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第十五部 第三章 第16話

 重苦しい空気が、薄暗い部屋の隅々にまで沈んでいた。

 石造りの壁は冷たく、じっとりと湿り気を帯びている。

 微かな水滴が遠くで落ちる音さえ、やけに耳に響いた。


 窓は厚手の黒布で厳重に覆われ、わずかな月光さえも遮られている。

 外界との繋がりを断たれたその空間には、張り詰めた静けさが満ちていた。

 卓の上では、使い古された鉄製のランタンが淡い橙の光を放っている。


 その中で、アリスは椅子に深く腰を下ろしていた。

 両肘を膝に突き、両手で頭を抱え込む。

 指の隙間からのぞく瞳は大きく揺れ、白い頬からも血の気が引いていた。


「……どうすればいいんだろう」


 掠れた声が、小さく部屋へ落ちる。


 フローラはアリスの隣で腕を固く組み、長く目を閉じて考え込んでいた。

 やがて重い息を吐くと、額に手を当てる。


「強制転移の術式なら……魔法陣の残滓から行き先を追えるわ」


(そう、いつもの転移なら追える。私はそれを何度も見てきた。けれど――)


「でも……」


 フローラは首を横に振り、唇を噛んだ。


(違う。これは“術式”じゃない。線も、痕跡も、解読の余地さえ残っていない。……どうすればいいの? こんな現象、記録にだって存在しない……!)


「今回は違う。痕跡が一切残っていない。術式としての形式を持っていない……」


 言葉を整えようとしても、その吐息にはわずかな震えが残っていた。


(まるで、世界の法則そのものが……歪められていた。そんなもの、私の知識じゃ、触れることすらできない……!)


 フローラは顔を上げた。


「……あれは、理そのものが歪んでいた」


 アリスの肩が小さく震える。

 両手は膝の上で固く組まれ、指先が白くなるほど力がこもっていた。


「そんな……じゃあ、手がないってこと?」


 フローラは答えず、再び視線を落とした。

 頭の中で、これまで扱ってきた術式や装置を一つずつ思い返していく。


(……待って)


 ふと、ひとつの存在が脳裏を過ぎた。


(《封印核》なら……)


 フローラは胸元へ手を当てる。

 そこにあるものを確かめるように、指先へ力が入った。


「……ひとつだけ、あるかもしれないわ」


 アリスが顔を上げる。

 それまで黙っていたレイリスも、フローラへ視線を向けた。


「方法が?」

「方法と言えるほど確実なものじゃないけれど……」


 フローラは一度息を整えた。


「《封印核》を使うの」

「《封印核》……?」


 アリスが目を瞬かせる。

 レイリスも何も言わず、続きを待っていた。


「異界や時間に生じる揺らぎを感知する機能があるの」

「本来の用途とは少し違うけれど、今回の現象に何らかの揺らぎが残っているなら、痕跡の断片を拾える可能性はあるわ」


(……理論上はできる。でも、それを使えば――)


 フローラは奥歯を噛み、長い沈黙のあと、小さくかぶりを振った。


「……ただ、危険です」


 アリスが息を呑む。


「揺らぎに触れれば、私自身が呑まれるかもしれない」


 その言葉に、アリスは椅子を軋ませるほどの勢いで身を乗り出した。

 両手を卓へつき、強く首を横へ振る。


「ダメ! そんな危険を背負わせられない!」

「アリス」


 レイリスの声が重く響いた。


 アリスは言葉を止め、レイリスを見る。


「我々には時間がありません」

「……でも」

「……あの現象が偶発的なものであれば、行き先を辿る糸はすぐに途切れるでしょう。術式であれば痕跡が残る。しかし――今回は残っていない」


 レイリスは一度言葉を切った。


「それでも、何らかの揺らぎが残っている可能性があるのなら、今のうちに探る必要があります」


 アリスは唇を噛んだ。


「危険でも、手を伸ばすしかないのです」


 部屋が静まり返る。


 フローラは長い沈黙のあと、重く瞼を閉じた。

 深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。


 やがて瞳を開いた。


「……やってみます」

「フローラ……」


「ただし、準備に時間が要るわ。最低でも一晩は……」


 アリスは何かを言いかけ、それでも最後には小さく頷いた。


「……分かった。でも、本当に危ないと思ったらやめてね」

「ええ」


「レティシアを探すために、今度はフローラまでいなくなったら意味ないから」


「……約束するわ」


 そこでレイリスが口を開いた。


「では、その間にもう一つ決めておく必要があります」

「何を?」

「仲間たちにどう説明するかです」


 アリスの表情が変わる。


「……“レティシアが光に呑まれて消えた”と、そのまま伝えれば混乱を招きます」

「総督が突然いなくなったとなれば、兵たちの動揺も避けられません」


 フローラも小さく頷いた。


「隠し続けることもできないわね。巡回や指揮でレティシアが姿を見せなければ、すぐに気づかれる」

「でも……嘘はつきたくない」


 アリスは視線を落とした。


「何が起きたのか分からないのに、“すぐ戻る”なんて言えないよ」

「では、“何らかの転移現象に巻き込まれた可能性があり、現在行き先を調査している”と伝えるのはどうでしょうか」


 レイリスの提案に、フローラが顔を上げる。


「それなら、今分かっている範囲から外れないわね」

「はい。帰還できるかどうかについても断定しません」

「それでも、ただ“消えた”とだけ伝えるよりは混乱を抑えられるでしょう」


 アリスは二人の顔を交互に見た。


 しばしの沈黙のあと、ようやく小さく頷く。


「……分かった。まずはフローラの準備を待つ」

「その間、私もみんなが混乱しないように動くよ」


 アリスは腰へ手を添えた。


 そこにあるのは、《フレア=アリア》。

 本来なら今頃、レティシアの腰に収まっているはずだった剣だ。


(……絶対、戻ってきてよ)


 声には出さない。


 フローラは小さく頷き、椅子から立ち上がった。


「……では、準備をしてきます。《封印核》との同調は容易ではありません。一刻も早く取りかかるべきでしょう」


「フローラ、本当に……」


 アリスが思わず身を乗り出す。


 言いかけた、その時だった。


 ――ガンッ!


 厚い扉が激しい音を立てて開け放たれた。

 鈍い衝撃が狭い部屋へ響き、卓上のランタンの火が大きく揺れる。


「っ……!」


 アリスは反射的に立ち上がり、腰の《フレア=アリア》へ手を伸ばした。

 レイリスもすでに半歩前へ出て、鋭い眼差しを扉へ向けている。


 フローラも動きを止め、入口を見た。


 開け放たれた扉から冷たい空気が流れ込む。


 その向こうに――人影が立っていた。

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