第十五部 第二章 第2話
夜明け。
アリスは鳥の声すらしない静寂の中で目を覚ました。
寝袋から身を起こすと、東の空が淡い朱に染まり、草原が金色に揺れている。
冷たい夜気が残っていたが、胸に吸い込むと少しずつ意識が冴えていった。
「……結界は異常なし」
周囲を確かめ、シートと寝具を片付ける。
保存食を口に運びながら、今日の行動を思案した。
やがて、地平線のかなたに微かな“違和感”を見つける。
――草原の連なりの中に、不自然に直線を描く影。
自然にはありえない形だった。
アリスは息を呑む。
「……人工物?」
目を凝らせば、遠方に石を積み上げたような灰色の塊が、朝靄の中にぼんやりと浮かんでいる。
《ようやく何か見つけたね》
《あそこまで行けば、この場所が何なのか……少しは分かるかもしれない》
アリスは腰の《インベントリア=ゼロ》を確かめ、ゆっくりと歩き出した。
まだ見ぬ答えが、その先に待っていると信じて。
草原を進むにつれ、その灰色の塊の正体が次第に明らかになっていった。
それは、石を積み上げて造られた大きな建造物の残骸だった。
かつては堂々とした塔か砦であったのだろう。
しかし今は半ば崩れ落ち、壁面には鋭い裂け目が刻まれている。
石材の一部は黒く焦げ、あたりには爆裂の痕跡が点々と残っていた。
「……戦闘の跡……」
アリスは足を止め、瓦礫に目を走らせる。
剣で斬り裂かれたような痕、魔術の炎で焼け焦げた壁、地面には衝撃で抉られた窪み――。
自然崩壊ではあり得ない、確かな“戦いの記録”が刻まれていた。
その光景を前に、胸の奥が静かに締め付けられる。
ここで何が起きたのか、その結末だけが分からないまま、戦いの痕跡だけが残されていた。
《しかも、かなり激しい戦闘みたい。魔力の残滓もまだ残ってる……でも、この性質は私たちの知る魔術体系とは少し違う》
フローラの声が慎重に響く。
アリスは拳を握りしめた。
(……この場所に誰かいた。そして……争いがあった。けど、その痕跡だけを残して、姿は見えない……)
存在していた痕跡はあるのに、今は誰の姿もない。
その違和感が、アリスの背筋を冷やした。
風が吹き抜け、砕けた石壁の隙間から砂塵を巻き上げる。
そこに広がる光景は、美しい草原とは不釣り合いなほど荒々しい爪痕だった。
アリスは崩れた石壁へと歩み寄ろうとした――その瞬間、背筋を撫でるような寒気が走った。
皮膚の上を冷たい指先でなぞられたような感覚が、首筋から背骨へとゆっくりと落ちていく。
「……っ!」
反射的に足を止め、耳を澄ます。
呼吸を浅く抑え、周囲の気配に意識を集中させる。
草原を渡る風音とは違う。
どこかで石片が小さく転がる音がした。
静まり返った廃墟の中から、視線のようなものがこちらを射抜いている気配がある。
見えないはずの“何か”が、確かにこちらを捉えている。
《……感じる?》
《うん》
《ただの残留魔力じゃない……生きた存在が潜んでる》
アリスは無意識に《ルミナ=コード》の柄へと手を伸ばしていた。
指先が柄に触れ、意識を切り替える。
空気が張りつめ、廃墟の影がわずかに揺れる。
光と影の境界が、まるで呼吸するかのように歪んで見えた。
(……誰? 何が……ここに?)
問いは頭の中に浮かぶだけで、口には出さない。
アリスは気配を探りながら、その場で身構えた。
次の瞬間、影から小さな人影が飛び出した。
驚くほどの速さで間合いを詰め、片刃の剣を振り下ろしてくる。
空気を裂く鋭い音と共に、刃が一直線に迫る。
「――っ!」
アリスは反射的に抜刀し、ルミナ=コードで受け止めた。
火花が散り、刃と刃が激しくぶつかる。
衝突の瞬間、腕に伝わる衝撃は想像以上に重かった。
小柄な影から放たれたとは思えないほどの圧力が、骨にまで響く。
――つばぜり合い。
互いの力が押し合い、空気が震える。
接触点から火花が断続的に散り、金属音が耳の奥を打ち続ける。
アリスは歯を食いしばり、力を込めて押し返す。
足元の草が踏み潰され、土がわずかに抉れる。
視界の端で、相手の動きがわずかに揺れた。
その一瞬を逃さず、アリスは踏み込みを強める。
やがて衝撃音とともに剣が弾かれ、両者は数歩離れた。
距離が開いた瞬間、互いに間合いを測り直し、再び構えを取る。
視界に映ったその姿を見て、アリスは息を呑む。
――それは幼いエルフの少女だった。
年の頃は十にも満たない。
傷だらけの布切れをまとい、小さな体で大きな剣を必死に構えている。
長い耳は震え、恐怖を隠しきれない表情を浮かべながらも、怯えを敵意で塗りつぶすようにアリスを睨み据えていた。
その瞳は揺れている。
だが視線だけは決して逸らさない。
逃げ場のない状況で、それでも退かないという強い意思がそこにあった。
「……子供……?」
思わず漏れた声に、少女は答えない。
ただ、震える肩を強く押さえ込み、目だけは逸らさずに剣を握りしめていた。
細い指が柄に食い込み、白くなっている。
今にも崩れそうな身体で、それでも踏みとどまっている。
(魔物じゃない……エルフの子供? どうして、こんな場所に……)
アリスはルミナ=コードを低く構えたまま、慎重に相手を観察した。
刃を完全に下げることはせず、それでも威圧にならないよう角度を調整する。
沈黙を破ったのは、か細い声だった。
「……にんぞく……? どうして、ここにいるの……?」
幼いエルフの少女は剣を震わせながらも、必死に問いかけてくる。
恐怖と警戒、そしてわずかな好奇心がその瞳に混じっていた。
声はかすれている。
長く誰とも話していなかったかのような、不自然な掠れ方だった。
アリスはルミナ=コードを少し下げ、落ち着いた声で答える。
「待って。私はあなたと戦う気はないの」
ゆっくりと、言葉を選ぶように紡ぐ。
刺激しないよう、しかし曖昧にもならないように。
少女の視線をまっすぐに受け止めながら、言葉を続けた。
「……本当のことを言うと、私もよく分からないの。気づいたらこの場所に迷い込んでいたの。だから、どうしてここにいるのか……私自身も知りたい」
少女は小さく息を呑み、剣を握る手に力を込める。
その肩がびくりと震え、次の行動を決めかねているのが分かる。
それでも、ほんのわずかに刃先が下がった。
ほんの数センチ。
だが、先ほどまでとは明らかに違っていた。
《いい感じ。今はそのまま待った方がよさそう》
《うん》
アリスは息を整え、さらに一歩踏み出さずに、少女の答えを待った。
不用意に距離を詰めれば、この均衡は簡単に崩れる。
今はただ、相手の選択を待つしかない。
風が、二人の間をゆっくりと通り抜ける。
揺れる草の音だけが、張り詰めた空気の中で小さく響いていた。
沈黙を裂いたのは、少女の背後から響いた低く落ち着いた声だった。
「……レイリス? どうした?」
アリスは一瞬だけ目を瞬かせる。
《レイリスって、この子の名前かな》
《たぶん》
少女――レイリスが振り返る。
その動きは先ほどまでの警戒とは違い、どこか安堵を含んでいた。
その背後の廃墟の影から、静かに歩み出てきたのは――フローラに瓜二つの姿をした人物だった。
肩まで伸びる銀の髪、冷ややかでありながら深い理知を宿した瞳、そして白銀の衣。
幻影のように見えて、しかし確かな存在感を放っている。
足取りは軽やかでありながら、地に足の着いた実在の重みを持っていた。
「……っ!」
アリスは思わず言葉を失った。
目の前に現れた人物の顔から、視線を外せない。
《……え?》
《フローラ?》
《ちょっと待って……何で私がいるの?》
草原の静寂を破った新たな出会いに、アリスの思考が追いつかない。
廃墟の影から現れた人物は、アリスを真っ直ぐに見据えた。
その視線は刺すようではなく、ただ状況を見極めるための冷静な観察だった。
「……人族の少女か。驚かせてしまったね」
声は柔らかく響き、その姿はフローラと見紛うほどに似ていた。
アリスは息を呑み、警戒を解かずに問い返す。
「……あなたは……誰?」
背後の幼いエルフの少女――レイリスと呼ばれた子が、安堵したように剣を下ろす。
その肩の力が抜け、ほんのわずかに呼吸が整う。
その人物は小さく頷き、静かに口を開いた。
「私は――フローラ・エルディス」
「……っ!?」
アリスの瞳が大きく見開かれる。
《――ええ!?》
《ちょっと待って! フローラ・エルディスって私なんだけど!?》
《……私に言われても》
《だって……私、今アリスの中にいるよ!?》
《分かってる!》
アリスは混乱を抑えきれず、思わず声を上げた。
「……フローラ!?」
呼ばれた名に、目の前の銀髪の人物は小さく瞬きをしてから、柔らかく微笑んだ。
「……ええ。そう名乗っている」
同時に、アリスの思念の中でフローラの声が響く。
《うわぁ……自分と同じ顔で自分の名前を名乗られるの、ものすごく変な感じ》
《……今それ言う?》
《だって、本当に変なんだもん》
そのやり取りとは対照的に、目の前のフローラは真剣な眼差しを向けている。
「あなた……その名を呼んだ時の顔。まるで私を知っているかのようだったわね」
アリスは息を呑み、胸の奥で荒ぶる鼓動を抑え込んだ。
(……心の中のフローラのことは、言えない。今は――)
一瞬で判断を下し、言葉を選び直す。
「……私も、あなたを知っている気がする。でも……どうして、ここに?」
できるだけ自然に装いながら、目の前のフローラへ問い返す。
声の震えは抑え込んだが、内側ではまだ波が収まっていない。
銀髪の女性は、静かにアリスを見つめ返した。
「それを知りたいのは、こちらも同じよ。……人族が、こんな場所に現れるとは思わなかった」
背後の幼いエルフ――レイリスが、不安げにフローラの袖をつかむ。
その小さな指先が震えているのが、はっきりと見えた。
「……ねえ、本当に大丈夫なの……?」
その仕草に、目の前のフローラは柔らかく微笑みかける。
「大丈夫。……少なくとも、今は」
それを聞いて、レイリスの呼吸がわずかに整う。
一方、アリスの中にいるフローラが声を響かせた。
《ねえアリス》
《何?》
《私、自分を外から見る日が来るとは思ってなかった》
《私も思ってない》
《しかも名前まで同じ》
《同じ名前なんだから仕方ないでしょ》
《いや、それが一番困るんだけど》
アリスは思わず額を押さえたくなった。
それでも顔には出さず、目の前のフローラと向き合う。
自分の中にいるフローラと同じ顔を持ち、同じ名前を名乗る人物。
その隣には、幼いエルフの少女レイリスが立っている。
アリスはルミナ=コードを下げながら、改めて二人を見つめた。
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