第1声目『明日から全力でマイクを握ります!』
「――あ、え、い、う、え、お、あ、お! か、け、き、く、け、こ、か、こ!」
午前五時前の河原。
東の空がようやく白み始めたばかりの静寂の中、すずの声だけがまっすぐに響き渡る。
ジャージの襟元から覗く、高い位置で結ばれたピンク色のポニーテールが、すずが腹の底から声を放つたびにピシッと跳ねた。
すずは川面を睨みつけ、愛用のスニーカーで地面を力強く蹴り出す。ジョギングへの移行と同時に、彼女の瞳が鋭い光を帯びた。
「――さあ、朝靄を割って本日最初のターゲットが水面に姿を現しました! 川上から滑らかに進んできたのは鴨の親子です!
先頭を行く母鴨、実に見事な直線軌道! その後ろを必死に追うのは五羽の雛たち!
おっと、ここで後方の一羽が川の小さな渦に煽られて大きく遅れた!
しかし諦めない! 小さな羽を必死にパタつかせ、水かきを全開にして猛烈なリカバリーを見せていく――決まった!
無事に母鴨の影へと滑り込みました! ナイスガッツ、ナイスリカバリーです!!」
淀みないスピードで唇から滑り出す言葉。
そのままジョギングで進入した商店街では、早朝から動く街の気配すべてがすずの視線に捕らえられていく。
「――続いて朝の商店街! 右手前方、八百屋の店主が今、見事な広背筋の躍動とともに段ボールをスライド!
流れるような手際でキャベツを積み上げていく! 左手ではパン屋さんのシャッターが今、ガラガラと快音を立てて上がった!
早くも店内から香ばしい焼き立ての香りが漂ってきます! 前方から走ってくるのは新聞配達のバイク、前カゴの重みをものともせず、鮮やかなハンドルさばきで路地へと滑り込んでいきました――!」
一歩踏み出し、言葉を紡ぐたびに、すずの背後でひらひら、ひらひらと、数枚の桜の花びらが悪戯っぽく舞い踊る。
早口で喋りながら、桜の軌跡を残して走り抜けていくピンクの塊に、店先のおじちゃんやおばあちゃんたちが一斉に顔をほころばせて手を振った。
「おはよう、すずちゃん! 今日もええ声響かせとるなぁ!」
「おはようございます、八百屋のおじさん! キャベツの立体的な並べ方、今日も完璧です!」
「すずちゃん、明日からいよいよ高校生やろ? 頑張りや!」
「ありがとうございます、おばあさん! 明日から全力でマイクを握ります!」
走りながらもしっかりと腰を落としてペコリと頭を下げ、すずはさらにスピードを上げた。その拍子に、また新しい花びらが一枚、春の朝を彩るようにそっとアスファルトへと落ちていった。
寮の自室に戻ると、すずはすぐにキッチンへ向かった。
手際よく包丁を動かし、鶏胸肉を焼き、ブロッコリーを茹で、具だくさんの味噌汁をお椀に注ぐ。
「いただきます」
一口ずつ、よく噛んで咀嚼する。食後には小さなお鍋でお湯を沸かし、ハチミツと生姜をスプーンで丁寧に溶かした。
マグカップから立ち上る湯気をふぅふぅと吹き消しながら、ゆっくりと喉に流し込む。
「ふはぁ……よし、次!」
学習机に向かったすずは、端から色とりどりの付箋がこれでもかと飛び出している分厚いノートを広げた。何冊も積み上げられた「選手取材ノート」の最新のページに、ペンを走らせる。
『エレナ・フォン・ローゼンベルク(新1年・他校中等部出身)/氷魔法/レイピア《氷華》』
『戦闘スタイル:詳細不明。ただし前の中等部大会の記録では、一切の無駄を省いた神速の刺突を得意とする模様』
『すずの一言:早くこの目で確かめて、私の言葉で実況したい!』
まだ空欄の多い予測データの横には、想像で描いたレイピアのシルエットスケッチが添えられていく。
お昼前、すずは近くのカフェの、大きなガラス窓に面した一人席に座っていた。
運ばれてきたサンドイッチを小さな口でハムハムと食べながらも、その瞳はガラスの向こうを行き交う人々をじっと追い、唇だけが小さく、ノータイムで動き続ける。
(――駅前ロータリー、信号が青に変わった瞬間に先陣を切って飛び出したのはスーツ姿のサラリーマン! 歩幅は平均より15センチ広く、時計を見る回数はわずか30秒の間に3回!
かなりの急ぎ足、重要な会議が控えていると推測されます! その斜め後ろ、買い物袋を前カゴに入れた主婦が、巧みなハンドルさばきで人混みの隙間を1ミリの狂いもなくすり抜けていく――!)
夕方、再び緑のジャージに着替えてポニーテールを結び直したすずは、自室の床で汗を流していた。
「ふんっ、ぬんっ……! さあ、腹筋三十回目を迎えて、天音すずの腹直筋にじわじわと強烈な負荷がかかってきている! 額からは一筋の汗が流れ落ちるが、そのピンク色の瞳の光は一切衰えない! はい、三十一! 三十二――!」
自分の限界の動きすらも熱く実況しながら自分を追い込んでいく。
そのまま近くの市営グラウンドへ向かうと、ベンチの端に腰を下ろした。
夕暮れのオレンジ色の光の中、大きな声を掛け合いながら白球を追う草野球のおじさんたちや、トラックを黙々と走り込む市民ランナーたちの姿を見つめながら、ゆっくりと準備体操を進めた。
ランナーの無意識のピッチの崩れや、バットを構えるおじさんの僅かな重心のブレが、すずの脳内に次々と書き込まれていく。
その後、再び夕闇の河原へ向かって「あ、え、い、う、え、お、あ、お!!」と声を放つ。
夜の帳が下りた商店街をジョギングしながら脳内で実況し尽くした。
夜、お気に入りのパジャマに着替えたすずは、手早く作った肉豆腐を平らげると、テレビのリモコンをマイクに見立ててソファに座った。
画面の向こうで身振り手振りを交えて話すタレントの動きに合わせて、ボソボソと最後の仕上げの実況を繰り返す。
夜十時。ベッドに潜り込み、結び目を解かれたピンク色の長い髪がシーツの上にさらさらと広がる。
心地よい全身の筋肉の疲労感に包まれながら、すずは静かに瞼を閉じた。窓の外では、夜風に揺られた桜の枝が静かに音を立てている。
「明日からの高校生生活、楽しみだな……」
新しく出会う「主人公たち」が待つ明日へ思いを馳せながら、すずは深い眠りへと落ちて行った。




