第十五部 第二章 第6話
今回は昔のように、ちょっと長いです。
兵士の案内で、アリスは休憩場へと向かっていった。
扉が閉まり、室内には静寂が訪れる。
残されたのは、レティシアとフローラ――二人だけ。
しばし沈黙が流れたのち、レティシアが小さく息を吐き、ぽつりと呟いた。
「……私が……、いたね」
フローラは一瞬だけ目を細め、静かに頷いた。
「……ええ」
レティシアは閉じられた扉を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「顔も髪も違う。近くで見れば、私じゃないことくらい分かる」
そこで言葉を切り、わずかに眉を寄せる。
「なのに……あの子を見た瞬間、そう思ったんだ。そこに私がいるって……」
フローラは何も言わず、その続きを待った。
「背格好も、立ち方も……どこか似ていた。それに……」
「気配?」
「……ええ」
レティシアは小さく頷いた。
「懐かしかった。理由なんて分からないのに……ずっと前から知っているような気がした」
フローラはゆるやかに首を傾げる。
「……私も、少し似たようなものを感じたわ」
レティシアが振り返る。
「フローラも?」
「ええ。ただ、何なのかまでは分からないけれどね」
フローラは小さく笑った。
「だから、今すぐ答えを出す必要はないんじゃない?」
「……そうだな」
レティシアは膝の上で指を組み、静かに息を吐いた。
「それに……リディアなら、もっとはっきり何か感じているかもしれないわ」
レティシアが顔を上げる。
「リディアが?」
「さっき廊下ですれ違ったでしょう? 少し離れたところからあの子を見た瞬間、“レティシア”って呼んでいたの」
「……私と間違えたの?」
「一瞬だけね。顔が見える距離まで近づいたら、すぐに違うって気づいていたけれど」
レティシアは瞳を伏せ、深く息を吐いた。
「……やはり、リディアも何か感じたのか」
「そうかもしれないわね」
フローラは机に軽く手を置き、穏やかに続ける。
「まぁ、時間はあるんだから、焦らずにね? どうせすぐに対面するんでしょうから」
その言葉に、レティシアは長い沈黙ののち、わずかに肩を落とした。
「……そうだな」
厳しい眼差しが、ほんの少しだけ和らぐ。
「確かに、急ぐ必要はない。……彼女が何者なのかも、いずれ明らかになる」
フローラは小さく微笑み、視線を扉へと向けた。
「そう、そのときになればね」
部屋には静かな余韻が残り、二人はしばらく言葉を交わさなかった。
案内された休憩場は先ほどと変わらず、兵士たちが談笑する穏やかな空気に包まれていた。
笑い声と食器の触れ合う音が混ざり合い、戦場の只中とは思えないほどの安らぎがそこにはあった。
張り詰めていた外の空気との差に、わずかな違和感すら覚えるほどだった。
アリスは隅の席に腰を下ろし、出された温かいお茶を手に取りながら深く息をつく。
指先に伝わる温もりが、ようやく現実へと引き戻してくる。
ほんの僅かだが、肩の力が抜けたのを自覚する。
(……レティシア……目の前にいた。確かに、生きているレティシアが……)
胸がざわつき、鼓動が速くなる。
思い出そうとするほどに、あの瞬間の光景が鮮明に蘇る。
視線の強さも、息を呑んだあの沈黙も、すべてが現実だった。
《ねぇアリス、あの時の彼女の顔……すごかったね! 完全に固まってた!》
《……ほんとにもう、やめてよ》
アリスは心の中で突っ込みを返しながら、湯気に顔を近づける。
立ち上る香りが、張り詰めた神経をわずかに和らげる。
(……でも、あの視線……私が持っているレティシアの記憶と、何か関係があるのかな)
カップを口に運びながらも、落ち着かない気持ちが胸に居座り続けていた。
一方、少し時間が戻る。
要塞の渡り廊下を歩いていたリディアは、先ほどすれ違った少女の姿を思い返していた。
歩みは一定でありながら、その思考だけが強く引き戻されている。
視界に映る景色よりも、胸に残る感覚の方が鮮明だった。
「……レティシア……」
口から零れた名に、自分で小さく首を振る。
無意識に出た言葉に、自ら驚きと否定を重ねる。
(いや……違う。顔も髪も違う。近くで見れば、レティシアではないことくらい分かる)
それでも、遠くから目にした瞬間、考えるより先に名前が口をついて出た。
(……背格好……立ち方……それだけじゃない。確かに、あの子からは“彼女の気配”に近いものを感じた)
胸の奥で、過去の記憶がざわめく。
理性では別人だと分かっている。
それでも、そこに立つ姿が記憶と重なっていた。
足を止め、欄干越しに広がる戦地の空を見上げる。
遠くに揺らめく瘴気と、かすかに走る魔力の閃光が視界に入る。
だが、その景色さえ今は意識の外にあった。
「……あの子は、何者なんだ……?」
リディアは拳を握りしめる。
答えは出ない。
しばらくその場に立っていたリディアは、やがて再び歩き始めた。
温かいお茶で一息ついていたアリスのもとに、軽やかな足音が近づいてきた。
足取りは小さいのに迷いがなく、一直線にこちらへ向かってくる気配がある。
「……アリス」
顔を上げると、そこには小さな体に不釣り合いなほど真剣な表情をしたレイリスが立っていた。
幼い顔立ちの奥に、年齢に似合わない強い意志が宿っている。
その視線はまっすぐで、迷いがなかった。
「部屋が用意できたから、案内するよ」
彼女はそう告げ、アリスの袖を軽く引いた。
遠慮がちでありながら、どこか当然のような仕草だった。
案内されて歩く石造りの廊下は、要塞の中でも比較的静かで整然としている。
足音が石床に小さく反響し、外の喧騒が遠のいていく。
戦場の只中にありながら、この区画だけが少し落ち着いていた。
やがて立ち止まった扉の前で、レイリスは小さく胸を張った。
「ここだよ」
扉を開けた瞬間、アリスは目を見張った。
視界に広がった空間は、予想していたものよりもずっと整っている。
広さも調度も、どう見ても兵士用の部屋ではない。
窓は広く取られ、外の光がやわらかく室内に差し込んでいる。
磨き込まれた机と寝台、簡素ながらも質の高い調度品が整然と配置されていた。
要塞の中でも、客人のために用意された部屋なのだとすぐに分かった。
「……こんな部屋、私には……」
戸惑いを隠せず呟くアリスに、レイリスは小さく首を振った。
「気にしなくていい。上の判断だから。……また夕飯のときに迎えに来るね」
そう言って小さく微笑むと、レイリスは扉を閉じて出ていった。
最後にちらりと振り返る視線に、わずかな安心が滲んでいた。
残されたアリスは部屋を見回し、深く息をついた。
(……なんで、こんな扱い……?)
《いい部屋だね。……というか、かなり特別扱いされてない?》
思念のフローラが軽やかに囁き、アリスは苦笑いを浮かべた。
静かになった部屋の中。
外の喧騒が遠くに退き、耳に届くのは自分の呼吸音だけだった。
アリスは寝台の端に腰を下ろし、背を預けるようにして深く息をついた。
「……はぁ……」
ようやく一人になり、全身の力が少し抜ける。
《お疲れさま、アリス》
《ここまで大きな混乱もなく切り抜けられたんだから、十分でしょ》
「落ち着いてたように見えただけだよ……。心臓なんて、ずっと跳ねっぱなし」
アリスは苦笑しながら天井を見上げた。
《まあ、それでも顔に出さなかったでしょ? それだけでもすごいよ》
アリスはしばし黙り、やがて小さな声で呟いた。
「……でも、やっぱり混乱してる。レティシアがいて、レイリスがいて、フローラもいる……ここはどこなの? 本当に三百年前なの?」
《私も……まだ分からない》
《でも、私たちが知ってるものと一致する部分が多すぎる。要塞も、人も、名前も……》
「……うん」
《だからこそ、今は決めつけない方がいいよ。本当に過去なのか、それとも別の何かなのか、まだ分からないから》
アリスは膝を抱えるようにして座り込み、目を閉じた。
「……夢だったら、どんなに楽か」
《でも、今見えてるものはちゃんとそこにある》
《……うん》
《だから、一つずつ確かめよう。大丈夫、アリスは一人じゃないから》
その言葉に、アリスは小さく息を吐いた。
温かな思念に包まれながら、アリスはやがてまぶたを閉じた。
緊張が続いていたせいか、ほどなく意識が沈み込んでいく。
深い眠りに落ちると、ふと遠い光景が浮かび上がった。
――夕陽に染まる戦場。
赤く染まった空と大地。
焦げた匂いと鉄の匂いが、風に乗って鼻を突いた。
剣を振るう姿と、その隣で戦う仲間たち。
何度も繰り返した戦いの光景が、断片的に流れていく。
血と炎の匂いの中で、誰かの声がはっきりと耳に届いた。
「――レティシア!」
振り返った瞬間、光が強く弾け、視界は白に溶けていく。
輪郭が崩れ、すべてが光に飲み込まれていった。
(……これは、レティシアの記憶……? それとも……)
コン、コン、と扉を叩く音。
「……アリス、起きてる?」
聞き覚えのある幼い声に、アリスは瞬きをして寝台から身を起こした。
意識が現実へと戻り、身体の感覚がゆっくりと追いついてくる。
扉を開けると、そこには小さなランプを手にしたレイリスが立っていた。
柔らかな光が彼女の輪郭を照らし、影を揺らしている。
「夕飯の時間だよ。迎えに来たの」
「……ありがとう」
アリスは微笑みを返し、部屋を後にする。
レイリスは小さな背中をぴんと伸ばし、アリスの前を歩いていく。
その歩調は早足でもなく、アリスとの距離が開きすぎない程度に揃えられていた。
《……なんだかんだで、かわいい子だね。アリス、気に入られてるんじゃない?》
思念のフローラがくすくすと笑い、アリスは心の中で小さくため息をついた。
(……でも、やっぱり……この感覚。懐かしいのに、不思議でならない)
石造りの廊下を並んで歩く。
夜の気配が静かに満ち始め、空気はわずかに冷えていた。
足音だけが規則正しく石床に響いていく。
要塞の中は夜支度が始まっており、兵士たちが松明を手に巡回していた。
火の揺らめきが壁に影を映し出し、その影がゆっくりと伸びては縮む。
戦時の緊張の中にも、どこか日常の繰り返しが感じられる光景だった。
その静けさの中で、レイリスがちらりとアリスを見上げた。
「ねぇ、アリスって……どこから来たの?」
「……えっ」
突然の問いに、アリスは足を止めかける。
「だって、見たことない服だし、全然疲れてなさそうだし……なんか、普通の人と違う」
レイリスは首をかしげ、小さな眉を寄せる。
「さっき、どうしてここにいるのか分からないって言ってたけど……何か覚えてることはないの?」
その真っ直ぐな瞳に、アリスは少し言葉に詰まった。
《おっと、鋭いね……! アリス、どう答える?》
《下手に誤魔化すより、分かってることだけ話せばいいんじゃない?》
アリスは少し間を置き、言葉を探すように口を開いた。
「……本当に、気づいたら草原にいたの。ここへ来る直前のことは覚えてるけど、どうしてこの場所へ来たのかは分からない」
「……直前のことは覚えてるの?」
「うん。でも……説明するのが少し難しいの」
「……そうなんだ」
レイリスは小さく唇を尖らせ、しかしすぐにうなずいた。
「じゃあ、やっぱり迷い込んできたんだね」
「……そういうことになるのかな」
アリスは苦笑を浮かべる。
《うん。それなら嘘じゃないね。今はそれでいいと思う》
思念のフローラがくすりと笑い、アリスは心の中で小さく頷いた。
レイリスはそれ以上追及せず、小さく歩調を速める。
「……でも、あなたは変な人じゃないと思う。だから……少し安心した」
その言葉に、アリスの胸の奥がほんのりと温かくなった。
廊下の突き当たりに、大きな扉が見えてきた。
厚みのある木製の扉は、長年の使用でわずかに艶を帯びている。
扉の向こうからは人々の話し声や食器の音が漏れ聞こえ、食堂の賑わいを感じさせる。
笑い声と金属の触れ合う音が混ざり合い、温かな空気がにじみ出ていた。
その前で立ち止まったレイリスが、振り返ってアリスを見上げた。
「ねぇ、アリス」
「なに?」
レイリスは少しだけ言いにくそうに指先を合わせ、それでも真剣な顔で告げた。
「……レティシア様の隣に座ってほしいの」
「……えっ?」
アリスは思わず声を上げる。
「フローラ様から、アリスはレティシア様の隣に案内するようにって言われてるの」
言い切ると、レイリスは小さく頷いて扉に手をかけた。
《……うわぁ……アリス、いきなり隣なんだ》
《どうしよう》
《もう決まってるみたいだし、行くしかないんじゃない?》
《簡単に言わないでよ……》
扉が重々しく開かれ、温かな光と賑やかな声があふれ出す。
アリスは深呼吸をひとつして、食堂の中へ足を踏み入れた。




