競い合う力は、この身体にはない。けれど――。
(どんな戦いが見られるんだろう……!)
まだ見ぬ選手たちの勇姿を想像するだけで、すずのピンク色の瞳には、抑えきれない純粋な熱が灯っていく。
「おい、すず」
教壇から、右京の呆れたような声が真っ直ぐに飛んできた。
「あ…。」
ハッとして顔を上げると、右京がだるそうに頬杖をつきながら、すずの頭の上を指さしていた。
クラスの視線が一斉にすずの席へと集まる。
「すずちゃん、頭、頭!」
「え……?」
後ろの女子生徒に声をかけられ、すずが慌てて自分の髪に手をやると、そこにはいつの間にか、数枚の瑞々しい桜の花びらが、春の悪戯のようにハラハラと絡みついていた。
すずの持つ完全非戦闘魔法《心象花》。
戦いが大好きな彼女の感情の高ぶりが、本人の意思とは無関係に、ピンク色の超ロングヘアに鮮やかな花を咲かせてしまっていたのだ。
「教室内で無駄に魔力解放すんな。まだ授業も始まってねえぞ」
「わ、わざとじゃないです! これは勝手に出ちゃうんですから!」
すずは真っ赤になって髪を払いながら、必死に右京に抗議する。
教室内は一気に大きな笑い声に包まれた。女子生徒たちは「すずちゃん、やっぱり可愛い!」とクスクス笑い、男子生徒たちも「天音さん、相変わらず魔法への熱量が凄いな」と楽しそうに微笑んでいる。
だらしなくて、だけどどこか頼れる担任の先生。
可愛がってくれる女子たちと、少し照れくさそうに接してくれる男子たち。
窓の外からは、4月の強い風に煽られた本物の桜の花びらが、ひらひらとガラスを叩いていた。
すずはもう一度、手元の年間予定表へ視線を落とした。
――5月、《新緑杯》。
まだ名前も、魔法も、戦う理由さえ知らない。
けれど、その競技場にはきっといる。
誰にも見つけてもらえていない、まだ名もなき『主人公』たちが。




