第十五部 第二章 第5話
レイリスが真っ赤になって固まったまま、アリスに抱きしめられている。
その光景にオルトが口を開けて呆然としていると、背後から軽やかな足音が近づいた。
「……ふふっ」
現れたのは銀髪のフローラだった。
彼女は一目その光景を見て、思わず口元を押さえる。
「……あははっ……これは……っ」
抑えきれずに笑い声が溢れた。
肩を小刻みに揺らしながら、フローラは目元に浮かんだ涙を拭う。
「フローラ様?」
オルトが戸惑う中、フローラは笑いを堪えながらレイリスを見る。
「だって……レイリスが、そんな顔をするなんて……。あの子が自分から動かず、真っ赤になって固まるなんて……レティシアかリディアの前以外じゃ絶対にありえないのよ!」
レイリスは耳まで赤くして声を上げた。
「や、やめてください!」
それでもなお、アリスの腕の中から逃げ出せずにいた。
《……ぷっ、あはははは! アリス、すごい! あのレイリスが完全に固まってる!》
《……っ、笑ってる場合!?》
《ごめんごめん。でも、これはちょっと面白すぎるよ》
思念のフローラまで笑い出し、アリスは顔を赤らめながらも抱きしめる腕を緩められなかった。
フローラが声を立てて笑い、レイリスは耳まで真っ赤にしたまま動かない。
《でも……レイリスがここまで大人しくなるの、やっぱり気になるね》
《気になる?》
《うん。レティシアやリディアに対する反応と似てるなら、アリスから何か感じてるのかも》
《……レティシアの記憶とか?》
《可能性はあると思う。でも、まだ分からないよ》
アリスは言葉を失い、抱きしめる腕の力をわずかに緩めた。
(……レイリスは、私から何を感じてるんだろう……)
目の前のレイリスの赤い顔を見ながら、アリスは考える。
笑いの余韻がまだ残る中、銀髪のフローラが姿勢を正し、声をかけた。
「――待たせたわね。ちょうど戻ってきたところよ。あなたをレティシアに会わせたいと思う」
「……私を?」
アリスは目を瞬かせ、困惑を隠せずに問い返す。
「どこの誰かも分からない私を……そんな簡単に会わせてしまっていいの?」
フローラは一拍置き、ふっと笑みをこぼした。
「……確かに、その通りだわ」
肩をすくめ、軽く続ける。
「普通なら、身元も分からない人間をいきなり“トップ”に会わせるなんて考えられない。でも、ここまでの様子を見る限り、あなたから敵意は感じない。それに――なぜか、あなたなら大丈夫だと思えるの」
アリスは少しだけ目を伏せる。
《……まただね》
《何が?》
《向こうの私も、アリスに何か感じてる》
《……やっぱり?》
《うん。でも、それが何なのかはまだ分からない》
アリスは静かに息をついた。
(……レティシアに……会う……)
フローラに促され、アリスは要塞の石造りの廊下を進んでいった。
灯火に照らされた通路は、兵士たちが行き交い、戦時の緊張を孕みながらも規律正しく保たれている。
足音と金属音が重なり、低く抑えられた会話が断続的に耳に届く。
そのとき――正面の廊下の先から、長い耳を持つ女性が歩いてきた。
凛とした眼差しと堂々とした足取りに、周囲の兵士たちが自然に道を空けていく。
まだ少し距離がある。
その女性――リディア・エルファーレの視線が、アリスへ向いた。
「……レティシア?」
アリスは驚いて足を止めかける。
だが、距離が縮まり、互いの顔がはっきりと見えた瞬間、リディアの表情が変わった。
「……違う……?」
リディアが立ち止まる。
その瞳が、アリスの顔から髪、立ち姿へと順に動いていく。
「……顔も、髪も違う。なのに……」
小さな呟きが、すれ違いざまに聞こえた。
アリスも思わず振り返る。
リディアはまだこちらを見ていた。
《……今、レティシアって言ったよね》
《うん》
《でも、顔を見たらすぐ違うって気づいた》
《……それでも最初は間違えた》
《背格好とか、立ち方かな。何か似て見えたんだと思う》
アリスは胸に残る違和感を抱えたまま、フローラの背中を追った。
重厚な扉が軋みをあげて開かれる。
フローラに導かれ、アリスは深呼吸をひとつしてから部屋の中へ足を踏み入れた。
そこは質素ながらも整えられた司令室だった。
中央には、黒髪を結い上げ、青い瞳を持つ女性が立っている。
「私は――」
彼女は名乗ろうと一歩前に出る。
だが、アリスの姿を目にした瞬間、その言葉は途切れた。
「……!」
青い瞳が大きく見開かれる。
アリスとレティシアの顔立ちは同じではない。
髪の色も違う。
それでも、レティシアはアリスの立ち姿から目を離さなかった。
(……レティシア……!)
アリスもまた、目の前の女性から視線を外せなかった。
《……固まった》
《フローラ》
《いや、だって……顔は違うのに、すごい見てるよ》
《私にも理由なんて分からないよ!》
アリスは心の中で返しながらも、目の前のレティシアを見つめ続けた。
アリスとレティシアが互いを凝視したまま、しばらく沈黙が続く。
その沈黙を、銀髪のフローラが破った。
「……ふふ。レティシア、そんなに驚かなくてもいいでしょう?」
柔らかい笑みを浮かべながら二人の間に一歩入り、アリスへと視線を向ける。
「この子は私が連れてきた。今のところ危険な様子はないから、まず話を聞いてあげて」
「……フローラ……」
レティシアは小さく呟き、深く息を吐いた。
やがてゆっくりと顔を上げる。
《だいぶ戻ったね》
《何が?》
《レティシアの顔》
《いちいち実況しないでよ……》
アリスは黙って頭を下げた。
レティシアが改めてアリスへ向き直る。
「……改めまして。私は、レティシア・ファーレンナイト」
アリスは背筋を伸ばし、真剣な眼差しで答える。
「……アリス・グレイスラーと申します」
レティシアは小さく頷き、手で椅子を示した。
「まあ……座ろう」
二人は向かい合って席に着いた。
だが、レティシアの視線はアリスから離れない。
顔立ちは違う。
髪の色も違う。
それでも、視線はアリスの立ち方や仕草を確かめるように何度も動いていた。
「あの〜……」
視線に耐えきれず、アリスが口を開く。
「……っ!」
レティシアは我に返ったように瞬きをし、顔を伏せて小さく咳払いをした。
「……す、すまない。無礼だった」
その頬に、ほんのわずかな赤みが差していた。
《あははっ! 照れてる!》
《フローラ!》
《だって珍しいんだもん》
《静かにして!》
レティシアとアリスは向かい合い、言葉少なに視線を交わした。
互いに名を名乗ったはずなのに、何を話せばよいのか分からない。
視線が合っては逸れ、また合う。
《ねえアリス》
《……何?》
《これ、お見合いみたいじゃない?》
《やめてよ!》
その直後だった。
「……お見合いじゃないんだけど」
銀髪のフローラが、少し間を置いて本当に口にした。
「――っ!」
アリスは目を丸くし、思わず机に手をついてしまう。
《あははははっ! ほら! やっぱり私じゃん!》
《何で同じこと言うの!?》
《知らないよ! でも面白い!》
レティシアも困惑しつつ、わずかに表情を緩めた。
銀髪のフローラの一言で空気が少し和らいだところで、レティシアは表情を引き締める。
「……さて。笑ってごまかしてばかりもいられないな」
背筋を正し、アリスを真っ直ぐに見る。
「アリス・グレイスラー。あなたは一体、何者なのだ?」
アリスは唇を結んだ。
(……やっぱり来た……!)
《まあ、聞くよね》
《どうしよう》
《今分かってることだけ答えればいいよ。無理に説明できないことまで話す必要はないから》
アリスは視線を落とし、短く息を整えた。
「……正直に言うと、よく分かりません」
レティシアの青い瞳がわずかに細められる。
「気づいたら、ここにいました。どこをどう通ったのかも、なぜここにいるのかも……説明できません。だから――迷い込んだ、としか言えないのです」
レティシアはしばらく黙したまま、アリスを見つめた。
《うん。今はそれでいいと思う》
《全部言わなくていい?》
《まだ私たちだって何が起きてるか分かってないからね》
やがて、レティシアは息を吐き、表情をほんの少し緩めた。
「……そうか。ならば無理に追及はしない。ただし――」
真剣な光を宿したまま、言葉を続ける。
「これだけは答えてほしい。あなたは……人族の味方か?」
レティシアの問いに、アリスは一切迷わなかった。
「――はい」
レティシアの瞳がわずかに見開かれる。
しばらくアリスを見つめたあと、静かに頷いた。
「……そうか。ならば、それで十分だ」
《おお、即答》
《そこは迷うところじゃないから》
《うん。アリスらしい》
アリスは視線をレティシアから外さなかった。
レティシアは机に手を置き、落ち着いた口調で続けた。
「君がどこから来たかは今は問わない。だが、“味方”と断言した以上……私はその言葉を信じる」
少しの沈黙が訪れる。
その静けさを切り替えるように、銀髪のフローラが軽く手を叩いた。
「はいはい、真面目な話はここまで。アリスも疲れているでしょうし、まずは休息を取ってもらうのが先よ」
「……フローラ」
レティシアはわずかに眉をひそめたが、すぐに小さく苦笑した。
「確かに、君の言う通りだな」
「そういうこと」
フローラはアリスに向き直り、穏やかに微笑む。
「今は無理に答えを出さなくてもいいわ。ここは結界の内側よ。少なくとも、外よりは安全だから休みなさい」
《うん。今は休んだ方がいいと思う》
《フローラまで?》
《だって、昨日からずっと分からないことだらけでしょ》
《……それはそうだけど》
《休める時に休む。基本だよ》
アリスは深く息をつき、頷いた。
「……ありがとうございます」
言葉にした瞬間、ほんのわずかに肩の力が抜けた。
こうして、ひとまずの対話は区切りを迎えた。




