第十一部 第三章 第12話
クラリスは得意げに肩をすくめ、その仕草すら研究者らしい余裕と自負を漂わせていた。
外套の裾がわずかに揺れ、布地が擦れる音が静かな室内に溶ける。その一連の動きは、計算されたものではないはずなのに、どこか洗練された“完成された所作”として映る。
アリスは小さく首を振り、やれやれと微笑を返す。
けれど、その笑みの奥では――胸の奥に広がっていく温かな感覚を、確かに自覚していた。
先ほどまで、自分の中に沈殿していた重苦しい霧。
理屈ではどうにもならない違和感と、正体不明の不安。
それらが、まるでゆっくりと風に払われるように、静かに薄れていく。
「……ふふ。やっぱり、あなたがいてくれると頼もしいわ。こういうとき、理屈で整理してくれる人がそばにいるだけで……全然違う。私、一人だったらたぶん、もっと考え込んで動けなくなってたと思う」
言葉にすると、自然と声が柔らかくほどけていた。
クラリスは軽く目を細め、柔らかな笑みを返す。
その灰青の瞳が灯りを受けて、淡く揺らめいた。
深海のような静けさと、夜空の星のような確かさ。
理知と温もりが、ひとつの視線に同居している。
「言ってくれるじゃない。そこまで言われると、ちょっと照れるわね。でも……あなたがそう感じてくれるなら、来た甲斐があったってものよ。私だってね、ただ“解析したい”だけじゃなくて、あなたの顔を見て安心したかったのよ?」
その声音は穏やかで、どこまでも自然だった。
研究者としての冷静さではなく、友としての温もり。
その視線を受けた瞬間、アリスの胸が強く鳴る。
鼓動がひときわ大きく響き、言葉が喉元でせき止められる。
ほんの一瞬、言葉を失う。
そのとき――
コン、コンッ。
控えめでありながら、はっきりとしたノック音が部屋に響いた。
現実へ引き戻す音。
二人は同時に顔を上げ、視線を交わす。
わずかな沈黙のあと、空気が動いた。
「……また?」
アリスが小さく呟きながら立ち上がる。
椅子の脚が床を擦る音が、静かに響いた。
足音を抑えながら扉へと歩く。
ノブに触れた指先が、わずかに強張る。
呼吸を整える。
「はーい、今……」
カチャリ。
扉を開いた瞬間――
そこに立っていた人物を見て、アリスの表情がふっとほどけた。
「レティア……来てくれたんだ。ちょうど今、クラリスと話してたところで」
「アリス、夕食の時間よ。そろそろ皆で……――って、あら? もしかして、誰か来てる?」
言いかけた声が途切れる。
レティアの視線が、アリスの背後へと流れる。
室内に映るもうひとつの影。
その瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。
「クラリスさん!? 本当にクラリスさん!? どうして、こんなところに……え、まさか本当に来てるなんて……!」
驚きと、そして安堵。
その両方が入り混じった声だった。
「ごきげんよう、レティアさん。そんなに驚かなくてもいいじゃない。ちゃんと“正式に”来てるのよ? まあ、少し予定より早く動いただけだけど」
クラリスは立ち上がり、軽やかに片手を挙げて挨拶する。
外套の裾がふわりと揺れ、空気がわずかに動いた。
その姿は、久方ぶりに再会した恩師のようでありながら、どこか親しみを含んだ柔らかさを持っていた。
「え、ええと……ちょっと待って、状況が追いついてないんだけど……。クラリスさんって、ミラージュに戻ってたはずよね? それが今ここにいるってことは……もしかして、学院講師の枠で視察に来てるとか、そういう話?」
レティアが戸惑いながら問いかける。
「ううん、今回は正式な技術支援要請で派遣されたの。ティアナ様からミラージュ王国に依頼が来てね。ダンジョン調査の件、ただ事じゃないって判断されたのよ。昨日の夜には学院に戻ってきてたの。で、あなたたちの報告を見て……予定よりだいぶ早く動いちゃった、ってわけ」
クラリスはさらりと答える。
「なるほど……さすがクラリスさん。情報の拾い方も、動き出すタイミングも早すぎるわ……。でも、正直……来てくれて、すごく安心した。あの報告の内容、普通じゃなかったもの」
レティアは胸に手を当て、ゆっくりと息を吐く。
その緊張が、少しずつほどけていく。
視線を一度クラリスに留める。
そして、安心したようにアリスへ戻す。
「じゃあ、クラリスさんも一緒にどう? ちょうどこれから食堂に向かうところだったの。皆も集まってるはずだし、今の話も共有したいし……ね?」
「ありがたくご一緒させてもらうわ。久しぶりに皆の顔も見たいし、それに……現場の空気は、直接感じておきたいもの」
クラリスは小さく頷き、微笑む。
アリスは二人のやり取りを見守りながら、自然と頷いた。
「じゃあ、行きましょう。ちょうどいいタイミングだし、少し気分も切り替えたいしね。……さっきまで、ちょっと考えすぎてたみたいだから」
三人の視線が交わる。
わずかな間。
そして、足並みが揃う。
廊下へと歩き出した。
厚い石造りの壁。
等間隔に灯る魔導灯。
淡い金色の光が、床に長い影を落とす。
三人分の影が、ゆっくりと重なり、揺れながら伸びていく。
石床を踏む靴音が、規則正しく響く。
その音は、ただの足音ではなく、互いに歩調を合わせる“証”のようだった。
夕刻の演習拠点。
窓の外には、赤みを帯びた空。
茜色が、ゆっくりと紫へと溶けていく。
遠くに、ひとつ。
またひとつ。
星が瞬き始める。
レティアは隣を歩くアリスの横顔を見やる。
「……少し、顔色が戻ったわね。さっきより、ちゃんと呼吸してる。無理してなかった?」
「うん……ちょっと考え込みすぎてただけ。でも、クラリスが来てくれたから、だいぶ楽になったよ。やっぱり、一人で抱えるものじゃなかったみたい」
アリスは小さく笑う。
クラリスは横からそれを見て、わずかに口元を緩めた。
「当然よ。そういうのはね、“共有して初めて意味を持つ情報”なの。あなた一人で抱え込む必要なんてないわ。……むしろ、それをさせないために、私が来たんだから」
その言葉は、軽く、それでいて確かな重みを持っていた。
三人は並んで歩く。
灯りと影。
外の星と内の光。
それらが交錯しながら、三人の影は重なり合い、長く伸びていった。
その光景は――
これから訪れるであろう不確かな未来の中で、
それでもなお続いていく“繋がり”を、静かに示しているかのようだった。
食堂に入ると、すでに数人の学院生たちが思い思いに席へ着き、夕餉の支度を待っていた。
扉を開けた瞬間、温かな空気がふわりと流れ込み、外の廊下とはまるで別世界のような柔らかさで三人を包み込む。
磨き込まれた長机の上には、湯気を立てる大鍋が静かに煮え、濃厚なスープの香りが食堂全体に広がっていた。
焼きたてのパンの籠からは、香ばしい小麦の匂いが立ちのぼり、かすかに焦げた皮の香りが空腹を一層刺激する。
皿やカトラリーが触れ合う微かな音、遠くで交わされる笑い声、それらすべてが重なり合い、どこか安心感を伴った賑わいを形作っていた。
燭台を模した魔導灯が天井から柔らかな光を落とし、石壁に揺らめく陰影を刻んでいる。
光は強すぎず、しかし確かな温度を持ち、長い一日の疲労をそっとほどいていくようだった。
その奥――窓際のテーブルには、見慣れた顔ぶれがそろっていた。
外の窓ガラスには宵闇が落ち、昼の光の名残がわずかに残る空に、かすかな星々が瞬き始めている。
その星明かりが、ガラス越しに室内へと滲み、魔導灯の光と重なって静かな夜の気配を運んできていた。
「……おっ、来たな。ずいぶん遅かったじゃねぇか。どこで寄り道してたんだよ」
最初に気づいたのはラースだった。
椅子の背にもたれていた体を起こし、がっしりとした腕を組み直しながら顔を上げる。
その声にはいつもの軽さが戻っていたが、瞳の奥にはまだどこか警戒の名残が残っていた。
その視線に釣られるように、ミレーネとリゼットもこちらを振り向く。
「アリス、レティア……それに――あれ?」
ミレーネの言葉が途中で止まる。
瞳が丸く見開かれ、そのまま固まる。
同時に、ザックの眼鏡越しの視線がぱちくりと瞬き、次の瞬間にははっきりとした驚愕へと変わった。
「ちょ、ちょっと待って……クラリス先生!? え、本当に? 本物? いや、待て……幻影じゃないよな? この距離で視認できてるってことは、少なくとも実体は――」
言葉が一気に溢れ出す。
椅子がきしみ、立ち上がりかける勢い。
「えっ……マジで本人? 本物? いやいや、なんでここにいるんだよ!? さっきまでいなかったよな!? これ、もしかしてまた“あっち側”から――」
ラースですら、反射的に腰を浮かせていた。
無意識に剣の柄へと伸びかけた手――戦場で不意を突かれたときの、完全な反応だった。
「本物よ~。幻術でも分身でもないから安心して。ちゃんと触れるし、ちゃんとご飯も食べるから」
クラリスはひらひらと手を振り、余裕たっぷりに笑う。
その軽やかな声音と仕草は、まるで講義の合間に学生たちをからかうときと同じだった。
その一言で、張り詰めかけていた空気が一気にほどける。
ザックは額に手を当て、大きく息を吐いた。
「……はぁ……びっくりさせないでくださいよ、本当に。心臓に悪いっていうか……いや、むしろ嬉しいんですけど。なんでここにいるのか、ちゃんと説明は欲しいですけど」
口元には僅かな笑み。
安堵と喜びが、隠しきれずに滲んでいた。
「でも、どうしてここに? 演習って、関係者以外は基本的に――いや、でもクラリス先生なら例外枠もあり得るのか……?」
「もちろん正式なルートよ。裏口から忍び込んだわけじゃないわ」
クラリスは肩を軽く竦める。
「ファーレンナイト王国の要請で、ミラージュ王国からの技術支援枠として派遣されてるの。今回の演習、ただの訓練で済む話じゃないでしょ? それに――私はれっきとした“学院の講師”でもあるしね。資格的には、ここにいて何の問題もないわ」
その言葉には揺るぎない自信があった。
続けざまに、クラリスは片目を閉じて軽くウインクを送り、わずかに口元を上げる。
「それに、この演習空間……古代文明由来の構造が絡んでる可能性が高いでしょ? あの“光の門”の挙動、空間位相の歪み、魔力波形の乱れ……全部、通常の演習構造とは合わない。そういうのを解析するのが、私の専門分野なのよ。――つまり、“その道のプロ”ってやつ」
軽く言いながらも、その瞳には一切の冗談がなかった。
その視線を受け、場に一瞬の静寂が落ちる。
「……なるほどな。確かに、それなら納得だ。むしろ来てくれて助かるレベルだな」
ラースが鼻を鳴らしながら呟く。
「うん……正直、あの空間のこと、私たちだけじゃ整理しきれてないし……クラリスさんが来てくれるなら、すごく心強い」
ミレーネも小さく頷く。
リゼットは無言のまま、わずかに視線を下げて考え込みながらも、やがて静かに頷いた。
その反応が、クラリスの言葉の確かさを裏打ちしていく。
「なるほど……確かに。あのデータ、単純な演習ログとして扱うには情報量が多すぎるし……専門家が直接見るべき案件だ」
ザックは眼鏡を押し上げ、小さく呟く。
「それなら……うん。むしろ来てくれてよかったかも。本当に」
その声には、はっきりとした安堵があった。
クラリスは満足げに目を細め、自然な動作で椅子へ腰掛ける。
まるで最初からそこにいたかのように、違和感なく場へ溶け込んでいく。
「それで、昨日には学院に戻ってたんだけど……色々あって、今日のうちにこっちに来ちゃったのよ。まあ、“待てなかった”っていうのが正直なところだけど」
その一言に、皆の視線が集まる。
「“色々”って……たぶん、その中身、聞いたらやばいやつですよね?」
ザックが苦笑する。
「聞かない方がいいやつ?」
ラースも眉をひそめる。
アリスは肩をすくめ、目を逸らした。
「……うん。知ってるけど、今は言わない方がいいやつかな」
その一言で、全員がなんとなく察した。
「了解。じゃあ、その話は後回しだな」
ラースが頷く。
食堂に漂う温かな香り。
パンを割る音。
椅子の軋み。
低く交わされる会話。
再会の驚きと安堵が混じり合いながら、空気はゆっくりと落ち着いていく。
――そして。
それぞれが席につき、自然と手を伸ばす。
長い一日の終わり。
だが同時に、
確実に何かが始まっている夜でもあった。
「ま、いつものことよ。こういうの、もう何回目か分からないしね。異常だろうが何だろうが、最後はこうやってご飯食べてるんだから……ある意味、慣れって怖いわよね」
アリスがさらりと放った一言に、張り詰めていた空気がふっとほぐれた。
軽く肩をすくめる仕草と共に零れたその言葉は、冗談のようでいて、どこか本質を突いている。
「……そうね。本当に、そうかもしれない。さっきまであんなに緊張してたのに、今こうして座ってると、少しずつ現実に戻ってきた気がするもの。私たち、順応が早すぎるのかもしれないわね」
ミレーネが小さく笑みを浮かべて頷き、緊張を解いた肩を軽く回す。
その動きに合わせて、長い髪がさらりと揺れ、灯りを受けて柔らかな光を帯びた。
「……ええ。ですが、その“慣れ”に頼りすぎるのは危険でもありますね。異常を異常と認識できなくなった時が、一番怖い……とはいえ、今は――この時間に助けられているのも事実ですが」
リゼットも静かに息を吐き、わずかに緩んだ表情に、控えめな笑みを宿した。
指先で触れていた記録符から、微かな魔力の残光がふっと消え、彼女の緊張が少しだけほどけたことを示している。
「じゃあ、席を詰めようか。ほら、クラリスさんも座れるように。……こういうときは、ぎゅっと詰めるのが基本よね?」
レティアが自然な調子で促す。
その声音は穏やかで、場の流れを整えるような柔らかさを持っていた。
椅子の脚が石床を擦る、小さな音が連なって響く。
皆が互いに譲り合い、肩や肘が軽く触れ合いながら、自然と一席分の空間が作られていく。
クラリスは軽く会釈をしてから、その様子を楽しむように一歩前へ出る。
外套の裾がわずかに揺れ、布が空気を切る静かな音が耳に残る。
「ありがとう。遠慮なく座らせてもらうわね。……こういう距離感、嫌いじゃないのよ。むしろ、現場に来たって実感が湧くもの」
そう言って、彼女は自然な動作で席へと腰を下ろした。
椅子に体を預ける所作には無駄がなく、それでいてどこか優雅さが滲んでいる。
両手を組み、テーブルの上をゆっくりと見回す。
「ふふ。こうして皆と囲む夕食って、やっぱりいいものね。……一人で資料に向かってる時間も嫌いじゃないけど、こういう時間は、それとはまったく別の意味で大事だと思うわ。人が集まって、同じものを食べて、同じ空気を共有する――それだけで、思考も整理されるものだから」
穏やかな声色が、灯りの温かさと相まって場を包み込む。
「うん……なんか、それ分かるかも。さっきまで頭の中ぐちゃぐちゃだったのに、ここに来たら少し落ち着いた気がするし。……ご飯って、すごいね」
ミレーネが小さく笑いながら、パン籠に手を伸ばす。
「食事は戦場でも重要だからな。腹が減ってたら、まともな判断なんてできねぇ。……だから、今はしっかり食っとくべきだろ」
ラースが腕を組んだまま頷き、しかしその直後にはスープの湯気を見て視線を緩めた。
「合理的だね、ラース。でも、今回はその意見に全面的に賛成かな。……脳の処理能力も、たぶん限界に近かったし」
ザックが苦笑しながら眼鏡を押し上げる。
その指先の動きにも、ようやく戻ってきた日常のリズムが感じられた。
誰もが自然に頷いた。
探索で疲れた体。
報告を終えたばかりの緊張。
不確かな未来への不安。
それらすべてが、食卓の上の温かな光と、仲間たちの微笑の中で、ゆっくりとほどけていく。
大鍋から立ち上る湯気が、柔らかく揺れる。
香ばしいスープの匂いが鼻をくすぐり、わずかに焦げたパンの香りと混ざり合う。
パンを割る音。
器に注がれるスープの音。
小さな会話。
それらが重なり、静かな食堂に心地よいリズムを刻んでいく。
――この一瞬だけは。
異常も、謎も、時空の歪みも。
すべてが遠ざかり。
ただの学院生としての時間が、確かにそこに戻ってきていた。




