第十五部 第二章 第7話
食堂に足を踏み入れた瞬間、アリスの存在にざわりと空気が揺れた。
温かく満ちていた喧騒が一瞬だけ揺らぎ、意識が一点に集まる。
兵士たちが一斉に視線を向け、見慣れぬ姿に驚きと好奇心を隠さず、囁きが小さく広がっていった。
その中で、ひときわ強い視線がアリスを捉えた。
長卓の中央、堂々と座していたレティシアだ。
黒髪を結い上げたその姿は静かでありながら、周囲とは明らかに違う存在感を放っている。
碧眼がアリスを見つめ、やがて片手を軽く上げた。
「――こちらへ」
その声に、兵士たちがざわつきながらも道を開ける。
アリスは戸惑いを隠せないまま歩みを進めた。
《ひゃー……アリス、すごい注目されてるね。しかも、みんなの前で堂々と呼ばれちゃった》
思念のフローラが茶化すように囁き、アリスは心の中で「静かにして!」と突っ込みを入れた。
レティシアの隣には空席が用意されており、その椅子を指し示すように視線が落ちる。
「ここに座るといい」
周囲の視線が集まる中、アリスはぎこちなく頷き、指定された席に腰を下ろした。
椅子に腰を下ろした瞬間、アリスの胸が強く締めつけられた。
息を吸うことさえ、一瞬だけ忘れそうになる。
長卓を挟んだ右手側の列、その先頭には堂々とした気配を放つリディア。
反対側の列の先頭には、穏やかな微笑を浮かべる銀髪のフローラ。
そして、そのさらに先には――懐かしい顔ぶれが並んでいた。
記憶の底から浮かび上がる、忘れられない輪郭だった。
(……ナンバーズ……!)
レティシアの記憶に残る、ワルキューレを託された精鋭たち。
戦場で幾度も肩を並べ、互いの命を預け合った仲間たちと、名前も姿も重なって見える。
誰もが真剣な眼差しを宿しつつ、同時にアリスへ不思議な興味を向けている。
見知らぬ存在を見る目でありながら、どこか気になるものを見つけたようでもあった。
その懐かしい光景に、アリスの胸の奥から込み上げるものがあった。
――ただ。
そこにいるはずの姿だけがなかった。
(……セリーネ……やっぱり、いない……)
欠けた存在の影が、余計に強くアリスの心に浮かび上がる。
胸の奥に、小さな痛みが残った。
《……懐かしい顔ばかりだね。でも……やっぱり、セリーネはいないんだ》
思念のフローラが静かに呟き、その声にもわずかな寂しさが混じっていた。
温かな料理が並べられ、兵士たちの談笑と食器の音が食堂を満たしていた。
湯気と香りが立ち上り、張り詰めていたアリスの緊張をわずかに和らげていく。
アリスは出されたスープを口に運ぶ。
だが味を確かめるよりも、心を奪ったのは卓を囲む顔ぶれだった。
リディアとフローラ。
そしてさらに、その先に並ぶ五人の女性たち。
(……フェンリス、ヴァルステラ、エクスバルド、グランフォード、ルヴェール……!)
アリスの胸が高鳴った。
手に持つスプーンが、わずかに震える。
レティシアの記憶に残る、ワルキューレを託された五人。
アリスの知る歴史では、後に「魔導戦の五家」へと繋がる名と、目の前の彼女たちが一致していた。
笑い合い、時に真剣に言葉を交わす姿も、記憶の中に残る彼女たちと重なる。
《アリス……気づいた?》
《うん》
《あの五人、名前も姿も記憶にある人たちと一致してる》
《……ここまで同じなんだ……》
アリスはスプーンを握る手に力を込めた。
(……ここまで、三百年前の記憶と一致するなんて……)
それでも、ここが本当に三百年前そのものなのかは、まだ分からない。
食堂の扉が再び軋みを上げて開いた。
ざわめく兵士たちが一斉に視線を向ける。
遅れて入ってきた人物の姿を認めると、周囲の空気がわずかに引き締まった。
背は高く、金の髪が灯火を受けて輝き、碧眼には鋭い知性が宿っている。
司令官格の一人――クリス・レイス・ロアウであった。
「遅れて申し訳ない」
落ち着いた声で告げ、彼はゆるやかに歩を進める。
アリスはその姿を目にした瞬間、思わず椅子から身を乗り出した。
(……ティアナ様……!?)
顔立ちそのものが同じというわけではない。
それでも立ち姿や視線の鋭さ、纏う雰囲気のどこかに、現代で慣れ親しんだティアナ・レイス・ロアウを思わせるものがあった。
《あっ……! アリス、分かった? クリス・レイス・ロアウだよ!》
思念のフローラが興奮気味に囁き、アリスの胸は激しく高鳴った。
(……クリスまでいる……)
また一つ、レティシアの記憶と一致するものが増えた。
クリス・レイス・ロアウは堂々と歩みを進め、アリスとは反対側にあるレティシアの隣の空席へ腰を下ろした。
席についた彼は軽く肩を回し、ふとレティシア越しに視線を流す。
その視線が、反対側に座るアリスを捉えた。
「……見慣れぬ顔だな」
低く落ち着いた声が響き、アリスは思わず背筋を伸ばす。
「彼女はアリスだ」
先に口を開いたのはレティシアだった。
「私が直接招いたわけではないが……フローラが連れてきた。危険な存在ではない」
「ほう……」
クリスは短く相槌を打ち、改めてアリスを見る。
その碧眼は冷静で、何かを確かめるようにアリスへ向けられていた。
(……っ、やっぱりティアナ様を思い出す……! でも……この視線、落ち着かない……!)
《クリス、やっぱり鋭いね。アリス、変なことしない方がいいよ》
《するわけないでしょ!》
思念のフローラが小さく笑い、アリスは心の中で言い返した。
クリスはしばらくのあいだ、アリスをじっと見つめていた。
碧眼は冷静で、わずかに興味を含んでいる。
(……なにか言われる……?)
アリスの心臓が速く打つ。
だが、クリスは一瞬だけ目を細め、結局は何も問わなかった。
代わりに、手元の杯を静かに持ち上げる。
「……」
軽く口に含み、再び視線をアリスに戻す。
《……質問してこなかったね》
《うん》
《もう少し様子を見るつもりなのかも》
アリスは小さく肩を緊張させる。
(……やっぱり、“ロアウ”は鋭い……!)
場の空気がわずかに引き締まったまま、食卓の時は流れていった。
周囲の談笑は次第に戻っていく。
杯を傾けながら、クリスが低く落ち着いた声で口を開く。
「……レティシア。彼女のことは――」
だが、その言葉が最後まで紡がれるより早く、レティシアが椅子を鳴らして身を乗り出した。
「信用している!」
食堂に響いたその声は、彼女にしては珍しく強く、そして大きかった。
兵士たちのざわめきが一瞬止まり、視線が集中する。
アリスもまた息を呑み、レティシアの横顔を見つめた。
その表情には揺らぎがなく、ただまっすぐな意思だけがあった。
(……こんなにも即座に……!)
クリスは驚いたように目を細め、杯を卓に戻す。
「……ほぉ~」
口元に薄く笑みを浮かべ、肩をわずかにすくめる。
「ならばいい。あなたがそこまで言うのなら、私が問う必要もあるまい」
その言葉と共に話題は変わり、食堂のざわめきも次第に戻っていった。
《……すごいね。レティシア、迷わず庇ったよ》
《……うん》
思念のフローラの声を聞きながら、アリスはレティシアの横顔を見つめていた。
レティシアの強い言葉で止まっていたざわめきも、やがて元へ戻っていった。
温かい料理の匂いと談笑の声が再び広がる中、アリスはまだ緊張を抱えたままスープを口に運んでいた。
そのとき、向かい側の席から明るい声が飛んでくる。
「ねぇ、あなた!」
弾んだ調子で呼びかけてきたのは、カティア・ルヴェールだった。
「名前はアリスって言ったっけ? なんだか緊張してる顔してるわよ」
「えっ……あ、はい……」
思わず答えるアリスに、カティアはにっと笑った。
「大丈夫大丈夫! ここにいる人はみんな仲間だから。ご飯のときは剣も魔術も置いて、ちゃんと味わうこと! ね?」
周囲から小さな笑いが漏れ、張りつめていたアリスの肩から少し力が抜ける。
続いて、隣に座るセリオナ・エクスバルドが静かな声を添えた。
「……とはいえ、君がどういう者かは気になるわ。だが今は確かに“賓客”です。少なくとも、私たちの結界で護るべき存在と心得ましょう」
その声音は落ち着いており、責務と誇りを滲ませていた。
その言葉に、アリスは思わず胸が熱くなる。
(……エクスバルド……やっぱり、この人も記憶にある通りだ……)
《うん。話し方も、雰囲気も似てるね》
思念のフローラがくすくすと笑い、アリスは小さく息を吐いた。
アリスがスープをすすりながら緊張を解こうとしていると、隣の卓からそっと声がかかった。
「……どうぞ」
差し出されたのは、香ばしく焼き上げられた肉料理をきれいに盛りつけた皿だった。
湯気が立ち上り、食欲を刺激する香りが漂う。
顔を上げると、柔らかな微笑みを浮かべるマリナ・ヴァルステラがいた。
「初めての場所で落ち着かないでしょう? 無理に手を伸ばさなくても大丈夫。ほら、これをどうぞ」
「……ありがとうございます」
アリスは思わず姿勢を正し、両手で皿を受け取った。
マリナは小さく首を振る。
「礼を言うことじゃないわ。食卓を共にする者を気遣うのは当然のこと。……それに、あなたには少しでも力をつけてもらわないとね」
その穏やかな声に、アリスは胸の奥がじんと熱くなり、ただ小さく頷いた。
《……やっぱり優しいね、マリナ》
《うん》
《記憶にある姿と、本当によく似てる》
アリスはそっと皿に視線を落とした。




