第十五部 第三章 第9話
夜。
要塞の広間には燭台の灯りが揺れ、戦勝を祝う兵士たちの声が響いていた。
揺らめく炎が石壁へ幾つもの影を映し、昼間まで激戦が続いていた場所とは思えないほど穏やかな空気が広がっている。
長机には簡素ながらも温かな料理が並び、木製の器から立ち上る湯気と香りが広間を満たしていた。
疲れ切った兵士たちは肩を寄せ合いながら食事を取り、誰かが笑えば、その声につられるように別の場所からも笑い声が上がる。
「乾杯!」
杯を掲げる声が重なり、広間は大きな拍手と歓声に包まれた。
木杯同士がぶつかる軽い音があちこちから響き、兵士たちは今日という一日を無事に終えられたことを喜び合っている。
アリスは広間の隅に座り、目の前に置かれたシチューから立ち上る湯気をぼんやりと眺めていた。
温かな香りも、周囲から聞こえる笑い声も確かに現実なのに、頭の中にはまだ昼間の戦場が残っている。
(……やっぱり、これって……)
敵軍の動きも、要塞を狙った奇襲も、自分が知っている記録とあまりにもよく似ていた。
そして今、自分の知る記録には存在しなかったはずの祝勝会が、目の前で開かれている。
(ここは本当に三百年前で……今日の戦いも、私が知ってる要塞攻防戦だったんじゃ……)
以前なら、すぐに自分で否定していたかもしれない。
だが、ここまで一致するものを見せられれば、さすがに偶然だと言い続ける方が難しくなっていた。
(……これが、本当に要塞攻防戦のあとなんだ……)
そう考えた瞬間、昼間の光景が脳裏へ蘇る。
崩れなかった要塞も、笑っている兵士たちも、そして生きているオルトも、自分が知っている記録とは違っていた。
「……アリス!」
「ひゃっ!?」
突然名前を呼ばれ、アリスは思わず肩を跳ねさせた。
顔を上げると、杯を手にしたレティシアがすぐ近くに立っている。
「そんなに驚くことないだろ」
「ご、ごめん。ちょっと考え事してて……」
レティシアは小さく笑うと、そのままアリスの隣へ腰を下ろした。
「君のおかげで、この要塞は守られた。ありがとう」
「い、いや……私だけじゃないよ。みんなが戦ったから――」
「それでも、最後に要塞を守ったのは君だ」
レティシアがそう言った直後、近くにいた兵士が勢いよく振り返った。
「そうだぞ! すごかったじゃないか!」
「まるで光の戦乙女だったな!」
「俺は本気で、レティシア様が二人になったのかと思ったぞ!」
「そ、それは……!」
アリスの頬が一気に赤くなる。
周囲から笑い声が上がり、別の兵士まで立ち上がって杯を掲げた。
「要塞を守った二人の白銀に乾杯!」
「だから、私はレティシアじゃ……!」
そこまで言いかけたアリスだったが、楽しそうに笑っている兵士たちを見て続きを飲み込んだ。
今さら必死になって訂正するのも違う気がして、結局シチューへ視線を落とす。
《ふふっ。完全に英雄扱いじゃん》
(フローラまでやめてよ……!)
《だって、本当のことでしょ》
(恥ずかしいの!)
アリスが小さく唇を尖らせると、隣にいたレティシアが不思議そうに首を傾げた。
「どうした?」
「な、なんでもない!」
慌ててシチューを口へ運ぶアリスを見て、レティシアはとうとう声を上げて笑った。
戦場で見せていた鋭さはすっかり消え、今は年相応の少女のような笑顔を見せている。
「今日ここにいる全員で勝ち取った勝利だ。今夜くらいは、素直に喜ぼう」
「おおっ!」
その声に応えるように、広間は再び歓声に包まれた。
アリスも困ったように笑いながら、周囲に合わせて小さく杯を掲げる。
今日の勝利を喜んでいいのか、それとも知っている歴史と違う結果になったことを恐れるべきなのか、まだ答えは出ていない。
それでも、目の前で笑っている人たちを見ていると、少なくとも今だけは、この光景を否定したくなかった。
祝勝会が終盤へ近づく頃には、広間を満たしていた声も少しずつ落ち着き始めていた。
酔いつぶれて机へ突っ伏す者や、仲間に肩を貸されながら部屋へ戻っていく兵士も増え、先ほどまでの熱気がゆっくりと引いていく。
アリスは広間を出ると、人の少なくなった石造りの廊下をゆっくりと歩いていた。
窓から差し込む月明かりが床へ細長く伸び、昼間の戦場とはまるで違う静けさが要塞を包んでいる。
「アリス」
後ろから呼ばれ、アリスは足を止めて振り返った。
そこには祝勝会を抜けてきたレティシアが立っている。
「少し、話さないか?」
「……うん」
二人は廊下の先にある小さな部屋へ入った。
窓の外には要塞を囲む森と夜空が広がり、遠くでは見張りの兵士たちが持つ灯りがゆっくりと動いている。
「……静かになったな」
レティシアは窓辺に立ち、しばらく夜空を見上げていた。
アリスはその背中を見つめながら、何度か言葉を探したあと、ようやく口を開く。
「レティシア……私、話しておきたいことがあるの」
レティシアが振り返った。
「なんだ?」
アリスは両手を軽く握り、一度だけ息を整えた。
「私が知ってる記録では……今日、この要塞は陥落してる」
「……やはり、そうなのか」
「え?」
思っていたより驚きの少ない返事に、アリスの方が目を瞬かせた。
「前に君から三百年後の話を聞いたときから、何かあるとは思っていた」
「……レティシア」
「続けてくれ」
レティシアの表情は真剣だった。
アリスは小さく頷き、記憶の中に残っている記録を思い返す。
「記録では、あなたたちはこの戦いで敗れて、要塞も失われてる。それに……オルトも……」
そこで言葉が止まった。
レティシアの表情から、先ほどまで残っていた笑みが消える。
「オルトが、どうなる?」
「……戦死してる」
「……そうか」
短い返事だった。
レティシアは窓の外へ視線を戻し、しばらく何も言わなかった。
アリスも黙ったまま待った。
何かを言って慰めるような場面ではない気がして、ただその背中を見つめる。
「……オルトが、か」
「うん……」
「今日の戦いで?」
「記録が正しければ……そう」
レティシアは目を閉じた。
ほんの少しだけ長い沈黙のあと、再び目を開く。
「だが、今日は生きている」
「……うん」
「要塞も残っている」
「うん」
レティシアが振り返った。
「つまり、少なくとも君が知っている三百年後の記録とは、違う結果になったということだな」
「……そうだと思う」
アリスは自分の手を見下ろした。
昼間、《ルミナ=コード》を握っていた感触がまだ手の中に残っているような気がした。
「私が戦ったから……変わったんだと思う」
「歴史が?」
「……たぶん」
言葉にすると、改めてその重さを感じた。
もし本当にここが三百年前で、今日があの要塞攻防戦だったのなら、自分はすでに知っている歴史とは違う結果を生み出してしまったことになる。
「……ごめん」
思わず出た言葉に、レティシアが眉を寄せた。
「なぜ謝る?」
「だって……私が勝手に戦ったから」
「それでも、今日ここを守ったことを後悔しているのか?」
「……それは、してないけど」
「なら、謝る必要はない」
レティシアは窓辺を離れ、アリスの前まで歩み寄った。
「今日、守れた命がある。オルトも生きている。それが今、私たちの目の前にある結果だ」
「でも……この先、何が変わるか分からないよ」
「ああ。分からない」
レティシアは否定しなかった。
「私が知ってる歴史とは、これから先もどんどん違っていくかもしれない」
「そうだろうな」
「それが良い方向なのか、悪い方向なのかも分からない」
アリスは少し俯いた。
「私が余計なことをしたせいで、もっと悪い未来になったらって考えると……怖い」
レティシアはすぐには答えなかった。
やがてアリスの肩へ手を置き、ゆっくりと言葉を返す。
「だが、分からない未来を恐れて、今日救えた命を見捨てる方が私にはできない」
アリスは顔を上げた。
「君は三百年後から来た。そして君が知る歴史と、今日起きたことは違っている」
レティシアは迷わず言い切った。
レティシアの中では、アリスが三百年後から来た人物であることは、すでに疑う段階を過ぎている。
「なら……未来もまた、変わるのか?」
普段のレティシアより、少しだけ弱い声だった。
何かを恐れているというより、今まで考えたことのなかった可能性を初めて手にしたように聞こえた。
アリスはすぐには答えられなかった。
「……分からない」
「そうか」
「でも……」
アリスは窓の外へ目を向けた。
要塞の灯りが夜の中に点々と浮かび、今日を生き延びた人々の声が遠くから聞こえてくる。
「少なくとも、私が知ってる記録には……今日ここで私が戦ったなんて書いてない」
「だろうな」
「それなのに私はここにいて、要塞も残ってるし、オルトも生きてる」
アリスは自分の手を見下ろし、ゆっくりと握った。
「だから……変えられるんじゃないかなって、私も思い始めてる」
レティシアの表情が僅かに緩んだ。
「……そうか」
「ただ、何でも好き勝手に変えていいとは思ってないよ」
「ああ。それは私も同じだ」
レティシアは再び窓の外へ目を向ける。
「それでも、変えられる可能性があるのなら……私は、救えるものを救いたい」
レティシアは静かに、迷わず言い切った。
アリスはその横顔を見つめる。
レティシアはしばらく夜空を眺めていたが、やがて小さく息を吐く。
「もし本当に未来を変えられるのなら、私はその可能性から逃げたくない」
「レティシア……」
「歴史にそう書かれているからと、失うものを黙って見ているつもりはない」
その言葉を聞き、アリスは胸の前で手を握った。
「……でも、私でいいのかな」
「何がだ?」
「私は偶然ここに来ただけだよ」
アリスは少し困ったように笑う。
「あなたたちみたいに、この時代をずっと生きてきたわけじゃないし……私が知ってることだって、全部じゃない」
「……」
「そんな私が、これからのことにまで口を出していいのかなって」
言い終えると、部屋に短い静寂が落ちた。




