第十四部 第三章 第10話
店に入ると、木の温もりを感じさせる内装と、香ばしい肉の焼ける匂いが出迎えてくれた。
磨かれた木の床は照明に照らされて柔らかい光を返し、壁にはガルシア地方の工芸品や古びた楽器が飾られている。
暖色の魔導灯が吊るされた店内は、落ち着きと賑わいが同居した空間だった。
奥のテーブル席に案内された一行は、メニューに目を通す間もなく、ラースの提案で「人数分の生ビールとフランクフルト、それにガルシア連邦のおつまみ」をまとめて注文することに決まった。
木製のテーブルに置かれたランプが、仲間たちの顔を明るく照らし、期待に満ちた空気が漂う。
「とりあえず全部まとめて頼もうぜ。こういうのは勢いが大事だ。」
ラースが笑いながら言い、他の面々も自然と頷く。
「こういう時は、考えるより楽しむのが正解よね。」
レティアも小さく笑みを浮かべ、グラスを受け取る準備をする。
やがて――木製サーバーの蛇口がひねられ、魔導冷却装置によって冷やされた黄金色の液体が音を立てて注がれる。
泡立ちがきめ細やかに盛り上がり、分厚いガラスジョッキに注ぎ切られると、表面に白い泡の層がしっかりと厚みを持って乗った。
外気に触れたジョッキの表面には結露が浮かび、透明な雫がつっと流れ落ちる。
その冷気の輝きだけで、喉が鳴るようだった。
「……これが、例のやつ?」
アリスは息をのんでジョッキを両手で掴み、泡の層を凝視する。
泡の向こうに広がる黄金色は、前世の記憶に刻まれた光景と重なっていた。
「よし、アリスには済まんが……。」
ラースが勢いよく椅子を引き、立ち上がると、堂々とグラスを掲げた。
「ここは俺が仕切らせてもらう!」
その仕草に一同は笑い、自然とグラスを手に取った。
「それじゃあ――。」
ラースが高らかに声を響かせる。
「実地演習の終了、そして――学院史上初の“全階層制覇”を記念して、乾杯ッ!」
「乾杯ッ!」
アリス、レティア、ザック、ミレーネ、リゼットの五人も声を揃え、力強くグラスを掲げる。
カランッ、とグラス同士がぶつかり合い、澄んだ音が広がった。
ラースは待ちきれないとばかりにジョッキを口へ運び――ごく、ごく、ごく……と一息に半分を飲み干した。
喉が上下に大きく動き、数秒後に「ぷはっ!」と息を吐く。
「……ぷはっ! これだよ、これッ! 冷えた喉ごし、最高!」
満面の笑みを浮かべるラースに、周囲の空気も明るく弾けた。
「いただきます。」
アリスは深く息を吸い、ジョッキをそっと唇へ運ぶ。
ごくり――と冷えた液体が口内を満たし、喉を駆け抜けた瞬間、電流のような感覚が走った。
(……っ! この味……懐かしい……!)
麦芽の甘みとほろ苦さ、泡が鼻先で弾ける軽快さ、そして冷え切った液体が喉をすべり落ちていく爽快感――そのすべてが前々世、はるなだった頃の感覚を呼び覚ます。
研究仲間と肩を並べて飲んだ夜、仕事の疲れを癒した瞬間、その記憶が鮮やかに蘇る。
思わず胸の奥が熱を帯び、目頭がじんとした。
(……ああ、これだ。間違いなく“生ビール”。これをまた口にできるなんて……!)
――《あぁぁ~~~っ……っっっっはぁあああああああああッ!!!!!》
次の瞬間、思念空間が爆発した。
《アリスちゃんっ!! これ、これ、コレだよッ!! この喉ごし、泡の香り、麦のコク……っ! 完ッッ璧! まぎれもなく、ビール! 生ビールぅぅぅぅううう!!》
フローラが絶叫しながら、思念の中で大の字になって地面を転げ回る。
その興奮は熱波のようにアリスにも押し寄せた。
(また始まった……でも……ほんとだ。これだよ……懐かしくて、胸が熱くなる……。)
アリスはジョッキを握る手に力を込め、苦笑しながらも小さく笑みをこぼした。
その笑顔は、仲間たちにはただ楽しげに映ったが――胸の奥でこみ上げる感情は、彼女だけの深い感銘と喜びだった。
目の前には、香草の効いた大ぶりのフランクフルトが湯気を立てて運ばれてきた。
表面はこんがりと焼き色がつき、切れ目からは透明な肉汁がじわりと染み出している。
熱気に混ざって立ち上るのは、ローズマリーやタイム、ガーリックの香り――その渦が鼻腔を刺激し、思わず唾を飲み込ませた。
《ああもう、あとはフランク……そう、フランクフルト! じゅわっとジューシーな肉汁! ハーブとガーリックの香りの渦! 神か! ここは天か!!》
(……声がうるさい……。)
アリスは苦笑しながらも、心の中で静かに頷いた。
確かに、これは――美味しいに違いない。
「アリス、どう?」
隣のレティアが興味深そうに問いかける。
「……正直、想像以上。冷たいから飲みやすいし、ちょっとクセになるかも。」
アリスはジョッキを軽く掲げて答える。
喉を抜ける爽快感が、今も余韻として残っていた。
「へえ……そこまで言うなら、ちょっと期待してもいいのかしら。」
レティアは微笑を浮かべながら、ジョッキに手を伸ばす。
「んー……どれどれ、わたしも……。」
レティアがジョッキを手に取り、恐る恐る口に含む。
ひと口、そしてもうひと口。
小さく目を見開き、感心したように頷いた。
「――あれ? 思ったよりいいかも。苦いけど、後味がすっきりしてる。……うん、これは確かに、エールとは違うわね。」
「すっきりしてて、あの独特の香りがない……炭酸も、ちゃんと冷たいと悪くないのね。」
「お、美味しい……。」
ミレーネは泡で口の端を白くしながら、少し頬を赤らめて微笑む。
「これ、食事と一緒なら、どんどん飲めちゃいそう……危ないかも。」
「無理するなよ。こういうのは自分のペースでいいんだからな。」
ラースが笑いながら声をかける。
ちょうどその時、厨房からジュウジュウと香ばしい音が響き、大皿に盛られたフランクフルトの盛り合わせが運ばれてきた。
肉々しいソーセージが山盛りに積まれ、湯気の合間から脂の輝きがのぞく。
添えられたガルシア風のピクルスは色鮮やかで、スパイスの効いた芋の炒め物が香りを引き立てていた。
「うおっ、これは……絶対うまいやつ!」
ザックが目を輝かせ、すぐさま一本を手に取ってかぶりつく。
「……あ、うまっ! 意外と軽い味。けど肉汁がじゅわっと……あーこれ、ビールに合うやつだ。」
レティアも控えめにフォークで小さめのソーセージを口に運び、噛んだ瞬間に広がる香りに目を瞬かせる。
「香辛料が効いてるのね。……でも、想像より食べやすいかも。」
苦手意識があったビールも、冷えた一杯と合わせれば驚くほど自然に喉を通った。
レティアは小さく笑みを浮かべ、「これなら、いけるかも」と呟く。
ミレーネはフランクフルトを半分に切ってから口に運び、熱さに頬を膨らませながら噛みしめた。
「……なにこれ、ふわっとしてるのに噛みごたえもあって……ちゃんと美味しい……!」
普段はあまり肉料理を好まない彼女も、驚きのあまり目を丸くし、そのまま二口目へと手を伸ばしていた。
そんな中――。
「ほんとに?」
アリスも続いてかじりつき、噛んだ瞬間、肉汁が口いっぱいに広がった。
弾けるようにあふれ出た熱い旨味が舌を包み込み、香草の香りが鼻へと抜けていく。
「うわ、スパイス効いてる……なのに塩味が強すぎなくて、ジューシーで、ビールに合う……!」
噛むたびにじゅわりと染み出す肉汁と、香ばしい焼き目の風味。
そこへ追いかけるように喉を抜ける冷たいビールの余韻が重なり、味覚の奥でひとつに溶け合っていく。
懐かしい生ビールの感覚に続き、フランクフルトの味わいが重なり、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
まるで過去の記憶と現在の幸福がひとつになったように。
その瞬間――。
《アアアアアアアアアアッッッ!!!! じゅわあああああ!!! きたこれえええええええええええええッ!!!!!》
――アリスの脳内にだけ、爆発音のごとく響く思念が炸裂した。
思念空間の中に、まるで祝砲のような光の弾ける映像と熱波が流れ込み、心臓がびくりと跳ねるほどの勢いだ。
《もうだめぇ、アリスちゃんっ、ビールとフランクのこのコンボ……最強だよ、最強!! ああああああっっ!! これぞ日本の晩酌文化の到達点! 無限にいける! 私は今、完全に帰還した――人間だったころの食卓にッ!》
まくしたてるようなフローラの声に、アリスは思わず肩を震わせて笑いをこらえた。
(……フローラ、思念が大きすぎる……! 頭の中が本当に爆発しそう……。)
《アリスちゃんっ! これだよこれ! この味! じゅるり……懐かしすぎて涙出そう! 絶対、今日は飲もうね? キンキンの生ビールにフランクフルトって、これはもう最強すぎるってば……!》
次々となだれ込む勢いある思念の奔流に、アリスの脳内が泡立つように騒がしくなる。
ビールの炭酸が喉で弾ける感覚と、思念の弾ける音が混ざり合い、境界があいまいになっていく。
思わず、グラスを持つ手が小さく震えた。
琥珀色の液体の表面が揺れ、照明の光を反射してきらめく。
アリスはくすっと笑みを漏らしながら心の中で応じた。
(はいはい、わかったから。ちゃんと噛んで落ち着いてね? あと、暴走はダメだよ。私の中で泡立ってるのがわかるくらい騒がないで。)
《む、むり……! この炭酸の喉越し……っ! ああっ、今すぐジョッキ抱えて温泉入りたい……!》
思念の中でフローラがジョッキを両腕で抱え、湯気立つ温泉へ豪快にダイブする映像がアリスの脳裏に流れ込み、耐えきれず吹き出しそうになる。
「アリス? ……なんか、すごく楽しそうだね。」
隣にいたミレーネが小首を傾げ、アリスを覗き込む。
その瞳は純粋な好奇心に満ちている。
「あ、ごめん……ちょっとね、思い出したことがあって。」
アリスは慌てて表情を整え、ビールの泡を指先でそっとなぞりながら誤魔化した。
「ふぅん……なんか、急にテンション高かったから。お酒、そんなに好きだったっけ?」
ミレーネは首をかしげつつも、からかうような悪意のない笑みを浮かべる。
「そうでもないけど……たまには、ね。」
アリスは照れくさそうに微笑み、グラスを軽く傾けてもうひと口。
冷えた苦味が喉を抜けるたび、胸の奥の懐かしさが波のように押し寄せてくる。
レティアは肩をすくめ、半ば呆れたように笑いながらもまた一口。
「でも、気持ちは……ちょっと、わかるかも。」
店内のざわめきと香ばしい肉の匂い、仲間たちの笑い声。
そのすべてが、心地よくアリスの胸を満たしていた。
(思念空間って便利だけど、感情共有が強すぎるのが難点ね……。)
そう苦笑しながらも、アリスは小さく額に手を当て――結局はつい、笑ってしまうのだった。
そんな中――。
《……ふふふ、ねえアリスちゃん、もう一杯いこうよ! ねっ、もう一杯っ! あと五杯くらい!》
(ストップ。思念で酔っ払うってなに? あと五杯ってどうやって飲むつもり?)
《えっ……そのへんはこう、魂で!?》
(魂で飲むな。)
脳内にだけ展開される、阿呆みたいに賑やかなやり取り。
もちろん、その会話が誰の耳にも届くことはなかった。
アリスの表情だけがわずかに緩み、隣のレティアが首をかしげて不思議そうに見やる。
《とりあえず、もう一杯いこっか! 二杯目はちょっと泡多めでお願い! あ、ソーセージ、次はマスタードつけよう! いや、ケチャップも捨てがたい……ああああああっ、悩むぅぅぅぅ!!》
(……今日は絶対酔うな、これ。)
アリスは内心で苦笑しつつ、静かにグラスを傾ける。
冷えた液体が舌を撫で、喉を流れ落ちる。
喉の奥で小さな泡が弾け、そのたびに胸の奥がじんわりと温まった。
テーブルの上には次々と料理が並んでいた。
表面をパリッと焼き上げたフランクフルトの皿からは、香草と肉汁の匂いが絶え間なく漂い、付け合わせのピクルスやスパイス炒めの芋が彩りを添えている。
木製のジョッキが何度も打ち鳴らされ、そのたびに小さな乾杯の音が弾んだ。
「こっちのソーセージ、ちょっと辛いけど美味しい!」
「ほんとだ……ピリッとしてるけど、後から甘みが来る。」
「この芋、香ばしくてやめられないな……。」
ラースが大口を開けて豪快にかぶりつき、ザックが意外と几帳面に皿を取り分け、ミレーネが泡をつけた口元を拭いながら笑う。
リゼットはピクルスを少しずつ味わいながら、時折感心したように小さく頷いていた。
それぞれの笑顔や賑やかな声が重なり合い、テーブルの上には心地よい熱気が満ちていく。
木製のテーブルを囲む六人の間には、演習を終えたばかりとは思えないほど柔らかな空気が流れ、笑い声が絶え間なく弾んでいた。
「ほんと、この組み合わせは反則だな。飲みながら食うと止まらねえ。」
ラースが豪快に笑いながらジョッキを掲げる。
「ちょっと、食べ過ぎじゃない? さっきから三本目よ。」
レティアが呆れたように言うが、その口元は緩んでいた。
「いやいや、これは別腹だろ。むしろ正当な摂取だ。」
「何それ、初めて聞いた理論なんだけど。」
ミレーネが吹き出し、場の空気がさらに軽くなる。
ザックはそんなやり取りを横目に、グラスを軽く傾けながら冷静に言う。
「理屈はともかく、この地域の香辛料配合は興味深いな。保存性と風味を両立している。」
「ザックはほんと、どこでも分析するのね。」
リゼットが苦笑しつつも、楽しそうに頷く。
その一つひとつの会話が、どこか安心感を伴って胸に響いていた。
アリスはそんな仲間たちを眺めながら、ふと胸の内でつぶやいた。
(乾杯の余韻、異国の味、そして……心の中で騒がしくも懐かしい誰かの声。全部が、なんだか温かい)
思念の奥では、相変わらずフローラがはしゃいでいる。
《アリスちゃん、もう一口いこうもう一口! あああ、この泡……この泡の質感がね、完璧なの!》
(はいはい、ちゃんと味わってるから落ち着きなさいって。)
《いや無理! これはテンション上がるやつ! もう一回乾杯しようよ乾杯!》
(何回乾杯する気なの……。)
内心の騒がしさとは裏腹に、アリスの表情は穏やかだった。
ジョッキを再び持ち上げたとき、木の壁に反響する笑い声と、香ばしい肉の匂い、そして賑やかな思念が溶け合って、彼女の心を満たしていた。
グラスの中で揺れる黄金色の液体が、灯りを受けて柔らかく輝く。
その光は、どこか遠い過去と今を繋ぐように感じられた。
「アリス、どうしたの? さっきからちょっと静かだけど。」
レティアが気づいたように声をかける。
「ううん、ただ……こういう時間、いいなって思って。」
アリスは小さく微笑みながら答える。
「……そうね。こういうの、悪くないわ。」
レティアも穏やかに頷き、グラスを軽く掲げた。
「じゃあもう一回、軽くいく?」
ミレーネが楽しそうに言い、
「いいね、それ。」
ラースが即座に応じる。
「……ほどほどにしておけよ。」
ザックが呆れたように言いながらも、グラスを持ち上げる。
「でも、こういう時間って大事ですよね。」
リゼットが小さく笑いながら加わる。
自然とグラスが集まり、もう一度軽い音が鳴った。
その音は先ほどよりも柔らかく、どこか穏やかな余韻を伴って広がる。
こうして一同は笑いに包まれながら、ガルシアの夜を賑やかに、更けゆく時の中で味わっていった――。




