第十五部 第一章 第2話
「今日は午後一時から、セシリアさんたち第一次調査隊による報告があります。その前に、簡単な内部ブリーフィングも行う予定です。……それと、アリス。部屋が変わりますから、案内しますね」
クラリスは歩みを止め、少しだけ声を和らげた。
「……あ、そうなんだ。てっきり今までの学生部屋かと思ってた」
アリスは驚いたように目を瞬かせた。
廊下に等間隔で設置された魔導灯の光が横顔を照らし、わずかな戸惑いを浮かび上がらせる。
「学生としての宿泊室は、訓練班用にそのまま残されています。けれど、あなたはもう“調査隊の一員”ですから」
クラリスは淡々と告げながらも、最後の一言だけは少し柔らかかった。
アリスは小さく息を吐き、肩をすくめるように苦笑する。
「そう言われると……いよいよ実感が湧いてくるわね」
クラリスは軽く頷き、エントランスホール脇に伸びる中央階段を指し示した。
広々とした石造りのホールには、上層へ続く階段が整然と伸びている。
壁面へ等間隔に埋め込まれた魔力灯が淡い白光を放ち、段差を照らしていた。
「隊員区画に移ってもらいます。来客用を転用した部屋ですが、個室で、執務机や装備棚、それに結界遮断機能も備えています」
アリスは階段を見上げながら、小さく息を吐いた。
「……待遇、変わったわけね」
口調こそ軽かったが、学生用の部屋とは明らかに違う設備の意味は理解できた。
「待遇、というより――責任の証、でしょうね」
クラリスの返答はさらりとしていた。
アリスは短くまぶたを閉じ、それから数歩前へ進む。
「……そうね。なら、その責任に応えられるように進むだけ」
「ええ、それでいいんです」
クラリスは静かに頷いた。
二人が案内されたのは、管理区画に隣接する静かな回廊の一角だった。
「この辺りは、思っていたより静かなのね」
アリスが小声で呟いた。
「管理区画の外れですから。人の出入りも制限されています」
クラリスは歩みを緩めることなく、淡々と応じる。
「なるほど……だから、こんなに音が響かないのね」
アリスは足元に意識を向けながら歩みを続けた。
通路は人の流れから少し外れた位置にあり、昼間にもかかわらず人影は少ない。
厚い石壁が音を遮っているのか、二人の足音も先ほどまでの廊下ほど響かなかった。
窓越しに差し込む光は白く澄み、古びた石床に柔らかな模様を描いている。
搬入作業の喧噪から離れたことで、空気まで少し冷たく感じられた。
やがてクラリスが一つの扉の前で足を止め、厚い扉へ手をかける。
「ここよ」
扉が開くと、外とは違う澄んだ空気が流れ出した。
結界によって周囲の音や魔力干渉が遮断されているのだろう。
そこには、簡易執務室と休息区が一体となった部屋が広がっていた。
「隊員区画の一室になります」
床は丁寧に磨かれた板張りで、壁際には淡く輝く魔術灯が等間隔に配置されている。
正面には木製の机が据えられ、その上にはすでに簡易端末が接続され、淡い青色の術式光を走らせていた。
窓際には紙資料を収めるための棚があり、反対側の壁には結界術式を組み込んだ装備棚が置かれている。
さらに奥には休息用の寝台があり、調査期間中に生活するための最低限の設備が揃えられていた。
「ここ、か……」
アリスは一歩踏み入り、室内を見回した。
学生用の宿泊室とは違う。
生活するための部屋であると同時に、任務を行うための部屋でもあった。
アリスは深く息を吸い込む。
木材の香りと、結界が張られた空間特有の澄んだ空気が混じっていた。
「……落ち着く、かも」
「気に入っていただけたなら良かったです」
クラリスは小さく頷いた。
先ほどまで耳に届いていた機材搬入の金属音も、ここまではほとんど届かない。
外の慌ただしさから切り離されたような静けさに、アリスはしばらく室内を眺めた。
(……これからの日々を、この部屋で過ごすのね)
正式な調査隊員として過ごす場所。
そう考えると、改めて環境が変わったことを実感する。
「それじゃ、荷物、持ってこなきゃね。あの部屋のままだと思っていたから」
クラリスは小さく笑みを浮かべ、頷いた。
「手伝いますよ。大した量ではなかったはずですし」
「ありがとう。すぐ終わりそうね」
アリスは軽く頷き、二人は再び学院生用の宿泊区画へと足を向けた。
かつて学生たちが行き交っていた廊下は、すでに静まり返っていた。
演習を終えた学生たちは帰還しており、今は空になった部屋ばかりが並んでいる。
窓から差し込む午前の日差しが石床を照らし、二人の足音だけが廊下に響いていた。
旧部屋の扉を開けると、そこには以前と変わらない簡素な空間が広がっている。
ベッド脇の棚には読みかけの本が数冊立て掛けられ、栞が挟まれたままのページが揺れていた。
魔術具を収めた整理ケースは整然と並び、机の上には書きかけのメモが残されている。
隅の木箱には、保存用の紙に包まれた干し果実や携行パンが詰められていた。
つい昨日までここで生活していた痕跡が、そのまま残っている。
そして部屋の奥には、淡い光を帯びた《インベントリア=ゼロ》が静かに置かれていた。
アリスはそれを手に取り、魔力を流し込む。
黒銀の外装に淡い光が走り、内部の収納空間が展開された。
本や整理ケース、食料箱といった荷物が、一つずつ光の中へ吸い込まれていく。
「こうして見ると、あんまり“荷物”って感じじゃないね」
クラリスが肩越しに視線を向けた。
部屋に残っていた物を改めて見れば、学生生活を支えてきた荷物はそれほど多くない。
「うん。必要最小限だったし、ほとんどこれに入っているからね」
アリスは《インベントリア=ゼロ》へ視線を落とした。
収納を終えると、二人は再び隊員区画へ戻った。
新しい部屋で《インベントリア=ゼロ》から荷物を取り出し、アリスは一つずつ配置していく。
机の上には必要最低限の魔術具と書物を並べ、棚には紙資料と携帯食料を収めた。
荷物そのものが少ないこともあり、作業はすぐに終わった。
何もなかった部屋に自分の物が置かれたことで、先ほどまでより少しだけ生活の気配が生まれている。
アリスは窓辺に腰を下ろし、部屋を見回したあと、クラリスへ視線を向けた。
「案内と手伝い、ありがとう。……なんだか、環境も気持ちも、切り替えって感じがしてきた」
窓の外に目をやれば、中庭を横切る数人の隊員の姿が小さく見える。
彼らは装備を運びながら短い指示を交わし、それぞれの持ち場へ向かっていた。
遠くから聞こえる金属音も、ここではかすかに届く程度だった。
「午後の会合まで少し時間があるわね。ブリーフィングまでの間、軽く目を通しておくといいよ。初回なので、こちらで資料も整理しておいたわ」
クラリスは机に歩み寄り、手にしていた封筒をそっと置いた。
厚みのある紙封筒が天板に触れ、短い音を立てる。
インクと上質紙特有の乾いた香りが、室内に漂う木材の香りへわずかに混じった。
アリスは椅子を引いて机に座り、封筒を手に取る。
中を軽くめくると、整然と並べられた文字列と図表が視界に広がった。
第一次調査で得られた記録を短時間で確認できるよう、内容が整理されている。
「うん、わかった。……クラリスも、準備で忙しいでしょ?」
アリスは顔を上げて問いかける。
「ええ。でも……大丈夫だよ」
クラリスは眼鏡の位置を人差し指で直し、軽く肩をすくめた。
その口元には、いつもの穏やかな笑みが浮かんでいる。
アリスも小さく笑い返した。
やがてアリスは椅子から立ち上がり、クラリスとともに扉の前まで歩く。
「じゃあ、また会合で」
「ええ」
クラリスはそのまま廊下へ出る。
アリスは見送ったあと、新たに与えられた自室の扉を静かに閉めた。
扉が閉じると同時に結界が働き、外の気配が遠ざかる。
――そして、ひとりになった部屋の中で、再び彼女を待っている“声”があった。
《ねぇアリスちゃん、さっきからね、搬入されてる荷物の中に、すっごく高級そうな保存瓶があったよ! あれ、たぶん例の“王国謹製・重粘性黒糖ソース瓶詰”ってやつじゃないかな!? きっと誰か、こっそり差し入れしてるよ!》
(……またそれ? フローラ、さすがに中身は調査機材じゃないかな)
《ふっふっふ……私のこの味覚センサー、なめないでいただきたい。あの重量と質感、そしてあの蓋の開けにくさ、間違いないっ!》
(……そろそろ、誰かに怪しまれるから抑えて……)
思わず笑いがこぼれ、アリスはベッドに腰を下ろした。
新しい部屋の寝台は学生用のものより広く、白布に覆われたシーツが整然と張られている。
窓から射す光が机へ落ち、置かれた紙封筒を淡く照らしていた。
ふざけたフローラとのやり取りに肩の力が抜ける。
それでも、午後には第一次調査隊からの報告が待っている。
(……午後の会合まで、あと三時間ちょっと。今のうちに、頭を切り替えておかないと)
アリスはベッドから立ち上がり、再び机の前へ腰を下ろした。
深呼吸を一つして資料へ手を伸ばす。
調査隊員として迎える最初の会合に備え、アリスはページを一枚ずつ静かにめくり始めた。




