第十二部 第二章 第6話
夕食は、ダンジョン演習を共にした仲間たち――ラース、ミレーネ、ザック、リゼット、レティア、ヴィクトール、イリーナと一緒に、施設内の食堂で和やかに取られた。
長い演習を終えた身体に、食事の時間がゆっくりと染み込んでいく。
すでに日が暮れ、やや遅めの時間帯だったこともあって、広い食堂には他の班の姿はまばらだった。
遠くのテーブルに数人の姿が見えるだけで、大半の席は空いている。
空いた空間の静けさが、彼らの一角をまるで専用の談話室のようにしてくれていた。
周囲のざわめきが少ない分、声も自然と柔らかく響く。
照明魔導灯の温かな光に包まれ、テーブルの上には香り高い料理が並んでいる。
湯気がゆらゆらと立ち上り、香辛料の匂いが鼻腔をくすぐる。
肉の旨味と香りが混ざり合い、食欲を静かに刺激していた。
「これ、今日の特製らしいよ。地鶏のスパイス煮込みって。厨房の人が気合い入れて作ったって聞いたから、ちょっと期待してたんだけど……うん、これは当たりだね」
レティアがフォークを持ち上げる。
皿の上の煮込みを誇らしげに掲げる。
その表情は明らかに上機嫌だった。
「……レティア、それ三回目。よっぽど美味しいのね。そこまで繰り返すってことは、相当気に入ってるでしょ」
ミレーネが眼鏡の奥で優しく微笑む。
静かに指摘する。
周囲から笑い声がこぼれた。
「だって、ほんとに味付けが絶妙なのよ。ほら、スパイスが鼻に抜けて、でも後味はまろやかで、変に尖ってないの。ちゃんと調整されてて、疲れてる身体にも優しい感じがするのよね」
レティアは熱心に語る。
そのまま再び一口。
ゆっくり噛む。
そして、うっとりと目を細める。
その様子に、ザックが肩を竦める。
「……料理評論家でも目指してるのか。分析の仕方が完全にそっち寄りになってるぞ」
ぼそりと呟く。
「それ、私も気になってた。説明が妙に具体的だし、聞いてると普通にお腹空いてくるんだよね」
リゼットが小さく笑う。
口元に手を添えながら続ける。
イリーナは勢いよく同調する。
「でも確かに美味しい! これほんとに当たりだよ! ちょっと待って、私ももう一口ちゃんと味わってみる!」
スプーンを手に取る。
すくい上げる。
口に運ぶ。
「ん……ほんとだ! 鶏肉が柔らかい! ほぐれる感じがすごいし、味がちゃんと中まで染みてる!」
嬉しそうに目を輝かせる。
隣のヴィクトールも頷く。
「香辛料の調合も絶妙だな。刺激が強すぎず、だが確実に身体を温める。訓練後の疲労が和らぐ感じがする。こういう料理は理にかなっている」
落ち着いた声で分析を添える。
その言葉に、再び笑い声が弾ける。
互いの表情に穏やかな緩みが広がっていく。
緊張がほどける。
演習という緊張の連続から解き放たれたひととき。
その空気の中で。
アリスも自然と口元をほころばせていた。
意識せずとも、笑みが浮かぶ。
耳に響く仲間たちの声。
漂う料理の香り。
柔らかい灯り。
そのすべてが、彼女にとって何よりも大切な「今」を刻んでいるのだった。
食後はそれぞれの部屋へと戻る。
会話の余韻を残したまま、自然に散っていく。
アリスも支給された滞在用の私室へと足を運んだ。
廊下は静かだった。
足音だけが規則的に響く。
扉の前で立ち止まる。
鍵を開ける。
扉を開けると、そこには簡素ながら整えられた空間が広がっている。
余計な装飾はない。
だが、機能的に整えられている。
白木の机には演習記録や地図の複写紙が散らばっている。
紙の端がわずかにめくれ、書き込みの跡が見える。
端には羽根ペンとインク壺が置きっぱなしになっていた。
使用されたばかりの気配が残っている。
窓辺の椅子に腰を下ろす。
身体を預ける。
わずかに疲労が抜けていく感覚。
卓上の小さな急須に湯を注ぐ。
湯が注がれる音が、静かに響く。
淡い灯りの中で立ちのぼる湯気。
ゆらゆらと揺れながら、空気に溶けていく。
アリスはそれを、静かに眺めていた。
――コン、コン。
控えめなノック音が、部屋の静けさをやわらかく破る。
静寂に溶け込んでいた空気が、ほんのわずかに揺れる。
アリスは小さく息を整える。
胸の内に残っていた余韻を静かに押し戻す。
椅子から立ち上がる。
足音を抑えながら扉へと歩く。
「はい――」
短く応じる声。
それは落ち着いている。
扉を開ける。
そこに立っていたのは、クラリス・ノーザレインとレイラ・アスコット。
廊下の灯りを背に受け、二人の輪郭が柔らかく浮かび上がる。
クラリスは、研究者らしい白衣に細縁の眼鏡をかけ、その上から軽やかな上着を羽織っていた。
栗色の髪はきちんとまとめられている。
その一筋一筋に整えられた几帳面さが現れている。
理知的な灰青の瞳。
そこには、親しみを込めた柔らかな笑みが宿っている。
どこか懐かしさを感じさせる表情だった。
一方のレイラは、ティアナ騎士団の制服に身を包む。
無駄のない直立姿勢。
重心のぶれない立ち方。
軍人としての訓練がそのまま形になっている。
黒髪を短くまとめ、鋭さを湛えた瞳は健在だった。
だが今は、戦場の緊張はない。
落ち着いた気配を纏っている。
「遅くにごめんなさい。少しだけ、話せるかしら? 急ぎではないのだけれど、どうしても今のうちに伝えておきたいことがあって」
クラリスが眼鏡の奥で目を細める。
声は柔らかい。
レイラは無言のまま軽く頭を下げる。
礼の動作は正確で、迷いがない。
「……もちろん。どうぞ、入って。ちょうど一息ついていたところ」
アリスは微笑みを浮かべる。
扉を大きく開ける。
二人を迎え入れる。
柔らかな灯りに照らされた私室へと、二人の影がゆっくりと差し込んでいった。
床に伸びた影が重なり、淡く揺れる。
室内に入ったクラリスとレイラは、扉を閉める。
静かな音。
そして揃って軽く一礼する。
動作は揃っている。
息が合っている。
窓際の椅子と簡易テーブルのそばへと静かに歩み寄る。
歩幅は一定。
椅子を引く。
音を立てない。
その仕草も自然で、まるで以前からここに居たかのような落ち着きを漂わせている。
「お茶を淹れていたところなんだよ。よければ、まだ温かいからどうぞ。ちょうど飲み頃になっていると思う」
アリスが手元の急須を示す。
クラリスは眼鏡の奥で目を細める。
懐かしそうに微笑む。
「うれしいわ。アリスが淹れるお茶、久しぶりね。こうしてゆっくり座って話す時間も、なかなか取れなかったものね」
その声には、わずかな安堵が含まれていた。
「……私も、いただこう。こういう落ち着いた時間は、久しくなかったからな」
短く答えたレイラ。
声音には、どこか緊張を和らげる安堵の色が混じっていた。
アリスは慣れた手つきで茶を淹れる。
急須を傾ける。
湯の流れる音。
静かな水音。
三つのカップに香り高い琥珀色の液体が注ぎ分けられる。
表面にわずかな揺らぎ。
ほのかな湯気が立ち上る。
空気に溶ける。
室内に柔らかな芳香が広がっていく。
それは、外の冷気を忘れさせるほどに温かだった。
「温かいうちに、どうぞ。少し濃いめに淹れてあるから、疲れも取れると思う」
差し出されたカップを手に取るクラリス。
指先がわずかに緩む。
そっと唇を湿らせる。
「……ふふ。やっぱり落ち着く味ね。香りもいいし、変に強すぎないのがちょうどいい。こういうのが一番ほっとするのよね」
わずかに肩を下ろす。
微笑みを漏らす。
その仕草には、彼女が心底くつろいでいることがにじんでいた。
対面のレイラも一口含む。
ゆっくりと味わう。
目を細める。
軍装の硬さを纏った横顔に、ようやく人心地ついたような柔らかさが差す。
「……いいな。身体に染みる。こういう時間は、戦場では決して得られないものだ」
その声は低く、静かだった。
三人で茶を囲む。
しばしの静寂。
言葉はない。
だが、空気は満ちている。
蝋燭の炎がゆらめく。
影が壁に揺れる。
窓辺の影も、かすかに動く。
外からは人の気配もない。
完全に閉じられた空間。
外界と切り離されたような静けさ。
その中で。
レイラがふいに小さく息を吐いた。
「……アリス。できれば、偽装を解除したい。ここでなら問題ないと判断したが、念のため確認を取りたい」
その声音は落ち着いている。
だが、慎重さが滲んでいた。
アリスは驚いたように瞬きをする。
一瞬だけ間が空く。
だがすぐに、柔らかな微笑を返す。
「ええ。ここには、もう他に誰もこないわ。外部との干渉もないし、問題はないと思う。大丈夫よ」
その言葉は静か。
だが、確信がある。
レイラは静かに目を伏せる。
呼吸を整える。
右手を胸元に添える。
――瞬間、淡く青白い光が彼女の全身を包み込んだ。
光は揺らめきながら広がり、輪郭を優しく溶かしていく。
まるで水面に落ちた雫が波紋を広げるように、静かに、しかし確実に変化が始まる。
黒髪はさらさらと波打つ。
一本一本が光を受けて揺らぎ、やがて色を変えていく。
透き通るような青白い髪へと姿を変えていく。
光を内包したような淡い輝きが、静かに広がる。
深紅の瞳はゆっくりと銀に透き通る。
色が抜けるのではない。
内側から光が満ちていくように、質そのものが変わる。
その輪郭までもが別人のような優雅さを帯びていった。
存在そのものが静かに整えられていく。
精霊魔法による仮初めの“仮面”は解かれる。
覆われていたものが剥がれ落ちる。
そこに現れたのはレイリス・セリンドリス本来の姿。
空気がわずかに震える。
しかしそれは圧ではない。
澄んだ気配。
「……ふぅ。久しぶりに偽装を解いたけど、やっぱり、こうして解放されると……すっきりしますね。身体の奥に溜まっていたものが、ふっと抜けていく感じがします」
その声色は変わっていた。
先ほどまでのぶっきらぼうな調子ではない。
気品と静謐さを湛えた響き。
柔らかく、それでいて芯が通っている。
アリスはその姿を見つめる。
視線を外さない。
わずかに目を細める。
そして、静かに頷く。
クラリスもまた、微笑を浮かべる。
その変化を、じっと見届けていた。
肩の力が抜ける。
長身の体を椅子に預けるレイリス。
その姿には、戦場の「ブラッディ・ローズ」の面影はない。
仮面を被った副長の気配もない。
そこにあるのは。
自分たちが知る、あの頃の仲間そのものだった。
「レイリス、本来のあなたは……やっぱりこちらのほうが落ち着くわね。見ているこちらまで、どこか安心するもの」
クラリスは湯気の立つカップを両手に包み込む。
温もりを確かめるように指先を添える。
目尻を柔らかく緩める。
その口調は公務のときとは違う。
素の温かみがにじんでいた。
声に宿る親しさは、長い時を越えてなお変わらぬ絆を示している。
レイリスは軽く瞬きをする。
ゆっくりと視線を戻す。
穏やかな笑みを返す。
「ええ。最近は、偽装したままでいる時間の方が長いですから……。任務上必要とはいえ、どうしても気を張り続けることになりますし、こうして解ける時間があるのはありがたいです。でも、アリス様とクラリスさんの前では、無理に隠す必要もありませんもの」
その声音は、偽装時の鋭さを失っている。
深い森を思わせる静謐な響き。
落ち着きと、安らぎがある。
「ふふっ……ありがとう。わたしも、その方が話しやすいわ。こうして顔を合わせて話すときくらいは、気を張らずにいられる方がいいものね」
アリスはそっとカップを唇に運ぶ。
ゆっくりと傾ける。
温かな茶を一口含む。
香りが広がる。
ほのかな苦味と柔らかな甘み。
その余韻が胸の奥へと落ちていく。
緊張の糸が解ける。
呼吸が自然に深くなる。
彼女の表情には、どこか安堵が浮かんでいた。
口調も自然と柔らかくなる。
親しい人にしか見せない“本来の自分”。
それが滲む。
「……それにしても、こうして三人で静かにお茶を飲める時間なんて、本当に久しぶりね。以前は当たり前のようにあったはずなのに、今となってはずいぶん遠いことのように感じるわ」
クラリスが小さく息をつく。
椅子の背に身を預ける。
力を抜く。
眼鏡の奥の瞳は細められている。
過ぎ去った年月と再会の奇跡を慈しむように。
「そうね。ずっと慌ただしかったもの……。戦いも、調査も、休む間もなく続いていたし、こうして何も気にせず過ごせる時間は貴重ね。アリスも、無理をしていないといいけれど」
レイリスが気遣うように言葉を添える。
青白い髪が揺れる。
淡い光を受けて、銀糸のように輝いた。
アリスは肩をすくめる。
苦笑まじりに首を振る。
「私は大丈夫よ。むしろ、こうして落ち着いた時間がもらえる方が……ちょっと不安になるくらい。次に何が来るのか、考えてしまう癖がついちゃってるのかもしれないわね」
その冗談めいた一言。
二人も思わず笑みを零す。
三人の笑いが静かに溶け合う。
重なり合う。
部屋には柔らかな空気が満ちていく。
窓越しには淡い月明かりが差し込む。
白く静かな光。
蝋燭の炎が静かに揺らめく。
影がゆっくりと動く。
外の世界は遠い。
ここには、ただ穏やかな時間だけがある。
戦場でも、演習でもない。
ただ――アリス、クラリス、レイリス。
かつての“絆”を知る者たちが、互いの素顔で言葉を交わす、穏やかな夜だった。




