第十五部 第二章 第12話
アリスの胸に、ふと一つの記憶が閃いた。
断片的だったはずの記憶が、不意に輪郭を持って浮かび上がる。
「――あ」
小さな声を漏らすと、レティシアが怪訝そうに首を傾げる。
その視線には、先ほどまでの緊張はなく、純粋な疑問だけが浮かんでいた。
「どうした?」
アリスは少し息を整え、言葉を選びながら続けた。
思い出した内容を、丁寧に手繰り寄せるように。
「……思い出しました」
「私がその場にはいなかったんですけど……仲間のレティアやリゼットたちは、レティシアと名乗る人に会っているんです」
その言葉に、空気がわずかに揺れる。
レティシアの表情が、はっきりと変わった。
「……何?」
短く返された声には、驚きと警戒が混じっていた。
同時に、否定できない何かを感じ取っているようでもあった。
「ダンジョンの第四層に、“星空の空間”があって……」
「そこで、みんなはその人と対面したんです」
アリスの声は静かだったが、確信を伴っていた。
記憶の中にある話を、一つずつ確かめるように言葉へ変えていく。
レティシアの碧眼がわずかに揺れ、息を呑む気配が伝わった。
まるで、何かに思い当たったかのように。
「……私に……会った……?」
その問いは、確認というよりも、自分自身への問い返しに近かった。
あり得ないはずの話を、受け止めようとしている。
アリスはすぐには頷かなかった。
一瞬だけ迷い、それから静かに首を横へ振る。
「……同じ人なのかは、私にも分かりません」
「でも、その人はレティシアと名乗っていて……私の仲間たちは、確かにその人と会っているんです」
レティシアは何も言わない。
ただ、アリスの言葉を一つも聞き逃さないように見つめていた。
「だから……本当にあなたなのかは、まだ分かりません」
「でも、レティシアと名乗る人が、私の仲間たちと会っていたことだけは確かです」
その言葉は、可能性を断定するものではない。
それでも、レティシアの表情は静かにほどけていった。
強張っていた頬の力が抜け、わずかに呼吸が緩む。
少なくとも、自分と同じ名を持つ誰かが、アリスの仲間たちと出会っていた。
その事実だけでも、今のレティシアには十分だったのかもしれない。
碧眼の奥に、わずかな光が戻っていく。
《うん。それなら大丈夫。分からないところまで決めつけなくても、会ったっていう事実はちゃんと伝えられるよ》
思念のフローラが小さく笑い、アリスは胸の奥に温かいものを感じた。
自分の言葉が、確かに届いたという実感が静かに広がっていく。
アリスの言葉が途切れると、部屋の中にはしばし沈黙が訪れた。
重くはないが、確かに意味を持つ静けさが満ちていく。
レティシアは目を伏せたまま動かず――やがて、ゆっくりと顔を上げる。
その動作はとてもゆっくりで、ひとつひとつを確かめるようだった。
「……そうか……」
天を仰ぐように深呼吸したレティシアは、しばらくそのまま静止していた。
胸の奥に渦巻いていた感情を、静かに整理しているかのように。
やがて視線を戻し、真っ直ぐにアリスを見つめる。
その瞳には先ほどまでの揺らぎが残りながらも、まっすぐな意思が宿っていた。
その碧眼には、戦場を導く将の鋭さではなく――人としての素直な想いが浮かんでいる。
飾らない感情が、そのまま表に現れていた。
「……ありがとう」
そう告げたレティシアは、しばしアリスを見つめ続けていた。
その視線には、言葉だけでは表しきれない感謝が滲んでいる。
だがやがて、ふっと目を細めて柔らかく微笑む。
その表情は、これまでのどの瞬間よりも穏やかだった。
「……今日は、ここまでにしよう」
碧眼にまだ揺らぎは残っていたが、それでも一つの区切りをつけるように静かに告げる。
「話してくれて感謝する。……今の私には、それで十分だ」
それ以上を問い詰めることなく、レティシアはそこで言葉を止めた。
アリスは小さく頷き、胸の奥に安堵と緊張が入り混じった息を吐く。
張り詰めていたものが、ようやく少しだけ緩んだ。
「……はい」
短い返事だったが、そこには様々な感情が入り混じっていた。
安堵と戸惑い、そしてどこか名残惜しさも残っている。
レティシアは椅子から立ち上がり、扉の方へ視線を向けた。
その仕草には、再び将としての落ち着きが戻っていた。
「休むといい、アリス。明日も……きっと話すことは尽きないだろう」
その言葉には、先ほどまでとは違う穏やかな期待が滲んでいた。
続きがあることを、自然に受け入れている。
その言葉に見送られながら、アリスは深く一礼し、部屋を後にした。
扉を閉めるその瞬間まで、背中にレティシアの視線を感じていた。
《……アリス、お疲れ。すごいよ、今日のやりとり……本当に特別な時間だったね》
思念のフローラが静かに労うように囁き、アリスは小さく笑みを浮かべた。
胸の奥に残る余韻が、ゆっくりと広がっていく。
部屋に戻ったアリスは、そっと扉を閉めた。
木扉が静かに閉じる音が、やけに大きく耳に残る。
途端に訪れる静寂に、肩の力が一気に抜ける。
張り詰めていた空気がほどけ、身体の奥から重さが抜けていく。
(……終わった……いや、まだ始まったばかりかもしれないけど)
胸の内で反芻する言葉には、安堵と不安が入り混じっていた。
ベッドの端に腰を下ろし、深く息を吐く。
吐き出した空気と一緒に、積み重なっていた緊張がゆっくりとほどけていく。
さっきまでの出来事が胸の奥でぐるぐると渦巻き、思考をまとめることすら難しい。
一つひとつの場面が鮮明すぎて、逆に現実感が薄れていく。
(まさか……あのレティシアに、抱きしめられるなんて……)
思い出した瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
頬に熱が上り、思わず両手で覆ってしまう。
指先までじんわりと熱が広がり、自分でも驚くほど顔が火照っていた。
《アリス、真っ赤だよ。あの時のこと思い出してるでしょ?》
(ち、違う!)
《何が違うの?》
(……もう!)
実際には何も声に出していないのに、誰かに聞かれてしまいそうな気がして、アリスはますます顔を伏せた。
ふと視線を横に向けると、机の上には水差しと灯火が置かれている。
規則正しく整えられた配置が、今は妙に目についた。
「……落ち着かなくちゃ」
小さく呟き、身体をベッドへ預ける。
力を抜いた瞬間、ようやく現実に戻ってきたような感覚があった。
天井を見上げると、レティシアの涙に揺れた碧眼が脳裏に浮かび、胸が締めつけられる。
あの強さの裏にあったものを思い出し、心が静かに揺れた。
(あの人も……ずっと、一人で抱えてきたんだ……)
その事実が、重く胸に残る。
《……ねぇアリス。かなり信頼されたと思うよ。次にどう向き合うかも大事だね》
フローラの声が柔らかく響き、アリスは深く頷いた。
「……うん。私も、ちゃんと向き合わなきゃ」
そう呟くと、アリスはベッドに横たわり、静かに瞼を閉じた。
布の感触が身体を包み込み、少しずつ力が抜けていく。
疲労と緊張に包まれながらも――心の奥には、確かな温もりが残っていた。
今日交わした言葉とレティシアの表情が、何度も静かに浮かんでは消えていった。
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