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第十五部 第二章 第8話

 和やかな雰囲気の中、料理の香りと笑い声が食堂に満ちていた。


 先ほどまでの緊張は嘘のようにほどけ、兵士たちの肩も自然と下がっている。

 誰もが束の間の安らぎに身を委ねていた。


 アリスもようやく肩の力を抜き、差し出された皿に手をつけることができるようになっていた。

 指先の強張りがほどけ、呼吸もわずかに深くなる。


 そのとき、向かいに座っていたエリシア・グランフォードが杯を置き、真っ直ぐにアリスを見据えた。


「一つ、聞いてもいいかな?」

「……はい」


 アリスは背筋を伸ばす。


「あなたは――戦えますか?」


 その声は厳しいものではなかった。

 ただ淡々と、しかし真剣だった。


 食堂のざわめきが、ほんの一瞬だけ静まる。

 アリスは喉がひりつくのを覚えながらも、ゆっくりと頷いた。


「……はい。多少の心得はあります」

「そうですか」


 エリシアは目を細め、小さく頷いた。


「ならば安心です。ここにいる以上、いずれは剣を取らざるを得ない場面もあるだろうから。……その覚悟があるなら、十分」


 その言葉に、周囲のナンバーズたちも小さく頷きを交わした。


《……やっぱりエリシア、現実的だね。強さを見る目も鋭い》

《うん……》


 思念のフローラの声に、アリスは深く息をついた。


 エリシアの問いに答えたアリスを、向かいの席からじっと観察していた者がいた。


 赤みを帯びた髪を後ろで束ね、闘志を隠さない瞳を持つ――イリア・フェンリスだ。

 彼女はにやりと笑い、椅子の背にもたれかかった。


「……へぇ、戦えるのか」

「えっ……」

「なら、いずれ模擬戦をやろうじゃないか。口で言うだけじゃわからないしな」


 アリスは思わず目を瞬いた。


(……なんだろう、この人……。笑ってるだけなのに、すごく強そう……)


「安心しなって。命を取り合うような真似はしないさ」


 イリアは豪快に笑い、肉の皿を軽く指で叩いた。


「だが剣を交えればわかる。どれだけの覚悟と力を持っているか。……あんたがここにいる理由も、少しは見えるかもしれない」

「……模擬戦……」


 アリスは息を呑み、イリアを見つめ返した。


《ほんとイリアらしいね。戦って確かめようとするところ、全然変わらない》

《……やっぱり、受けることになるのかな》

《たぶんね》


 イリアの挑むような視線を受け、アリスはしばし迷った。

 この場で即答するには、あまりにも話が早い。


 アリスは小さく息を整え、かろうじて笑みを作った。


「……ええ、そのうちに」

「ほぉ?」


 イリアは片眉を上げ、にやりと笑った。


「ま、いいさ。逃げたって思われたくなけりゃ、そのうち本当にやってもらうからな」


 周囲の兵士たちから小さな笑いが漏れ、場の緊張が和らいだ。


《うまく逃げたね、アリス。でも“そのうち”って言っちゃったら、もう逃げられないと思うよ》

《……言わなきゃよかったかも》


 アリスは心の中で肩を落とした。


 しばらくして、アリスはふと手を止めた。

 少し迷ったあと、遠慮がちに口を開く。


「あ、あの……。戦時下ですけど、一口ぐらいなら……お酒って、大丈夫なんでしょうか?」


 レティシアがわずかに目を瞬かせ、首を振った。


「すまない。この要塞には、そういう嗜好品は置いていない」


 アリスは小さく笑みを浮かべる。


「いえ……実は私が少しだけ持っているんです。一口ずつなら、皆さんに行き渡る量はあるかなと思って」

「それはいいな!」


 真っ先に声を上げたのは銀髪のフローラだった。


「ふふ……悪くないわね」


 レティシアも珍しく口元を緩め、静かに頷く。


 そしてクリスが杯を軽く持ち上げた。


「……一杯だけなら構わないだろう」


 落ち着いた口調とは裏腹に、その視線はアリスへ向けられたままだった。


《アリス、見た? クリス、ちょっと楽しみにしてる》

《……ほんとだ》


 アリスは思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。


「……では、少しだけ」


 アリスは立ち上がり、《インベントリア=ゼロ》へ意識を向ける。


 淡い光が瞬き、収納されていた一本の酒瓶が姿を現した。

 透き通る琥珀色の液体が瓶の中で揺れ、灯火を受けて煌めく。


「……!」


 食堂のあちこちから小さなざわめきが起こる。

 兵士たちはその光景に目を見開き、ナンバーズの面々も興味深そうに視線を向けた。


「これを少しずつ……皆さんで」


 アリスは微笑み、酒瓶を近くの兵士へ手渡した。

 琥珀色の液体が、順番に杯へ注がれていく。


「……ふむ、興味深い保管術だ」


 セリオナ・エクスバルドが目を細める。


「ありがたいわね、こういう場では格別だわ」


 マリナ・ヴァルステラが柔らかく笑い、杯を受け取った。


「よし、いただこうじゃないか!」


 イリア・フェンリスは豪快に笑い、すでに杯を掲げている。


 クリスは先ほどの静けさを崩さず、一言だけ口にした。


「……ふむ。では一杯だけ」


 だが、差し出された杯を受け取る手は妙に早かった。


《あはは、やっぱり待ちきれなかったんだ》

《……そんなに飲みたかったのかな》


 アリスは必死に笑いを堪えた。


 そのときだった。


 酒瓶が《インベントリア=ゼロ》から取り出された際に残った微かな魔力へ、レティシアの視線が吸い寄せられる。


「……っ!」


 彼女の瞳が大きく見開かれた。


 忘れるはずのない気配だった。

 かつて幾度も共に戦い、笑い合い、そして最後には別れた相手の魔力に、あまりにもよく似ている。


「……セリーネ……!」


 掠れた声とともに、レティシアの片目から涙がこぼれ落ちた。


「……レティシア様!?」


 すぐ近くにいたリディアが立ち上がり、彼女の肩に手を添える。


 ナンバーズの面々も手を止め、食堂に沈黙が広がった。


 レティシアは震える指先で、アリスの手元にある酒瓶を指した。


「……それは……」

「えっ、あ……これは、私が使っている保管用の魔導器から取り出したものですけど……」


 アリスは戸惑いながら答える。


 だがレティシアは強く首を振った。


「違う……」

「え……?」

「それを取り出した時の魔力……その気配は……?」


《……!》


 思念のフローラが息を呑む。


《アリス、それ……セリーネの魔力だよ。今の“クラリス”の……》

《え……?》


 アリスは意味を理解できず、ただ困惑したまま固まった。


 レティシアは涙を拭いきれず、肩をわずかに震わせている。

 リディアが心配そうに背を支え、その呼吸が落ち着くのを待った。


 やがて、レティシアはゆっくりと息を整えた。


「……懐かしい魔力だったの。忘れようにも忘れられない……。あの人の気配が、確かにそこにあった……」


 周囲の兵士やナンバーズは顔を見合わせ、誰も口を挟まなかった。


 重くなった空気の中、銀髪のフローラが静かに声をかける。


「……落ち着いた?」


 レティシアはゆっくりと頷き、涙の跡を拭った。


「……ああ。すまない、皆を驚かせてしまった」


 リディアは安堵の息を漏らし、席に座り直す。


 イリアが豪快に笑った。


「なぁに、誰にだって過去を思い出すことくらいあるさ! さぁ、続きだ続き!」


 その声に、兵士たちにも少しずつ笑みが戻っていく。


 レティシアは再び姿勢を正し、杯を持ち上げた。


「……では――乾杯を」

「乾杯!」


 杯が一斉に掲げられ、琥珀色の液体が灯火を受けて揺れた。


 それぞれが口に含んだ直後、あちこちから驚きの声が上がる。


「……っ! なんだこれは……!」

「うまい……信じられん、体の芯から温まる……」


 兵士たちの間から歓声が広がった。

 戦時下の食堂に、久しく聞かれなかった明るい声が満ちていく。


「……芳醇で、それでいて喉にすっと入る。こんな酒、飲んだことがない」


 セリオナ・エクスバルドは感嘆を隠せない様子で杯を見つめた。


「ふふっ、戦の最中に口にするなんて贅沢ね。……でも悪くないわ」


 マリナ・ヴァルステラは柔らかな微笑みを浮かべ、もう一度杯を唇へ運ぶ。


 イリア・フェンリスは豪快に喉を鳴らし、口の端を上げた。


「くぅ~っ! これだ、これだ! 戦の疲れも吹っ飛ぶぜ!」


 カティア・ルヴェールは目を輝かせ、アリスへ身を乗り出した。


「ねぇねぇ、これ、まだ隠してるんじゃない? もう一本くらい出してくれてもいいんだよ?」

「えっ、い、いえ、それは……」


 困惑するアリスに、周囲からどっと笑いが起きた。


 その笑い声を聞きながら、レティシアはそっと杯を見つめる。

 ほんのりと赤らんだ頬に、先ほどまでの涙の影はもうほとんど残っていなかった。


《……よかった。少し落ち着いたみたい》

《……うん》


 アリスも小さく息を吐き、ようやく自分の杯へ視線を落とした。

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