第十五部 第二章 第13話
翌日以降。
要塞の朝は早く、まだ冷たい空気の中で兵士たちが動き始める。
アリスが廊下を歩けば、その横にはレティシアの姿があった。
歩幅を合わせるその距離は近く、まるでそれが最初から決まっていたかのように自然だった。
訓練の合間でも、簡単な食事の席でも、報告や会議が終わった直後でも――時間があれば、レティシアは当然のようにアリスの隣へやってくる。
何の迷いもなく傍に立つその姿に、最初のうちはアリスの方が戸惑っていた。
その行動に、周囲の兵士やナンバーズも驚きを隠せなかった。
視線が集まり、ひそひそとした囁きが廊下や広間のあちこちで交わされる。
「……あのレティシア様が、あの娘と……?」
視線には困惑と好奇心が混じっていた。
それは単なる興味ではなく、見慣れない光景を前にした戸惑いでもある。
だが、日を追うごとにその光景は当たり前のものになっていった。
最初の驚きはやがて薄れ、繰り返される日常の中へ溶け込んでいく。
「……あぁ、また一緒か」
そんな声が聞こえるようになり、やがて誰も以前ほど驚かなくなった。
それほど自然に、レティシアはアリスを傍らに置くようになっていた。
《アリス……すごいね。このレティシアに、こんなに気に入られるなんて……もう完全に特別扱いされてるよ》
思念のフローラが楽しげに囁き、アリスは苦笑を堪えきれなかった。
(……ほんとに、どうしてこうなったんだろう……)
胸の内でこぼした言葉には、戸惑いと少しのくすぐったさが混じっていた。
何日もレティシアと共に過ごすうち、アリスの周囲に流れる空気は少しずつ変わっていった。
朝の訓練場でも、夜の食堂でも、視線の質が静かに移り変わっていくのを肌で感じていた。
最初は好奇の視線だった兵士たちも、次第に「彼女は特別な存在」と受け止め、やがて自然に距離を置くようになる。
無遠慮な視線は減り、代わりに一歩引いた敬意と警戒が混ざった空気が漂っていた。
近づきすぎず、だが無視することもない。
その絶妙な距離感が、かえってアリスの立ち位置を際立たせていた。
だが――逃げ場のないものが一つだけ残っていた。
避けようとしても、いずれ訪れることになる明確な“対面の時”。
「……アリス、そろそろ模擬戦をしようか」
レティシアがそう告げたのは、昼下がりの訓練場だった。
柔らかな陽光の中、その声だけが異様なほど鮮明に響く。
その場にいた兵士やナンバーズが一斉にざわめく。
張り詰めた期待と緊張が、一気に場へ広がっていった。
「レティシア様が直々に……!」
「相手は、あのアリス殿か……」
低く交わされる声が、周囲から次々と聞こえてくる。
誰もが二人の模擬戦に興味を隠せないようだった。
アリスは顔をひきつらせ、そっと思念でフローラに訴える。
背筋に冷たいものが走り、逃げ道を探したくなる。
《……ねぇフローラ、これ絶対断れないよね》
《うん。もう完全にロックオンされてるよ。ここまで来たらやるしかないと思う》
(……やっぱり、そうだよね……!)
逃げることはできない。
ならば、受けるしかない。
アリスは観衆の前に立ち、ゆっくりと剣の柄に手をかける。
指先に伝わる感触が、現実を強く引き戻した。
握りしめた瞬間、迷いが少しだけ消える。
代わりに湧き上がったのは、対峙する者としての集中だった。
正面に立つレティシアの瞳は、戦場での厳しさとは違う――期待と喜びを孕んだ輝きを宿している。
その眼差しには、アリスの力を確かめたいという強い興味が浮かんでいた。
「全力で来い、アリス」
「……はい」
応えた声はわずかに震えていたが、それでも確かに前を向いている。
空気が張りつめ、訓練場に緊張が広がっていった。
「――行くぞ!」
掛け声と同時に、レティシアが地を蹴った。
踏み込みの瞬間、砂が爆ぜる。
その一歩で間合いを一気に潰し、次の瞬間にはすでにアリスの懐へ踏み込んでいた。
鋭い斬撃が一直線にアリスへ迫る。
「はやっ――!」
思わず声を漏らしつつ、アリスは《ルミナ=コード》を抜き放ち、辛うじて受け止めた。
刃が交差した瞬間、衝撃が腕を突き抜ける。
ガァンッ!
金属がぶつかり合う音が訓練場に響き渡った。
重い衝撃に、アリスの腕が大きく痺れる。
足元の砂が抉れ、踏み締めたはずの地面が滑った。
アリスの身体がわずかに押し戻される。
「っ……く!」
すぐさま次の斬撃が迫る。
横薙ぎ、突き、振り下ろし――どれもが一切の隙を与えぬ猛攻だった。
刃の軌跡が次々と視界へ飛び込んでくる。
アリスはそのすべてを追いながら、必死に剣を合わせた。
(すごい……! これが、この人の剣……!)
必死に防ぎながらも、アリスの胸には震えるような高揚が走っていた。
速さだけではない。
一撃一撃が、そのまま次の攻撃へ繋がっている。
相手に立て直す時間を与えない、完成された流れだった。
《アリス! 油断しないで!》
(分かってる……!)
「はぁっ――!」
斬撃を受け止めた勢いで弾き返そうとする。
だが、レティシアはさらに一歩踏み込み、別の角度から追撃を重ねた。
押し返したはずの刃が、次の瞬間には再び迫ってくる。
足運びと重心移動が滑らかに繋がり、攻撃の流れが途切れない。
観衆の兵士たちが息を呑む。
視線が一斉に二人の動きを追っていた。
「すごい……レティシア様の攻撃を受け続けている……!」
「いや、まだ防戦一方だ……けど、耐えている!」
アリスは押し込まれながらも必死に剣を振るい続ける。
ほんの一歩でも大きく退けば崩れると理解しているからこそ、足を止め続けた。
腕が痛みを訴え、呼吸も少しずつ浅くなる。
それでも視線だけは逸らさない。
レティシアの剣は重い。
だが、それ以上に鋭く、速く、そして迷いがなかった。
受けるたびに、その動きが身体へ刻み込まれていく。
アリスは目の前の剣を必死に追い続けた。
(……負けられない……!)
胸の奥で燃え上がる意志を握り締め、アリスはさらに一歩踏み込んだ。
押されるだけでは終わらないと、自分自身に言い聞かせるように。
「まだ行けるな、アリス!」
レティシアの碧眼が強く輝き、踏み込みの鋭さが一段と増した。
足音が響いた直後には間合いが消え、刃が視界を切り裂いて迫ってくる。
アリスは反射的に《ルミナ=コード》を合わせた。
受け止めるたびに火花が散り、衝撃が全身を打ち抜く。
腕から肩、背中へと振動が伝わり、体勢がわずかに崩れた。
「くっ……!」
防戦一方。
誰の目にもそう映っていた。
押され、徐々に間合いを奪われていく。
だが次の瞬間、その流れがわずかに変わった。
アリスの瞳に決意の光が宿る。
揺れていた視線が、真っ直ぐレティシアを捉えた。
「……わたしだって、本気を出さなきゃ!」
その言葉と同時に、アリスは深く息を吸う。
意識を目の前の一撃へ集中させた。
《ルミナ=コード》が蒼白に輝き、刃の表面に魔力の紋が走る。
淡い光が脈打ち、周囲の空気を震わせた。
アリスの足が地を強く踏みしめる。
身体強化の魔力を一気に高め、剣へ重みと速度を乗せた。
全身を使い、レティシアの剣を弾き返す。
ガギィンッ――!
衝突音が一際重く響いた。
今までとは明らかに違う、押し返すための一撃だった。
「おぉ……!」
観衆が息を呑む。
流れが変わったことを、その場の誰もが感じ取っていた。
レティシアの刃を押し返し、逆に間合いを詰めたアリスが反撃へ転じる。
一歩踏み込み、さらに踏み込んだ。
「はっ――!」
連撃、突き、切り返し。
今度はアリスの剣が次々とレティシアへ迫る。
振り抜き、踏み込み、引き戻す。
すべての動きが次の一撃へと繋がっていく。
レティシアが嬉しそうに笑みを浮かべた。
アリスの剣を受け止めながら、その碧眼が楽しげに輝く。
「……そうだ、それでこそアリスだ!」
踏み込みを受け止めながらも、レティシアの剣はさらに速さを増していく。
応じるように速度と精度が引き上げられた。
両者の剣がぶつかるたびに火花が散り、訓練場全体を熱気が包み込んでいく。
「すごい……!」
「押し返したぞ!」
訓練場の周囲で見守っていた兵士やナンバーズがざわめき立つ。
声には興奮と驚愕が混ざり合っていた。
先ほどまで防戦一方だったアリスが、今はレティシアと真正面から剣を交えている。
金属の打ち合う轟音が響き、足元の砂が舞い上がった。
「……はぁっ!」
アリスの剣が閃き、レティシアの一撃を押し返す。
弾いた瞬間、刃の軌道が大きく逸れた。
その瞬間、アリスの髪が一瞬だけ白銀に揺らめいた。
光は儚く、だが確かにそこに存在していた。
「――っ!」
周囲の兵士たちが息を呑む。
それまで上がっていた声が、一瞬だけ止まった。
「……髪が……」
「まさか、今の……」
ざわめきが小さく、だが確実に広がっていく。
誰もが今見たものを信じきれず、それでもアリスから目を逸らせない。
白銀の光は一瞬で収まり、再び金の髪へと戻った。
まるで幻のように、すぐに消えていく。
だが確かに、その一刹那だけ白銀の力が表へ漏れ出していた。
レティシアも剣を構えたまま、その変化を見逃さなかった。
私室で見せてもらったものと同じ白銀の力が、今度は戦いの最中に僅かに現れている。
「……今、抑えていた力が出たな」
レティシアの口元が綻ぶ。
その声に初めて見たものへの驚きはなく、むしろ興味と喜びが滲んでいた。
碧眼はアリスから離れない。
どこまで力を残しているのかを確かめるように、その姿を見つめている。
《……アリス、少し漏れたね》
(……うん。見られた……!)
《でも、レティシアにはもう見せてるでしょ》
(それはそうなんだけど……みんなもいるから!)
アリスは周囲から集まる視線を感じ、僅かに頬を引きつらせる。
兵士たちのざわめきは、まだ収まる気配がない。
そんなアリスを見て、レティシアは楽しそうに目を細めた。
その笑みには、先ほどまで以上の期待が浮かんでいる。
「ふふっ……まだ余力がありそうだな、アリス」
碧眼が細められる。
そこに敵意はなく、続きを確かめたいという強い興味が宿っていた。




