第十五部 第三章 第1話
兵士たちの労いを受け、場の熱気が少し落ち着いた頃。
先ほどまで満ちていた緊張と高揚がゆっくりと解けていき、戦いの余韻だけが静かに訓練場へ残っていた。
耳に届く声も次第に落ち着きを取り戻し、吹き抜ける風が舞い上がった砂を少しずつ運んでいく。
抉れた地面や無数の足跡だけが、先ほどまでの激突の激しさを残していた。
レティシアは水を飲み干し、タオルを兵士へ返すと、そっとアリスの腕を取った。
その手はまだ温かく、わずかに力が込められている。
「……来てくれ。少し、二人で話したい」
声は穏やかだったが、アリスに断る余地を与えるような雰囲気ではなかった。
周囲の兵士やナンバーズも一瞬だけ驚いたものの、誰も口を挟まない。
何人かが視線を逸らし、自然と二人から距離を取った。
「……あ、はい」
アリスは戸惑いながらも頷き、レティシアに導かれて訓練場を後にした。
腕を引かれる感触に、先ほどの戦闘が鮮明に蘇り、胸の奥に残る鼓動が少しだけ強くなる。
歩みを進めた先にあったのは、静かな小部屋だった。
扉を閉じると外の喧騒はほとんど聞こえなくなり、わずかな呼吸音さえ耳に残る。
レティシアは大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
「……はぁ……」
そして次の瞬間、その表情が一変する。
碧眼が輝き、堪えていたものが弾けたように満面の笑みを浮かべた。
「すごい! アリス、本当にすごいな!」
両手で自分の髪をかき上げながら、興奮したようにアリスへ詰め寄る。
先ほどまでの落ち着いた姿が嘘のようだった。
「まさか、ここまでの力を見せてくれるなんて……! あぁ、戦っていて……本当に楽しかった!」
声は弾み、まだ戦闘の余韻が抜けきっていないのか、呼吸も僅かに速い。
将として兵士たちの前に立っていた時とは違い、今は喜びを隠そうともしていなかった。
アリスはぽかんと、その姿を見つめてしまう。
目の前にいるのが、先ほどまで白銀の力を纏って剣を振るっていた人物と同じだとは思えないほどだった。
「レティシア……?」
レティシアは我に返ったように笑い、少し照れたように肩をすくめる。
「はは……さすがに、みんなの前ではさらけ出せないからな~」
そう言いながらも、頬は少し赤い。
それでも笑みだけは、どうしても隠しきれないようだった。
先ほどの戦いを思い出すたびに、また嬉しそうに口元が緩む。
全力でぶつかれる相手と剣を交えられたことが、ただ嬉しいのだとアリスにも伝わってきた。
《……アリス、見た? あのレティシアが、子どもみたいに喜んでるよ……!》
思念のフローラが楽しそうに笑い、アリスもつられて小さく笑みを零した。
その頃、訓練場にはナンバーズや兵士たちが残っていた。
戦いの余熱がまだ砂地に残り、風に煽られた砂が僅かに舞い上がっている。
足元には深く刻まれた足跡や抉れた地面が残り、少し前まで繰り広げられていた模擬戦の激しさを嫌でも思い出させた。
兵士たちも片づけを進めながら、何度となく荒れた訓練場へ視線を向けている。
その中の一人が、ふと思い出したように口を開いた。
「……で、イリア。まだアリスと模擬戦するつもりか?」
視線が一斉にイリア・フェンリスへと集まる。
赤髪の戦士は一瞬むっとした顔を見せた。
だが、すぐに先ほどの戦いを思い出したのか、顔を青ざめさせて両手をぶんぶんと振る。
「し、死んじゃう! 絶対死んじゃうって!!」
一瞬、訓練場が静まり返る。
次の瞬間、あちこちから爆笑が巻き起こった。
「はははっ!」
「イリアがここまで怯えるなんて!」
「そりゃあ……あの二人の戦いを見せられたらなぁ……」
笑い声が重なり、張り詰めていた空気が一気に柔らかくなる。
マリナが苦笑し、セリオナは呆れたように肩をすくめた。
エリシアとカティアは涙を浮かべて笑いながら、イリアの背中を軽く叩く。
「お、おい! 本気だぞ! 私は冗談で言ったんだってば!」
イリアが必死に弁解するほど、周囲の笑いは大きくなっていく。
先ほどまで二人の魔力に圧倒されていた訓練場が、ようやく普段の空気を取り戻し始めていた。
しばらくして笑いが落ち着くと、誰かが冗談めかして声を上げた。
「じゃあ……次は誰が挑戦する?」
一瞬で、場がしんと静まり返った。
ナンバーズと兵士たちが互いに顔を見合わせる。
だが、誰一人として手を挙げようとはしない。
「……」
「…………」
イリアは青ざめた顔のまま、全力で首を横へ振っている。
マリナは気まずそうに目を逸らし、セリオナは腕を組んだまま沈黙した。
エリシアとカティアも、先ほどまでの笑顔を僅かに引きつらせて俯く。
結局、誰も名乗り出なかった。
先ほどまでの爆笑が嘘のように、静けさだけが広がっていく。
砂を撫でる風の音が、妙にはっきりと聞こえた。
やがて誰かが、小さくため息をつく。
「……うん、誰もやらないな」
その一言に、また小さな笑いが漏れた。
緊張と笑いの入り混じった余韻が、しばらく訓練場に残っていた。
数日が過ぎ、要塞に流れる空気は再び張り詰め始めていた。
兵士たちの行き交う足音は増え、城壁の上では斥候からの報告が頻繁に飛び交っている。
それまで保たれていた静けさの中へ、少しずつ戦場の気配が入り込み始めていた。
アリスも、その変化を嫌でも感じ取っていた。
夕刻、執務室の扉が激しく叩かれた。
直後、伝令の兵士が慌ただしい足音とともに駆け込んでくる。
「失礼いたします! ――魔国軍の動き、確認されました!」
机に広げられていた地図へ視線を落としていたレティシアが、顔を上げる。
「……どの方面だ?」
兵士は荒い息を整えながら答えた。
「北東の前線――辺境砦を出た部隊が、森を迂回して進軍中との報告です!」
周囲に控えていたナンバーズとリディアの表情が一斉に引き締まった。
イリアがすぐさま立ち上がる。
「数は?」
「正確な数は不明ですが、斥候の報告では千を超える規模とのこと!」
室内に重い沈黙が落ちた。
先ほどまで地図の上を動いていた視線が、同じ一点へ集まっていく。
レティシアはゆっくりと立ち上がり、地図へ視線を落とす。
「……ついに来たか」
碧眼から、それまでの柔らかな色が消えた。
アリスと話していた時とは違う、将としての厳しい表情へ戻っている。
《……アリス、いよいよ大きく動きそうだね》
思念のフローラの声が胸奥で響き、アリスは無意識に背筋を伸ばした。
つい数日前までの穏やかな時間が、急に遠くなったように感じられる。
レティシアは僅かな間だけ地図を見つめ、すぐに顔を上げた。
「ナンバーズ――集まれ」
その声に応じ、イリア、マリナ、セリオナ、エリシア、カティアが即座に前へ進み出る。
つい数日前まで訓練場で笑っていた五人の顔から、すでに笑みは消えていた。
イリアは腰の装備へ手を伸ばし、マリナは必要な治療道具を確認する。
セリオナたちもそれぞれ動き始め、室内の空気が一気に出撃前のものへ変わっていった。
「アリス」
レティシアがふとこちらを振り返る。
「君は、今日は休んでいてくれ」
「えっ……でも――」
「無理をさせるつもりはない。君の力を今ここで使うより、万全の状態で残しておきたい」
アリスは何かを言い返しかけた。
だが、レティシアの表情を見て言葉を飲み込み、しばらく迷った末に小さく頷く。
「……わかりました」
胸の奥には、まだ引っかかるものが残っている。
それでも、自分を戦力として見たうえでの判断だということは理解できた。
ナンバーズたちは、すでに準備へ取りかかっていた。
装備を確認する者、必要な指示を周囲へ飛ばす者、それぞれが自分の役割へ切り替わっていく。
「行くぞ」
レティシアの短い一言に、五人が一斉に応じた。
リディアもその後に続き、やがて幾つもの足音が扉の向こうへ消えていく。
残されたアリスは、閉じた扉をしばらく見つめた。
先ほどまで大勢の気配があった部屋が、急に広くなったように感じられる。
《……ねぇアリス。休めって言われたけど……どうする? 本当にじっとしていられるの?》
思念のフローラが問いかける。
アリスは答えず、静かに握った自分の手を見つめた。
指先へ少しずつ力が入っていく。
与えられた部屋へ戻ると、アリスは椅子に腰を下ろした。
窓から差し込む夕日の光が、室内を橙色に染めている。
「……休め、か」
レティシアの言葉通りにしようと思っても、胸のざわつきは消えなかった。
(本当に……じっとしていていいのかな)
椅子からベッドへ移り、そのまま横になってみる。
だが目を閉じても、レティシアたちが向かった先のことばかり考えてしまう。
今頃どこまで進んでいるのか。
敵の規模は本当に千ほどなのか、それともさらに多いのか。
何も分からないまま待つ時間は、戦っている時とは別の意味で落ち着かなかった。
寝返りを打つたび、窓の外の光が少しずつ薄くなっていく。
時間だけが、ゆっくりと過ぎていった。
――コン、コン。
突然、扉が叩かれた。
アリスは反射的に身体を起こす。
「アリス様、失礼します!」
慌ただしい声とともに、兵士が駆け込んでくる。
荒い息と険しい表情だけで、ただ事ではないことが伝わってきた。
「レティシア様より直々に、アリス様を至急お呼びするようにと!」
アリスは跳ね起きた。
「わたしを……?」
兵士は大きく頷く。
「はい! 状況が急変し、すぐにでもご助力をと!」
その言葉を聞いた瞬間、アリスは《ルミナ=コード》を手に取った。
先ほどまで胸にあった迷いが、一気に消えていく。
《……やっぱり来たね。アリス、準備はできてるでしょ?》
思念のフローラの声に、アリスは深く息を吸い込んだ。
剣を握る手へ力を込め、兵士へ向き直る。
「……行こう」




