第十五部 第二章 第4話
やがて、視界の先に淡い光の壁が広がった。
半透明の結界が張り巡らされ、その内側に石造りの砦が姿を現す。
「……ここが、ベース」
フローラが静かに告げる。
アリスは足を止め、その砦を見上げた瞬間、息を呑んだ。
(……知ってる……この場所……!)
石壁の積み方も、門の意匠も、結界の展開式すらも、記憶にある光景と重なって見えた。
――そう、ここは。
《……アリス。これ、リヴェルタ要塞だよ。私たちがファーレン奪還の拠点にした場所と同じ》
思念のフローラの声にも、驚きが混じっていた。
《どうして……ここまで同じなの……》
その疑問は、アリス自身のものでもあった。
(ここが……ファーレン奪還の拠点……リヴェルタ要塞……?)
あまりにも多くのものが記憶と一致している。
それでも、ここが本当に自分たちの知る過去なのかは、まだ分からない。
目の前の結界が揺れ、迎えの兵士たちの影が現れる。
アリスは信じられない思いで、その門へと歩みを進めた。
結界の前に立つと、光が一瞬揺らぎ、内側から二人の兵士が現れた。
彼らは人族の青年で、銀の紋章を刻んだ軽鎧を身にまとっている。
その装備も、アリスの記憶にあるものとよく似ていた。
その顔には緊張と疲労が刻まれていたが、フローラの姿を認めると一斉に敬礼した。
「お帰りなさい、フローラ様!」
「……その者は?」
兵士の視線が、アリスへと移る。
フローラは落ち着いた声で答える。
「この子は、外で保護した。安全を確認した上で、司令に引き合わせる」
「……承知しました」
兵士たちはわずかに訝しげな表情を残しながらも、結界の内へ道を開いた。
アリスは胸の奥で息を詰める。
ここが現実なのか、それとも何か別の形で記憶と重なっているのか、まだ判断がつかない。
《……本当に、リヴェルタ要塞と同じだね》
《うん》
《この紋章も、あの兵装も……私たちの記憶にあるものと一致してる》
アリスは唇をかすかに噛み、足を進めた。
石造りの門の向こうへ。
結界をくぐり、石門を抜けた瞬間――アリスの視界に、懐かしい光景が広がった。
要塞の広場には、武具を整える兵士たち、傷の手当てを受ける者、物資を運び込む者が行き交っている。
張り詰めた空気と戦場特有の活気が入り混じり、そこには確かな“戦う日常”が息づいていた。
「……っ」
アリスは思わず足を止める。
そこにいる兵士たちの顔の中には、見覚えのあるものがいくつもあった。
名を呼ぼうとしても、記憶は霞んですぐには出てこない。
それでも、表情も声も仕草も、レティシアの記憶の中に残るものと重なって見えた。
《……アリス》
《うん》
《あの頃の兵士たちと、同じ顔の人がいる》
「……どうして……」
アリスは小さく呟き、周囲を見回した。
兵士たちもまた、彼女を一瞬まじまじと見つめ、不思議そうに視線を交わしている。
(……名前までは思い出せない。でも……知ってる顔がいる……)
フローラは広場にいた兵士の一人を呼び止め、低い声で言葉を交わしていた。
兵士は何度も頷き、やがて真剣な面持ちで敬礼すると、足早に去っていった。
フローラはアリスの方へと振り返り、穏やかに告げる。
「……残念だけれど、レティシアたちはまだ戻っていないわ。戻り次第、あなたを会わせることにしましょう。それまでは――少し休憩してもらった方がいいわね」
近くにいた別の兵士へ視線を向けると、すぐに了解の意を示し、アリスの前へと歩み出る。
「ご案内します。どうぞこちらへ」
アリスは一瞬だけためらったが、やがて頷いた。
(……休憩場も、知ってる……ここは何度も足を運んだ記憶がある。でも……今は“案内される側”なんだ)
心の中で複雑な思いを抱きながら、アリスは兵士に従い、歩き出した。
《ねえ、アリス……不思議だね》
《うん》
《知ってる場所なのに、今は初めて来たみたいに歩いてる》
アリスはわずかに唇を引き結び、静かに頷いた。
兵士に導かれ、アリスは要塞の一角にある休憩場へと足を踏み入れた。
石造りの壁に木製の長椅子と机。
壁際には水瓶と乾パンの入った籠が並び、兵士たちが交代で腰を下ろし、疲れを癒していた。
談笑する声や小さな笑い声が交じり合い、戦場の只中とは思えない穏やかな空気が漂っている。
「ここでお休みください」
案内の兵士が敬礼し、静かに立ち去った。
アリスは部屋の中央に立ち尽くす。
(……ここも……知ってる。机の傷も、壁に刻まれた印も……記憶にあるものと同じだ)
席に腰を下ろす兵士たちの顔を何度も見回す。
やはり名前は思い出せない。
それでも、見覚えのある顔がいくつもあった。
《ねえ、アリス……》
《うん》
《ここまで一致するものが多いと、さすがに気になるね》
《でも、まだ決めつけない》
《うん。それがいいと思う》
アリスは深く息を吸い込み、静かに席に腰を下ろした。
アリスが水瓶から注いだ水で喉を潤していると、隣の席に座っていた若い兵士が、ちらりとこちらを見た。
「……おや、新顔だな」
人懐っこい笑みを浮かべながら声をかけてくる。
「ここに来るやつは大抵、顔に疲れが出てるけど……あんたは妙に落ち着いて見える。場慣れしてるってやつか?」
アリスは思わず身を強張らせる。
だが、すぐに表情を整え、柔らかく返した。
「……そう見えるのなら、きっと緊張のせいです」
「はは、そうかもな」
兵士は豪快に笑い、乾パンをかじりながら続ける。
「ここじゃ毎日が戦争だ。新入りなら、まずは体を慣らすことだな」
(……新入り、か……)
アリスは少しだけ複雑な気分になった。
《アリス、あんまり知ってる感じを出さない方がいいよ》
《分かってる》
《でも……あの顔、記憶にあるよね》
《うん》
アリスは兵士の横顔を見つめた。
すぐには名前が出てこない。
それでも、剣を振るう姿や、仲間たちと笑っていた姿が断片的に浮かんでくる。
そして、ふいに一つの名前が口をついた。
「……オルト……」
その名を口にした瞬間、兵士が驚いたように目を見開いた。
「……なんだ? 俺の名を……」
怪訝そうに眉をひそめながらも、どこか照れくさそうに笑みを浮かべる。
「いや、待てよ……俺、名乗ったかな? ……まあいいや」
オルトと呼ばれた兵士は首をかしげつつも、軽い調子で続けた。
「で、あんたは? 名前はなんて言うんだ?」
アリスは一瞬だけ心臓が跳ね上がるのを感じたが、すぐに表情を整え、はっきりと答えた。
「……アリス。アリス・グレイスラーです」
「アリス……か。変わった響きだな」
オルトは小さく呟き、ふっと笑みを浮かべた。
「よろしくな、アリス」
《……やっぱり、記憶の中のオルトと同じだね》
《うん》
《名前まで同じとなると、ますます分からなくなってきた》
《本当にね》
乾パンをかじりながら、オルトはふとアリスを上から下まで眺めた。
「……そういえばさ」
軽い調子で首を傾げる。
「やけに変わった格好してるな? それに……全然汚れてないじゃないか」
アリスは一瞬、言葉を失った。
確かに、自分の服装はこの要塞にいる兵士たちとは明らかに異なっている。
さらに、長い移動や戦闘を重ねた兵士たちと比べれば、清潔すぎるほど清潔だった。
「……あ、えっと……」
言い淀むアリスに、オルトは肩をすくめて笑う。
「まあ、無理に答えなくてもいいけどな。ここにいる以上、何か事情があるんだろ?」
《アリス、今は深入りされないうちに無難にかわした方がいいよ》
《うん》
《変なこと言って、説明できなくなったら困るからね》
アリスはわずかに苦笑を浮かべ、慎重に言葉を選んだ。
「はは……まあ、ちょっと色々あって」
オルトは不思議そうに眉をひそめたが、それ以上は突っ込まず、乾パンをもうひとつ口に放り込む。
そのとき、軽い足音が近づいてきた。
「はい、どうぞ」
小さな手に湯気の立つ木製のカップを持って、レイリスがアリスの前に現れた。
「……お茶?」
驚いたアリスが受け取ると、ほんのり甘い香りが鼻をくすぐる。
「おっ、いいな!」
オルトが身を乗り出すが、レイリスはぷいっと顔を背け、声を尖らせた。
「ダメ! これはこの人にあげたんだから!」
「えぇ~……」
オルトは肩を落として苦笑し、乾パンを齧るしかなかった。
レイリスはその横顔には見向きもせず、アリスの方へ身を寄せる。
「ねぇ、あなた……どうしてこんなところにいるの?」
大きな瞳が興味深そうにアリスへ向けられる。
アリスはカップを握りしめながら、どう答えるべきか迷った。
「……よく分からないの。気がついたらここにいて」
「……じゃあ、記憶喪失なのかな?」
レイリスは小首をかしげ、つぶらな瞳でじっとアリスを見つめる。
その仕草を見た瞬間、アリスの表情が崩れた。
「か、かわいい~~っ!」
思わずアリスは立ち上がり、レイリスに抱きついていた。
「っ!?」
レイリスの顔が一瞬で真っ赤に染まり、ぴたりと固まる。
小さな体がびくりと震え、そのまま動かなくなった。
「……う、動かない……!?」
横で見ていたオルトが目を剥いた。
普段なら誰かが不用意に触れれば即座に反撃するはずのレイリスが、アリスの腕の中で硬直したままなのだ。
「お、おいおい……本当にレイリスか? 信じられねぇ……」
オルトは呆然と二人を見つめる。
アリスは抱きしめたまま頬を緩め、耳元でそっと囁いた。
「……やっぱり、かわいい」
レイリスは顔を真っ赤にしたまま、視線だけを落ち着きなく泳がせていた。
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