第十二部 第二章 第5話
重苦しい空気が会議室を支配していたそのとき、イリナ・フェルステンがぱっと両手を打ち合わせるようにして表情を明るく変えた。
乾いた音が軽やかに響き、その一瞬で場の空気が切り替わる。
「でもまあ! そういう謎は専門の人たちが頑張ってくれるでしょ! 今はせっかくの再会なんだから、ちょっと息抜きも大事ってことで! ずっと難しい話ばっかりじゃ、頭も固まっちゃうしね!」
唐突な調子転換。
だが、それは意図的だった。
何人かが思わず吹き出しそうになる。
張り詰めていた空気が、ふっと緩む。
「そうそう!」
すかさずエミリアが椅子から前のめりになる。
机に肘をつき、身をぐっと乗り出す。
「アリスさん、最近なにか面白いことなかった? 演習中の珍事件とかでもいいし、ちょっとした失敗談でもいいし、とにかく聞かせてください! こういう話って現場の雰囲気も分かるし、すごく参考になるんですよ!」
その瞳は完全に興味で輝いている。
「えっ……面白いこと、ですか?」
アリスは戸惑いながらも、少し考えるように指先を顎に当てる。
視線を宙に泳がせ、記憶を探る。
その仕草に、周囲の面々は一斉に前のめりになる。
期待が空気を押す。
「何でもいいよ!」
イリナが食い気味に言葉を挟む。
「ほんとに些細なことでもいいし、むしろそういうのの方が面白いから! ね、ミリエル!」
隣のミリエルも穏やかな笑みを浮かべて頷く。
「たとえば、食事で妙なものが出されたとか、班内の誰かが寝ぼけて変なこと言ったとか、そういうちょっとした話でもいいのよ。むしろそういう方が印象に残るものだし」
その言葉に、アリスの表情がわずかに緩む。
「……ラース君が夢の中で、魔獣相手に演説していた話なら……」
小さく笑いながら口にする。
その瞬間。
空気が変わる。
イリナの瞳がぱっと輝いた。
「うわ、それ詳しく聞かせて! 絶対面白いやつでしょそれ!」
「待って、それ絶対記録に残したい!」
エミリアは慌てて端末を取り出す。
操作を始める。
「録音機能オン……よし、これで完璧! はい、どうぞ!」
大げさな仕草。
だが本気だ。
「あはは……みんな変わってないですね」
アリスは肩を竦め、苦笑まじりに答えた。
その笑みには、かつての調査で共に過ごした日々の安心感がにじんでいた。
「で、そのラース君なんだけど……夜中に急に起き上がって、すごく真剣な顔で……」
彼女の語りが始まる。
会議室の空気が、ゆっくりと変わっていく。
――ラースが寝言で大演説をぶち上げた話。
暗い寝室。
静まり返った空気。
その中で。
「勇敢なる諸君、恐れるな! 魔獣など一刀のもとに――」
突如として響いた声。
それは完全に本気の口調だった。
寝言とは思えないほどの迫力。
「ザックが隣で寝てたんですけど、あまりに大声で……途中で完全に目を覚まして、それでもラース君は止まらなくて……最終的にザックが耳を塞いでました」
アリスが淡々と補足する。
「えっ……そんな人なんですか?」
エミリアが目を丸くする。
「演説……夢の中で?」
フィレルがきょとんとした表情で繰り返す。
頭の中で情景を組み立てる。
次の瞬間。
くすっと笑う。
「なんだか、やけに勇ましい方のようね」
レイナ・アスフォードが腕を組んだまま言う。
口調は冷静。
だが、興味は隠しきれていない。
「ちょっと待って、寝言で演説って……どういう人柄なの? 真面目なの? 面白いの? どっちなの?」
イリナが首を傾げながら笑う。
アリスは苦笑しつつ答えた。
「えっと……普段はすごく真面目で、武術に関しては学院でも上位の実力者なんです。ただ、時々、妙に一本気すぎて……ああいうことに」
「なるほど……そういう意味では、寝言にも性格が出るのね」
ミリエルが感心したように言う。
会議室の笑いがさらに広がる。
――ミレーネが半覚醒のまま術式詠唱を始めた話。
薄暗い部屋。
静かな寝息。
その中で。
「……シールド展開、シールド展開……」
ぼそぼそと呟く声。
次の瞬間。
空気が震える。
光がにじむ。
布団の上に、薄く光の膜が展開しかける。
「ザックが慌てて起きて、即座に術式干渉で止めてました。あと数秒遅れてたら、部屋ごと防御結界に包まれてたと思います」
アリスの補足。
「その場にいたら、私も止めに行ってましたね」
ミリエルが苦笑する。
「夢の中でも真面目すぎる……!」
エミリアが肩を震わせる。
――ザック自身の失敗談。
実験中。
静かな空間。
集中した空気。
次の瞬間。
ぱんっ。
乾いた爆発音。
煙が立ち上る。
「ぱんっ、って音がして、煙が立ち上がったんですけど……本人は何事もなかったかのように眼鏡を直してました」
アリスの説明。
その瞬間。
会議室の一角から笑い声が弾けた。
「それ、想像できる……!」
イリナが机を叩きながら声を上げる。
レイナ・アスフォードでさえ、口元をわずかに緩める。
重い議題を抱えていた会議室に、久方ぶりの笑い声が響き渡る。
堅苦しい報告書や緊張した議論に支配されていた空気が、一瞬にして崩れ落ちる。
誰もが肩の力を抜く。
「ははっ、それは想像しただけで面白すぎる!」
マーロ・ディルヴィン中尉が手を叩く。
机の端に身を乗り出して笑う。
普段の姿とのギャップ。
それがさらに笑いを誘う。
「ちょっと待って、笑い声で録音がぐちゃぐちゃになる!」
エミリアは慌てて端末を抱え込む。
だが、頬が緩みっぱなしで、言葉にならない。
「はは……駄目だ、涙が出る……!」
イリナは笑いすぎて椅子にもたれかかる。
袖口で目元をぬぐう。
「前髪を焦がして平然と眼鏡を直すなんて……本当にそんな人がいるのね」
レイナ・アスフォードが小さく首を振る。
それでも口元は緩んでいる。
「……妙に絵になるわね。爆発の煙の中で眼鏡を直す姿なんて」
ミリエルが肩を揺らして笑う。
フィレルが小さく俯く。
「や、やめてください……想像したらもう……」
耳まで赤く染まっていた。
笑い声は次第に大きくなる。
机を叩く音。
椅子のきしみ。
深呼吸混じりの吐息。
それらが絶え間なく交じり合う。
その渦の中、アリスは少し照れながらも穏やかな笑みを浮かべ、皆の楽しげな顔を眺めていた。
笑い声が重なり合い、空気が柔らかく震える。
机を叩く音や椅子の軋みが、どこか心地よいリズムとなって空間に溶け込んでいく。
自分の話でここまで盛り上がることに、わずかな照れと同時に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
視線を巡らせるたびに、それぞれの表情がはっきりと見える。
笑っている顔。
目を細めている顔。
肩を震わせている顔。
どれも、かつて共に命を懸けた仲間たちの顔だった。
演習の過酷さや調査の緊張を、一時だけでも忘れさせてくれるような、微笑ましい小話がいくつも続き――。
そのひとつひとつが、空気をさらに軽くしていく。
言葉の端に乗る温度が、場を満たしていく。
会議室には、かつて共に石碑の前に立ったあの日と同じ、いやそれ以上に温かい時間が、静かに、しかし確かに蘇っていた。
ふとした間が訪れる。
笑いがひと段落し、呼吸を整えるような静けさが生まれる。
アリスが小さく息を吸った。
その動きは自然だったが、周囲の意識をわずかに引き寄せる。
「……そういえば、皆さん、あの調査のあと、どうされていたんですか? その後のこと、ちゃんと聞く機会がなかったので……少し気になっていて」
その問いかけに、イリナ・フェルステンが「待ってました!」とばかりに手を打つ。
椅子が軽く揺れ、彼女は腰を少し浮かせるほど勢いよく前のめりになる。
「じゃあ、順番に報告タイム! まずは私からいこうかな? あのあとすぐ、術式応用の研究班に配属されて、今は空間転移理論と石碑符号の照合をやってるの。正直めちゃくちゃ難しいけど、やりがいはあるよ!」
声は明るい。
その中に、誇らしさがはっきりと滲んでいた。
「現場派だったのに、すっかり分析屋ですね」
ミリエル・オストンが半ばからかうように笑う。
軽い口調。
だが、どこか楽しんでいる。
イリナは待ってましたと言わんばかりに胸を張った。
「まあね! でもやっぱり、現場のほうが刺激は多かったなあ……アリスさんの班と一緒に潜ったときみたいに、ああいう緊張感の中で動くのって、やっぱり忘れられないし、時々無性に戻りたくなるんだよね」
言葉の端に、懐かしさと誇らしさが混じる。
「私も少しだけ現場に戻ってたんですよ」
エミリア・カリードが穏やかな声で続ける。
机上の端末を指で軽く叩く。
「報告士と補助記録士の兼任で、あちこちの演習にも立ち会ってました。現場で記録を取るのって思っていた以上に大変でしたけど、その分、実際の状況を肌で感じられるのは大きかったですね。最近は固定配属になって、ここの調査室の補佐に戻ってきたところです」
その声音は落ち着いている。
だが、その奥には確かな経験の積み重ねがあった。
「君がいなければ、今の記録整理の精度は保てていないよ」
マーロ・ディルヴィン中尉が真面目な口調で口を挟む。
言葉は短い。
だが、その重みは大きい。
エミリアは目を瞬かせる。
すぐに頬を赤らめ、はにかむ。
「……そんな、大げさです。私はただ、自分の役割をやっているだけですから」
だがその声音には、少し誇らしげな色がにじんでいた。
「私は、記録術式の処理系に関する論文を書かされてばかりです」
フィレル・ロスがぼそりと呟く。
視線は下。
声は小さい。
その瞬間。
周囲が一斉にくすりと笑う。
フィレルは耳の先まで赤くしながら、視線をさらに落とす。
「でも、精度は格段に上がったでしょう?」
ミリエルがすかさず補足する。
「私たちが実践で使ってる結界干渉の補正スクリプト、あれ全部フィレルの設計なんだよ。現場でもかなり助かってるし、正直あれがなかったら危なかった場面もあった」
その言葉に、フィレルはさらに小さく縮こまる。
それでも、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
「レイナさんは?」
アリスが視線を向ける。
自然な流れ。
レイナ・アスフォードは姿勢を正す。
腕を組み直し、落ち着いた口調で答える。
「私は王国本部の制御工学室で、石碑の符号解釈と魔力圧縮制御の安定化に取り組んでるわ。例の“門”の制御にも関わる可能性があるから、正直かなり責任は重いし、少しでも判断を誤れば取り返しがつかないことになるから、気は抜けないの」
その声音には緊張と責任の重さが滲む。
場にわずかな真剣さが戻る。
「……みんな、すごいですね。私も頑張らないと」
アリスがぽつりと漏らす。
自然に出た言葉。
その瞬間。
全員が一斉に微笑む。
「アリスさんは、もう十分すごいよ」
イリナが真っ直ぐな瞳で言葉を重ねる。
「今こうして、また会いに来てくれたことだって、私たちにとってはすごく意味があるんだから。あの時のことも、今こうして繋がってるって実感できるし、それだけで十分すごいことだと思う」
その言葉はまっすぐだった。
「……ありがとうございます」
アリスは少し照れたように目を伏せる。
それでも、柔らかな声で感謝を告げた。
その瞬間。
会議室にまた静かな温もりが満ちていく。
――誰もが、それぞれの道を歩きながらも、あの時の絆は確かに今も続いている。
それは、アリスにとっても、間違いなくかけがえのないものだった。
やがて、壁際に据えられた時計の針が、夕食時刻を告げる数分前を指した。
静かな秒針の音が、規則正しく刻まれる。
その小さな音が、にぎやかだった会議室の空気の中で、ふと意識に浮かび上がる。
誰もが無意識のうちに、その時間の流れを感じ取っていた。
クラリスがふと端末に目を落とす。
視線を走らせ、時間を確認する。
そして、柔らかな声で口を開いた。
「……そろそろ、戻った方がいい時間ね。夕食の準備もあるでしょうし、無理に引き留めるわけにもいかないものね」
その一言で、空気が少しだけ引き締まる。
楽しい時間が終わりに近づいていることを、全員が理解する。
アリスは姿勢を正す。
椅子を静かに引く。
音を立てないように注意しながら立ち上がる。
白い制服の裾を整える。
乱れを指先で整え、呼吸を整える。
そして、深く礼を取る。
「はい。お誘いくださって、ありがとうございました。こうして皆さんとお話しできて、本当に嬉しかったですし、少しの時間でしたけど、とても大切な時間になりました」
律儀な一礼。
その動きは無駄がなく、自然で、美しい。
会議室にいた面々の表情が自然とほころぶ。
誰もがその所作に、彼女らしい誠実さを感じ取っていた。
「じゃあ、また。……気をつけてね。演習中なんだから、無理は絶対しないこと。ちゃんと休むのも仕事だからね」
エミリアが軽やかに声をかける。
その声には、少しだけ姉のような優しさが混じっていた。
ミリエルも小さく手を上げる。
「明日からの演習、無理はしないで。あの層の影響は予測しきれない部分もあるし、少しでも違和感を感じたらすぐに引く判断も大事だから」
その言葉には、実務者としての重みがある。
「はい。皆さんも、調査がうまく進みますように。危険な領域も多いと思いますけど、どうか無理はなさらずに」
アリスは一人ひとりに視線を巡らせる。
順番に目を合わせるようにして答えた。
その眼差しは柔らかい。
だが、その奥には確かな意志がある。
レイラ・アスコットが音もなく立ち上がる。
椅子の軋みすら立てない。
そのまま扉の方へ静かに歩き出す。
一歩一歩が無音に近い。
その背は護衛の先導そのものだった。
アリスも自然にその後へ続く。
動きに迷いはない。
磨かれた床に、二人の足音が軽く響く。
それは規則的で、静かなリズムを刻む。
やがて出口へと近づいていく。
その背中に向かって、イリナが勢いよく手を振った。
「次は質問リスト、倍にしておくから! 今度はもっと時間取ってもらうからね! 覚悟しておいてよ!」
その声は明るく、どこまでも前向きだった。
「お手柔らかにお願いしますね。あまり厳しい質問ばかりだと、答えに詰まってしまうかもしれませんから」
振り返ったアリスが苦笑まじりに応じる。
そのやり取りに、室内に再び笑い声が広がる。
扉が静かに閉まりかける。
その直前。
アリスはほんの一瞬だけ立ち止まる。
足を止める。
そして、肩越しに振り返る。
視線が、室内の仲間たちをなぞる。
そして。
穏やかに微笑む。
――その笑みは、確かに以前と同じ。
けれど、三百年の歴史を背負い、今を歩む彼女だけが見せられる、強さと優しさを湛えた笑顔だった。
扉が音もなく閉ざされる。
その瞬間。
空気がわずかに揺れる。
そして静まる。
会議室には余韻のような静けさが残る。
笑いの残響が、まだ微かに漂っている。
誰もがその面影を胸に刻むように、しばし言葉を失った。




