↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
411/558

第十一部 第三章 第12話

 クラリスは得意げに肩をすくめ、その仕草すら研究者らしい余裕と自負を漂わせていた。


 外套の裾がわずかに揺れ、布地が擦れる音が静かな室内に溶ける。その一連の動きは、計算されたものではないはずなのに、どこか洗練された“完成された所作”として映る。


 アリスは小さく首を振り、やれやれと微笑を返す。

 けれど、その笑みの奥では――胸の奥に広がっていく温かな感覚を、確かに自覚していた。


 先ほどまで、自分の中に沈殿していた重苦しい霧。

 理屈ではどうにもならない違和感と、正体不明の不安。


 それらが、まるでゆっくりと風に払われるように、静かに薄れていく。


 「……ふふ。やっぱり、あなたがいてくれると頼もしいわ。こういうとき、理屈で整理してくれる人がそばにいるだけで……全然違う。私、一人だったらたぶん、もっと考え込んで動けなくなってたと思う」


 言葉にすると、自然と声が柔らかくほどけていた。


 クラリスは軽く目を細め、柔らかな笑みを返す。

 その灰青の瞳が灯りを受けて、淡く揺らめいた。


 深海のような静けさと、夜空の星のような確かさ。

 理知と温もりが、ひとつの視線に同居している。


 「言ってくれるじゃない。そこまで言われると、ちょっと照れるわね。でも……あなたがそう感じてくれるなら、来た甲斐があったってものよ。私だってね、ただ“解析したい”だけじゃなくて、あなたの顔を見て安心したかったのよ?」


 その声音は穏やかで、どこまでも自然だった。


 研究者としての冷静さではなく、友としての温もり。


 その視線を受けた瞬間、アリスの胸が強く鳴る。

 鼓動がひときわ大きく響き、言葉が喉元でせき止められる。


 ほんの一瞬、言葉を失う。


 そのとき――


 コン、コンッ。


 控えめでありながら、はっきりとしたノック音が部屋に響いた。


 現実へ引き戻す音。


 二人は同時に顔を上げ、視線を交わす。

 わずかな沈黙のあと、空気が動いた。


 「……また?」


 アリスが小さく呟きながら立ち上がる。

 椅子の脚が床を擦る音が、静かに響いた。


 足音を抑えながら扉へと歩く。

 ノブに触れた指先が、わずかに強張る。


 呼吸を整える。


 「はーい、今……」


 カチャリ。


 扉を開いた瞬間――


 そこに立っていた人物を見て、アリスの表情がふっとほどけた。


 「レティア……来てくれたんだ。ちょうど今、クラリスと話してたところで」


 「アリス、夕食の時間よ。そろそろ皆で……――って、あら? もしかして、誰か来てる?」


 言いかけた声が途切れる。


 レティアの視線が、アリスの背後へと流れる。


 室内に映るもうひとつの影。


 その瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。


 「クラリスさん!? 本当にクラリスさん!? どうして、こんなところに……え、まさか本当に来てるなんて……!」


 驚きと、そして安堵。


 その両方が入り混じった声だった。


 「ごきげんよう、レティアさん。そんなに驚かなくてもいいじゃない。ちゃんと“正式に”来てるのよ? まあ、少し予定より早く動いただけだけど」


 クラリスは立ち上がり、軽やかに片手を挙げて挨拶する。

 外套の裾がふわりと揺れ、空気がわずかに動いた。


 その姿は、久方ぶりに再会した恩師のようでありながら、どこか親しみを含んだ柔らかさを持っていた。


 「え、ええと……ちょっと待って、状況が追いついてないんだけど……。クラリスさんって、ミラージュに戻ってたはずよね? それが今ここにいるってことは……もしかして、学院講師の枠で視察に来てるとか、そういう話?」


 レティアが戸惑いながら問いかける。


 「ううん、今回は正式な技術支援要請で派遣されたの。ティアナ様からミラージュ王国に依頼が来てね。ダンジョン調査の件、ただ事じゃないって判断されたのよ。昨日の夜には学院に戻ってきてたの。で、あなたたちの報告を見て……予定よりだいぶ早く動いちゃった、ってわけ」


 クラリスはさらりと答える。


 「なるほど……さすがクラリスさん。情報の拾い方も、動き出すタイミングも早すぎるわ……。でも、正直……来てくれて、すごく安心した。あの報告の内容、普通じゃなかったもの」


 レティアは胸に手を当て、ゆっくりと息を吐く。


 その緊張が、少しずつほどけていく。


 視線を一度クラリスに留める。

 そして、安心したようにアリスへ戻す。


 「じゃあ、クラリスさんも一緒にどう? ちょうどこれから食堂に向かうところだったの。皆も集まってるはずだし、今の話も共有したいし……ね?」


 「ありがたくご一緒させてもらうわ。久しぶりに皆の顔も見たいし、それに……現場の空気は、直接感じておきたいもの」


 クラリスは小さく頷き、微笑む。


 アリスは二人のやり取りを見守りながら、自然と頷いた。


 「じゃあ、行きましょう。ちょうどいいタイミングだし、少し気分も切り替えたいしね。……さっきまで、ちょっと考えすぎてたみたいだから」


 三人の視線が交わる。


 わずかな間。


 そして、足並みが揃う。


 廊下へと歩き出した。


 厚い石造りの壁。

 等間隔に灯る魔導灯。


 淡い金色の光が、床に長い影を落とす。


 三人分の影が、ゆっくりと重なり、揺れながら伸びていく。


 石床を踏む靴音が、規則正しく響く。

 その音は、ただの足音ではなく、互いに歩調を合わせる“証”のようだった。


 夕刻の演習拠点。


 窓の外には、赤みを帯びた空。

 茜色が、ゆっくりと紫へと溶けていく。


 遠くに、ひとつ。

 またひとつ。


 星が瞬き始める。


 レティアは隣を歩くアリスの横顔を見やる。


 「……少し、顔色が戻ったわね。さっきより、ちゃんと呼吸してる。無理してなかった?」


 「うん……ちょっと考え込みすぎてただけ。でも、クラリスが来てくれたから、だいぶ楽になったよ。やっぱり、一人で抱えるものじゃなかったみたい」


 アリスは小さく笑う。


 クラリスは横からそれを見て、わずかに口元を緩めた。


 「当然よ。そういうのはね、“共有して初めて意味を持つ情報”なの。あなた一人で抱え込む必要なんてないわ。……むしろ、それをさせないために、私が来たんだから」


 その言葉は、軽く、それでいて確かな重みを持っていた。


 三人は並んで歩く。


 灯りと影。

 外の星と内の光。


 それらが交錯しながら、三人の影は重なり合い、長く伸びていった。


 その光景は――


 これから訪れるであろう不確かな未来の中で、

 それでもなお続いていく“繋がり”を、静かに示しているかのようだった。


 食堂に入ると、すでに数人の学院生たちが思い思いに席へ着き、夕餉の支度を待っていた。

 扉を開けた瞬間、温かな空気がふわりと流れ込み、外の廊下とはまるで別世界のような柔らかさで三人を包み込む。

 磨き込まれた長机の上には、湯気を立てる大鍋が静かに煮え、濃厚なスープの香りが食堂全体に広がっていた。

 焼きたてのパンの籠からは、香ばしい小麦の匂いが立ちのぼり、かすかに焦げた皮の香りが空腹を一層刺激する。

 皿やカトラリーが触れ合う微かな音、遠くで交わされる笑い声、それらすべてが重なり合い、どこか安心感を伴った賑わいを形作っていた。


 燭台を模した魔導灯が天井から柔らかな光を落とし、石壁に揺らめく陰影を刻んでいる。

 光は強すぎず、しかし確かな温度を持ち、長い一日の疲労をそっとほどいていくようだった。


 その奥――窓際のテーブルには、見慣れた顔ぶれがそろっていた。

 外の窓ガラスには宵闇が落ち、昼の光の名残がわずかに残る空に、かすかな星々が瞬き始めている。

 その星明かりが、ガラス越しに室内へと滲み、魔導灯の光と重なって静かな夜の気配を運んできていた。


 「……おっ、来たな。ずいぶん遅かったじゃねぇか。どこで寄り道してたんだよ」


 最初に気づいたのはラースだった。

 椅子の背にもたれていた体を起こし、がっしりとした腕を組み直しながら顔を上げる。

 その声にはいつもの軽さが戻っていたが、瞳の奥にはまだどこか警戒の名残が残っていた。


 その視線に釣られるように、ミレーネとリゼットもこちらを振り向く。


 「アリス、レティア……それに――あれ?」


 ミレーネの言葉が途中で止まる。

 瞳が丸く見開かれ、そのまま固まる。


 同時に、ザックの眼鏡越しの視線がぱちくりと瞬き、次の瞬間にははっきりとした驚愕へと変わった。


 「ちょ、ちょっと待って……クラリス先生!? え、本当に? 本物? いや、待て……幻影じゃないよな? この距離で視認できてるってことは、少なくとも実体は――」


 言葉が一気に溢れ出す。

 椅子がきしみ、立ち上がりかける勢い。


 「えっ……マジで本人? 本物? いやいや、なんでここにいるんだよ!? さっきまでいなかったよな!? これ、もしかしてまた“あっち側”から――」


 ラースですら、反射的に腰を浮かせていた。

 無意識に剣の柄へと伸びかけた手――戦場で不意を突かれたときの、完全な反応だった。


 「本物よ~。幻術でも分身でもないから安心して。ちゃんと触れるし、ちゃんとご飯も食べるから」


 クラリスはひらひらと手を振り、余裕たっぷりに笑う。

 その軽やかな声音と仕草は、まるで講義の合間に学生たちをからかうときと同じだった。


 その一言で、張り詰めかけていた空気が一気にほどける。


 ザックは額に手を当て、大きく息を吐いた。


 「……はぁ……びっくりさせないでくださいよ、本当に。心臓に悪いっていうか……いや、むしろ嬉しいんですけど。なんでここにいるのか、ちゃんと説明は欲しいですけど」


 口元には僅かな笑み。

 安堵と喜びが、隠しきれずに滲んでいた。


 「でも、どうしてここに? 演習って、関係者以外は基本的に――いや、でもクラリス先生なら例外枠もあり得るのか……?」


 「もちろん正式なルートよ。裏口から忍び込んだわけじゃないわ」


 クラリスは肩を軽く竦める。


 「ファーレンナイト王国の要請で、ミラージュ王国からの技術支援枠として派遣されてるの。今回の演習、ただの訓練で済む話じゃないでしょ? それに――私はれっきとした“学院の講師”でもあるしね。資格的には、ここにいて何の問題もないわ」


 その言葉には揺るぎない自信があった。


 続けざまに、クラリスは片目を閉じて軽くウインクを送り、わずかに口元を上げる。


 「それに、この演習空間……古代文明由来の構造が絡んでる可能性が高いでしょ? あの“光の門”の挙動、空間位相の歪み、魔力波形の乱れ……全部、通常の演習構造とは合わない。そういうのを解析するのが、私の専門分野なのよ。――つまり、“その道のプロ”ってやつ」


 軽く言いながらも、その瞳には一切の冗談がなかった。


 その視線を受け、場に一瞬の静寂が落ちる。


 「……なるほどな。確かに、それなら納得だ。むしろ来てくれて助かるレベルだな」


 ラースが鼻を鳴らしながら呟く。


 「うん……正直、あの空間のこと、私たちだけじゃ整理しきれてないし……クラリスさんが来てくれるなら、すごく心強い」


 ミレーネも小さく頷く。


 リゼットは無言のまま、わずかに視線を下げて考え込みながらも、やがて静かに頷いた。


 その反応が、クラリスの言葉の確かさを裏打ちしていく。


 「なるほど……確かに。あのデータ、単純な演習ログとして扱うには情報量が多すぎるし……専門家が直接見るべき案件だ」


 ザックは眼鏡を押し上げ、小さく呟く。


 「それなら……うん。むしろ来てくれてよかったかも。本当に」


 その声には、はっきりとした安堵があった。


 クラリスは満足げに目を細め、自然な動作で椅子へ腰掛ける。

 まるで最初からそこにいたかのように、違和感なく場へ溶け込んでいく。


 「それで、昨日には学院に戻ってたんだけど……色々あって、今日のうちにこっちに来ちゃったのよ。まあ、“待てなかった”っていうのが正直なところだけど」


 その一言に、皆の視線が集まる。


 「“色々”って……たぶん、その中身、聞いたらやばいやつですよね?」


 ザックが苦笑する。


 「聞かない方がいいやつ?」


 ラースも眉をひそめる。


 アリスは肩をすくめ、目を逸らした。


 「……うん。知ってるけど、今は言わない方がいいやつかな」


 その一言で、全員がなんとなく察した。


 「了解。じゃあ、その話は後回しだな」


 ラースが頷く。


 食堂に漂う温かな香り。

 パンを割る音。

 椅子の軋み。

 低く交わされる会話。


 再会の驚きと安堵が混じり合いながら、空気はゆっくりと落ち着いていく。


 ――そして。


 それぞれが席につき、自然と手を伸ばす。


 長い一日の終わり。


 だが同時に、

 確実に何かが始まっている夜でもあった。



 「ま、いつものことよ。こういうの、もう何回目か分からないしね。異常だろうが何だろうが、最後はこうやってご飯食べてるんだから……ある意味、慣れって怖いわよね」


 アリスがさらりと放った一言に、張り詰めていた空気がふっとほぐれた。

 軽く肩をすくめる仕草と共に零れたその言葉は、冗談のようでいて、どこか本質を突いている。


 「……そうね。本当に、そうかもしれない。さっきまであんなに緊張してたのに、今こうして座ってると、少しずつ現実に戻ってきた気がするもの。私たち、順応が早すぎるのかもしれないわね」


 ミレーネが小さく笑みを浮かべて頷き、緊張を解いた肩を軽く回す。

 その動きに合わせて、長い髪がさらりと揺れ、灯りを受けて柔らかな光を帯びた。


 「……ええ。ですが、その“慣れ”に頼りすぎるのは危険でもありますね。異常を異常と認識できなくなった時が、一番怖い……とはいえ、今は――この時間に助けられているのも事実ですが」


 リゼットも静かに息を吐き、わずかに緩んだ表情に、控えめな笑みを宿した。

 指先で触れていた記録符から、微かな魔力の残光がふっと消え、彼女の緊張が少しだけほどけたことを示している。


 「じゃあ、席を詰めようか。ほら、クラリスさんも座れるように。……こういうときは、ぎゅっと詰めるのが基本よね?」


 レティアが自然な調子で促す。

 その声音は穏やかで、場の流れを整えるような柔らかさを持っていた。


 椅子の脚が石床を擦る、小さな音が連なって響く。

 皆が互いに譲り合い、肩や肘が軽く触れ合いながら、自然と一席分の空間が作られていく。


 クラリスは軽く会釈をしてから、その様子を楽しむように一歩前へ出る。

 外套の裾がわずかに揺れ、布が空気を切る静かな音が耳に残る。


 「ありがとう。遠慮なく座らせてもらうわね。……こういう距離感、嫌いじゃないのよ。むしろ、現場に来たって実感が湧くもの」


 そう言って、彼女は自然な動作で席へと腰を下ろした。

 椅子に体を預ける所作には無駄がなく、それでいてどこか優雅さが滲んでいる。


 両手を組み、テーブルの上をゆっくりと見回す。


 「ふふ。こうして皆と囲む夕食って、やっぱりいいものね。……一人で資料に向かってる時間も嫌いじゃないけど、こういう時間は、それとはまったく別の意味で大事だと思うわ。人が集まって、同じものを食べて、同じ空気を共有する――それだけで、思考も整理されるものだから」


 穏やかな声色が、灯りの温かさと相まって場を包み込む。


 「うん……なんか、それ分かるかも。さっきまで頭の中ぐちゃぐちゃだったのに、ここに来たら少し落ち着いた気がするし。……ご飯って、すごいね」


 ミレーネが小さく笑いながら、パン籠に手を伸ばす。


 「食事は戦場でも重要だからな。腹が減ってたら、まともな判断なんてできねぇ。……だから、今はしっかり食っとくべきだろ」


 ラースが腕を組んだまま頷き、しかしその直後にはスープの湯気を見て視線を緩めた。


 「合理的だね、ラース。でも、今回はその意見に全面的に賛成かな。……脳の処理能力も、たぶん限界に近かったし」


 ザックが苦笑しながら眼鏡を押し上げる。

 その指先の動きにも、ようやく戻ってきた日常のリズムが感じられた。


 誰もが自然に頷いた。


 探索で疲れた体。

 報告を終えたばかりの緊張。

 不確かな未来への不安。


 それらすべてが、食卓の上の温かな光と、仲間たちの微笑の中で、ゆっくりとほどけていく。


 大鍋から立ち上る湯気が、柔らかく揺れる。

 香ばしいスープの匂いが鼻をくすぐり、わずかに焦げたパンの香りと混ざり合う。


 パンを割る音。

 器に注がれるスープの音。

 小さな会話。


 それらが重なり、静かな食堂に心地よいリズムを刻んでいく。


 ――この一瞬だけは。

 異常も、謎も、時空の歪みも。

 すべてが遠ざかり。


 ただの学院生としての時間が、確かにそこに戻ってきていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。