第十五部 第三章 第15話
――光が収束していった。
まぶたを刺していた白がやわらぎ、レティシアは反射的に足を踏み出した。
靴底が何かに触れた感触はあるものの、先ほどまでいた要塞の冷たい石床とは明らかに違う。
視界が戻るにつれ、上下左右すべてを満たす深い蒼が姿を現した。
夜空にも似た空間には無数の光が浮かび、星座を描くように連なっては、ゆっくりと形を変えている。
(……ここは……?)
レティシアは立ち止まり、周囲へ視線を巡らせた。
要塞の廊下も、アリスも、フローラも、レイリスもいない。
腰へ手を落とす。
そこには、先ほどまでと変わらず《ルミナ=コード》の同調鞘があった。
(剣はある……)
胸元へ視線を落とせば、深紅の軍装にも異常はない。
肩の小型プレート、革手袋、腰のベルト、背中の純白のマントも、そのままだった。
問題は、自分がどこへ飛ばされたのか。
そして――何が自分だけをここへ連れてきたのか。
レティシアがわずかに重心を移すと、身体が予想以上に軽く浮いた。
慣れた地面とは異なる感覚に、すぐさま足幅を調整する。
(……重力まで違うのか)
そのときだった。
視界の先に、人影がある。
数人の若者たちが、揃ってこちらを見ていた。
誰もが明らかに驚いており、警戒を隠そうともしていない。
レティシアは無意識に背筋を伸ばす。
右手は剣へ届く位置へ置いたまま、相手の人数と立ち位置を確認した。
敵意はある。
だが、今すぐ斬りかかってくるほどではない。
その判断を終えた直後だった。
「――え?」
最初に声を漏らしたのは、少女だった。
「うそ……なんで。……あの剣……ねえ、誰か、冗談だって言って……」
(……剣?)
レティシアは一瞬だけ《ルミナ=コード》へ意識を向ける。
「ま、待って……あれって、アリス……?」
(……アリス?)
聞き慣れた名前に、レティシアの意識が一気にそちらへ向いた。
なぜ、この者たちがアリスを知っている。
「背格好も……立ち方も、似てる。でも……違う。雰囲気が違いすぎる。あんな圧……アリスから感じたこと、ない……」
少女――レティアは、明らかに自分とアリスを比較している。
だが、次の言葉がすぐに否定を重ねた。
「いや……でも髪の色が、顔が違う」
端末を持った青年が、こちらを注意深く観察している。
「骨格が微妙に違う。魔力波形はかなり近いが、まったくの同一じゃない。擬態か、同系統の存在か……少なくとも、俺たちの知ってるアリスそのものじゃない」
(ふむ……冷静だな)
レティシアは小さく感心した。
突然現れた正体不明の相手を前にしながら、外見だけで判断せず、魔力波形まで確認している。
しかも――かなり近い。
(私とアリスの魔力波形が近いことまで分かるのか……)
「偶然……にしては似すぎてるけど、別人……なのか?」
別の青年が低く呟く。
「背格好も、立ち方も、纏ってる空気も……似てる。いや! そのものだ。でも……違う。あんな目、俺は知らない。あいつは、あんな風に人を見ない」
(そこまで似ているのか、私たちは)
アリスと自分は同じ顔ではない。
体格も骨格も完全には一致しない。
それでも、立ち方や仕草まで似て見えるらしい。
以前から感じていた奇妙な近さを、第三者から突きつけられた気がした。
「……目が、違う」
最初の少女が、小さく息を呑む。
「アリスは、あんな風に光を閉じない。怒ってても、真剣でも、どこか温度がある。でもあれは……底が見えない」
(……そこまで言われるほど怖い顔をしているつもりはないんだが)
レティシアは内心で苦笑する。
だが、今の自分が警戒しているのも事実だった。
「他人の空似……で済ませられるなら、どれだけ楽か」
端末を持った青年が再び口を開いた。
「……波長が近すぎる。偶然で説明できる領域を超えてる。別人なら、意図的に似せている。あるいは――」
「あるいは?」
「……同じ系譜の存在だ」
(同じ系譜……か)
否定する材料も、肯定する材料もない。
レティシア自身、アリスとの関係をまだ説明できていないのだから。
それよりも今は、自分がどこへ来たのかを確認する方が先だった。
「……君たち、ここがどこか知らないか?」
問いかけると、一行の緊張がさらに強くなった。
レティシアは気にせず、彼らの装束へ視線を移す。
見覚えのない仕立てが多い。
ただ、その中に一つだけ妙に見覚えのある意匠があった。
「それと……なんだ。妙な格好をしているな。あまり見かけない装束だ。……ふむ? 彼女の格好に似ているな」
(あれは……)
アリスが身につけていた装備によく似ている。
胸の奥に、ひとつの可能性が浮かんだ。
(まさか……ここは)
レティアが一歩前へ出た。
「ここは……王立魔導学院が管理する、ダンジョンの第四層出口付近です。私たちは探索演習の最中で――」
(第四層……?)
その言葉に、レティシアの思考が止まった。
王立魔導学院。
ダンジョン。
探索演習。
どれも自分の時代には存在しない。
だが――アリスから聞いている。
(……そうだ。アリスが話していた)
学院での生活。
仲間たちとの演習。
そして、何層にも分かれたダンジョン。
それだけではない。
(アリスは言っていた……仲間たちがダンジョンの第四層にある星空の空間で、“レティシア”と名乗る人物に会ったと……)
レティシアは周囲へ視線を巡らせる。
星空。
第四層。
目の前にいる、アリスを知る者たち。
(……まさか)
胸の奥に、ひとつの疑問が浮かぶ。
(アリスが聞いたという“レティシア”は……私なのか?)
まだ断定はできない。
だが、偶然で片づけるには条件が重なりすぎていた。
「……ダンジョン、だと? ふむ、そう呼ぶのか。ここを?」
「学院……魔導……」
(では……ここはアリスの時代なのか?)
もしそうなら、自分をアリスと見間違えたことも説明できる。
彼らはアリス本人を知っている可能性が高い。
「奇妙だな。どうにも、私の記憶と一致しない……。いや、そういえば――」
レティシアはそこで言葉を止めた。
アリスから聞いた第四層の話。
そして、自分の知る歴史とアリスたちの未来が、必ずしも完全には一致しないこと。
「ああ……彼女が言っていたのは、このことか……」
声は自然と小さくなった。
(私の知る未来と、アリスたちが生きる未来にはズレがある)
(それに……もし本当に今の私が、アリスから聞いた“第四層のレティシア”なのだとしたら……)
話の前後が、少しずつ繋がり始める。
「認識のズレ……? まさか、別時代、あるいは……」
端末を持った青年が何かを考えている。
だが、レティシアはそちらへ答えを与えず、改めて周囲を見渡した。
視界いっぱいに広がる星々が目に入る。
改めて観察すると、それは単なる装飾には見えなかった。
星の配置には見覚えがあり、知っている天体をいくつも見つけることができる。
「……この部屋、というのか。ここの星空はとてもきれいだな」
つい先ほどまでの警戒が、少しだけ薄れる。
「……あれはアンドロメダ大星雲かな。ふむ、あちらには火星。あ、金星……いや、木星もあるか? ほう、あれは……」
気づけば指を差していた。
見覚えのある天体が次々と見つかる。
距離感も配置も奇妙だが、星そのものは自分の知るものとよく似ている。
(面白い……)
そして、もう一つ気になるものがある。
「うん? 重力が……なるほど、これは月面並みに低いな」
レティシアは試すように軽く床を蹴った。
身体がふわりと持ち上がる。
白いマントと赤いローブが遅れて広がり、通常よりゆっくりと身体が床へ戻っていく。
「これが……月面浮遊か。ははっ、面白い!」
思わず笑い声が漏れた。
(これは凄いな……!)
戦場でも要塞でも経験したことのない感覚だった。
未知の現象を前にすると、どうしても知りたいという気持ちが先に立つ。
そこで、周囲の視線に気づいた。
「……ああ、すまない。つい、ひとりではしゃいでしまったな」
レティシアは黒髪の前髪を指先で払う。
「珍しい景色でね。いや、それだけじゃない。……懐かしいものを、久しぶりに見られた気がしてな。どうにも胸がざわつく」
星々を見ていると、なぜか強い既視感がある。
初めて訪れた場所のはずなのに、完全に知らない場所とも思えなかった。
(それに……もしここがアリスの時代だとすれば)
この者たちは、レティシアにとって三百年後を生きる者たちということになる。
自分が知る世界とは異なる歴史の上に立つ者たち。
そう考えるほど、目の前の光景が現実味を増していった。
「すまんが、君たちは――どちらから来たのかな?」
レティアが、自分たちの背後を指差した。
「……向こうからです」
淡い光が連なる星空の道が、遠くへ続いている。
レティシアはその先を目で追った。
「この星空が続くのか……。では、その先に何かあったか――教えてもらえないだろうか?」
「……はい。そこは、ダンジョンの第三層出口です」
(第三層……そして、ここが第四層)
やはり、アリスから聞いたように階層構造になっているらしい。
だが、そのどれもレティシア自身の記憶には存在しない。
「ふむ……また、記憶にない場所か。これは完全に迷い込んだな」
困った状況ではある。
だが、今のところ自分を襲う者はいない。
そして何より、自分が現れた場所にはまだ光の門が残っている。
「しかたがない。元来た道に戻るか……」
あれが帰路かどうかは分からない。
それでも、ここで何もせず立ち止まっているよりは確かめるべきだった。
「君たち、ありがとう。とても助かった。早く戦場から――いや、ここは戦場ではないな」
口にしてから、自分でも気づく。
(……すっかり染みついているな)
要塞攻防戦からすでに一週間以上が経っている。
それでも戦時下の要塞で過ごす日々は続き、周囲をまず「戦場」として捉える感覚が抜けていなかった。
「魔国軍が攻めてくる前に……自分たちの“場所”に戻りなさい」
(……いや、もし本当に三百年後なら、魔国軍がここへ攻めてくるはずもないか)
言ってから気づいたが、今さら訂正するのも妙だった。
レティシアは光の門へ向かう。
ここへ来たときとは違い、今は自分がどこにいる可能性があるのか、わずかながら見当がついている。
「――すみません。失礼ですが、お名前をお聞かせ願えませんでしょうか!」
背後からレティアの声が届いた。
(よく通る声だな)
レティシアは足を止める。
先ほども、自分が現れた直後の混乱の中で真っ先に前へ出て説明した。
緊張していても、必要なことを口にできる。
(指揮を任せても動けそうな子だ)
ゆっくり振り返る。
黒髪が肩の上で揺れ、星空の光を淡く反射した。
「自己紹介……していなかったか。それは失礼した」
そういえば、こちらは質問ばかりして名乗っていない。
「私は――人族連合軍総督、レティシア・ファーレンナイト。以後お見知りおきを」
名乗ると、一行の表情が再び変わった。
レティシアはそれを見ながら、ふと先ほどから前に立って話していた少女へ目を向ける。
「……そういえば、君の名は?」
少女は一瞬だけ息を詰め、それでもすぐに答えた。
「レティア・エクスバルド、と申します」
(……エクスバルド?)
レティシアの意識が、その姓へ強く引かれた。
知っている。
忘れるはずがない。
数え切れないほど同じ戦場に立ち、鉄壁の結界で仲間たちを守り続けた一人の女性。
セリオナ・エクスバルド。
(まさか……セリオナの……?)
同じ姓が偶然という可能性もある。
ここが本当にアリスの時代だという確証も、まだない。
それでも、三百年後という言葉が頭を過ぎった。
(……名前が残っているんだな)
理由も分からないまま、少し嬉しくなる。
「……エクスバルド、か。なるほど……レティア、いい名だな」
それ以上は聞かなかった。
今ここで確かめるべきことではない。
もし本当に三百年後なら、知らない方がいいことまで知ってしまう可能性もある。
レティシアはもう一度、光の門へ向き直った。
(アリス……)
腰には《ルミナ=コード》がある。
この剣を借りたまま消えた以上、アリスは間違いなく心配しているはずだった。
(早く戻らないとな)
一歩、光の中へ踏み込む。
白と蒼の粒子が視界を覆い、レティアたちの姿が次第に見えなくなっていく。
最後に残ったのは、レティア・エクスバルドという名前だった。
(……三百年後、か)
その言葉を胸の中で反芻しながら、レティシアは光の向こうへ進む。
やがて周囲の景色が完全に白へ塗り替えられた。
――そしてレティシア・ファーレンナイトは、その門の向こうへと消えていった。
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