第十一部 第三章 第11話
思考の渦に沈んでいたアリスは、ふいに――コツ、コツッという軽やかなノック音に、はっと顔を上げた。
静寂に沈みきっていた室内に、わずかな振動となって響いたその音は、まるで水面に落ちた一滴の雫のように、彼女の内側で渦巻いていた思考を一瞬でかき乱す。
現実に引き戻された反動で、胸の奥が妙に重く沈み、鉛のように身体が動かない。
さっきまで頭の中を埋め尽くしていた“もうひとりの自分”の像が、まだ消えきらずに視界の奥に残像のように揺れている。
(……誰か、来た?)
心の中でそう呟いた瞬間、遅れて現実の時間感覚が戻ってくる。
視線を横に向ければ、部屋の隅で時を刻む小さな魔導時計が目に入る。
淡く青い光を放つその針は、一定のリズムで静かに進み続けていた。
針が示しているのは、夕食にはまだ早すぎる時刻。
この時間帯に訪ねてくる者は、ほとんどいない。
廊下の向こうでかすかに人の気配はあるものの、この部屋の前で立ち止まり、わざわざノックをする相手となれば――自然と、思い当たる人物は限られてくる。
アリスは深く息を吸い込む。
肺の奥まで冷たい空気を送り込み、乱れていた呼吸を強引に整える。
そして、重くなった身体を無理やり起こした。
ベッドの柔らかさが名残惜しげに背中を引き留めるが、それを振り切るように体を起こし、足を床へと下ろす。
床板に触れた瞬間、ひやりとした感触が足裏を通じて伝わる。
それは確かな“現実”の重さだった。
ふらつく足取りでドアへと歩みながら、頬に指先を添える。
表情筋を意識的に動かし、ぎこちなくも柔らかな笑みを形作る。
――内心のざわつきだけは、絶対に悟らせてはいけない。
胸の奥で渦巻く違和感も、不安も、疑問も。
今はすべて押し込める。
「はい、今開けるね。ちょっと待って……すぐ開けるから」
声は、いつも通りの軽さを意識して。
ほんのわずかでも揺れを見せないように、慎重に整えた声音だった。
カチャリ、と錠が外れる音。
小さな金属音が、やけに鮮明に耳に残る。
ゆっくりと扉を引き開ける。
蝶番がわずかに軋み、外の空気が細い隙間から流れ込んできた。
その瞬間――
そこに立っていた人物を見た途端、アリスの瞳が大きく見開かれた。
視界の輪郭が、ぐらりと揺れる。
ほんの一瞬、現実の焦点がずれたかのような錯覚。
心臓が、強く跳ねた。
「……クラリス?」
思わず漏れた声は、驚きと戸惑いがそのまま滲み出たものだった。
そこに立っていたのは、見るはずのなかった人物――
ミラージュ王国魔導技術開発局、第二研究室所属の魔導技師であり、学院臨時講師でもあるクラリス・ノーザレインだった。
「お疲れ様~♪ いやぁ、いいタイミングで会えたわね、アリス。ちょうど顔を見に来ようと思ってたのよ。……ふふ、その顔、本当にびっくりしてるわね」
クラリスは軽やかに片手をひらひらと振り、まるで日常の延長であるかのような調子で挨拶する。
その動作には一切の緊張がなく、自然体のまま空間に溶け込んでいた。
口元には柔らかな笑み。
眼鏡の奥の灰青の瞳が、楽しげに細められている。
黒のタイトなスーツの上に羽織られた薄手の研究用外套は、動きに合わせて静かに揺れ、その布地が空気を切るたびにかすかな音を立てる。
無駄のないシルエットは知性を感じさせ、同時に、どこか洗練された女性らしさを纏っていた。
裾がわずかに揺れるたび、ほのかに漂う薬品と紙の匂い。
インクと魔導触媒が混じり合った、研究室特有の匂いが、ふわりとアリスの鼻先をかすめる。
その匂いだけで、記憶が一瞬で呼び起こされる。
――クラリスだ、と。
「え、でも……どうして……? ミラージュに戻っているはずじゃなかったの? えっと……予定、変わったの? それとも、何かあった……?」
アリスは驚愕に目を見開いたまま問いかける。
言葉は途切れ途切れになりながらも、どうにか形を保っていた。
その声音には、不安と期待が入り混じっている。
「ふふ、びっくりした? 顔に全部出てるわよ、アリス。もう少し取り繕った方がいいかもしれないわね?」
クラリスは少し肩をすくめ、悪戯っぽく微笑む。
その仕草は軽やかで、どこか余裕すら感じさせた。
「ダンジョン調査の件、ティアナ騎士団からミラージュ王国にも正式に依頼が来たのよ。情報技術支援と、今回の調査隊のバックアップ要員としてね。まあ、簡単に言えば――“放っておけない案件になった”ってことかしら」
言葉は穏やかで、いつも通りの口調。
だが、その内容は決して軽くない。
それだけに、アリスの胸を揺らす衝撃は大きかった。
「石碑の調査隊に参加してたセリオとイリナ、二人ともミラージュからまた派遣されるの。あの子たちも明日には合流予定よ。……まあ、あの二人なら、状況がどうであれ勝手に動き出しそうだけどね」
クラリスは軽く苦笑を浮かべながら続ける。
「私は……ちょっと手続きを早く済ませちゃったから、ひと足お先にってことで。まあ、こっちとしても準備は整ってたし、タイミング的にも今が一番良かったのよ。だから――来ちゃった、ってわけ」
最後に少しだけ声を弾ませる。
「えっ……それって、今日の朝に決まった話とかじゃなくて……? もしかして、もう少し前から動いてた……?」
アリスは信じられない思いで問い返す。
思考が追いつかず、言葉の順序がわずかに乱れていた。
「ううん、昨日の夜には学院に戻ってきてたわ。講師寮に一泊して、さっき転移装置でこちらに来たばかり。……だから、ほぼリアルタイムで合流って感じね。なかなかいいタイミングでしょ?」
クラリスは片目を閉じ、いたずらっぽいウィンクを添える。
その仕草も、声色も、いつものクラリスだった。
――だが、アリスの胸の内には、それだけでは整理しきれない感情が渦巻いていた。
扉を開けた瞬間に走った驚きの余韻が、まだ完全には消えきらず、胸の奥でくすぶるように残っている。
安堵と驚き、そして理由のわからない焦燥が、複雑に絡み合って押し寄せてくる。
クラリスがここにいる――それだけで、救われたような気持ちは確かにある。
だが同時に、その“タイミング”があまりにも出来すぎていることが、別の感情を呼び起こしていた。
――このタイミングで、どうして。
疑問は自然と浮かぶ。
けれど、それをそのまま口にしてしまえば、この空気を壊してしまう気がして。
アリスは一度、小さく息をついた。
肺に溜まっていた熱を、ゆっくりと外へ逃がす。
それだけで、ほんのわずかに思考が整う気がした。
「……いきなりすぎて、本当に驚いたよ。でも……なんだか、すごく安心した。本当に、びっくりしたけど……でも、来てくれてよかった。今の私、たぶん……一人だったら、ちょっときつかったと思う」
言葉は静かだったが、その奥にある感情は隠しきれていなかった。
それは紛れもない本音。
さっきまで、どうしようもない疑問の中で孤独に沈みかけていた自分にとって、クラリスの存在はまさにひとすじの光のようだった。
「うん、私もね。あなたの顔、今すぐ見たかったの。無事なのは報告で分かってたけど……それでも、直接確認しないと落ち着かなくて。こうしてちゃんと立ってる姿を見て、ようやく安心できたわ」
クラリスはそう言って、そっとアリスの肩に手を置いた。
その指先は驚くほど柔らかく、そして温かい。
ほんのわずかな接触なのに、張り詰めていた神経が、ゆっくりとほどけていくのが分かる。
冷えていた心の奥に、じんわりと熱が戻ってくるようだった。
「……中、入ってもいいかしら? 立ち話で済ませるような内容じゃないでしょ、これ。あなたの顔も、ちゃんと見たいし」
「あ、もちろん。散らかってるけど……気にしないで。あんまり整えてる余裕もなかったし……」
アリスがわずかに苦笑しながら身を引く。
クラリスは軽く頷き、ためらいなく室内へと足を踏み入れた。
足音はほとんど響かず、しなやかに空間へ溶け込むような動きだった。
背後で静かにドアが閉じられる。
コトン、と。
わずかな音が響いた瞬間、外の廊下の気配が遠のき、空間が一変する。
音の遮断と同時に、二人だけの密やかな空気が形を成した。
クラリスは室内を軽く見回す。
視線は流れるように動き、必要な情報だけを的確に拾い上げる。
整然としているわけではないが、乱雑でもない。
使用された形跡がそのまま残る、実用的な部屋。
部屋の中央に置かれた簡素な椅子を見つけると、クラリスは外套の裾を整えながら、自然な動作で腰を下ろした。
背筋は無理なく伸び、足の置き方、手の位置、すべてが無駄なく整っている。
その所作ひとつひとつに、理知的な落ち着きが漂っていた。
「本当はね、あと半日後に合流って段取りだったんだけど……予定、繰り上げさせてもらったの。正確には“繰り上げた”というより、“割り込んだ”に近いかしら。まあ……向こうも状況が状況だから、止められなかったみたいだけど」
「やっぱり……例の“異常”、気になって? それとも……もっと別の理由?」
アリスの問いは、わずかに踏み込んでいた。
クラリスは一瞬だけ視線を落とし、眼鏡の奥に真剣な光を宿して頷いた。
「……ええ。ティアナ様からも報告をもらってたけど、あなたたちの記録に“レティシア・ファーレンナイト”という名が明確に出てきた時点で……もう黙ってはいられなかったのよ。それまでは“空間異常”として処理できる範囲だった。でも、あの名前が出た瞬間に、話は完全に別物になった」
声は静かだが、その奥には確かな緊張があった。
「えっ……でも、それって……ちょっと待って。報告が正式に提出されたのって、ほんの一、二時間前のはずだよね? それをもう、確認して、動いて……ここまで来たってこと?」
アリスの瞳がわずかに揺れる。
計算しても、どう考えても早すぎる。
「当然よ。あの人を誰だと思ってるの?」
クラリスは淡々と返す。
その口元にはわずかな笑みが浮かんでいるが、声音には揺るがない確信があった。
「ティアナ様はああ見えて、報告の即時送信ルートを独自に持ってるから。正式な系統とは別に、“優先度の違う経路”があるの。あなたたちの報告が提出された直後、その中でも“危険度の高い項目”だけが抽出されて、最優先ルートで私にも回されたわ。……もちろん、公式には“技術支援監督への参考資料提供”って扱いだけどね」
さらりと言ってのけるが、その内容は明らかに通常の情報流通とは異なる。
「……早すぎるって、思ったけど……そういうこと、か。いや……納得はできるけど、やっぱり普通じゃないよね、それ……」
アリスは小さく息を吐きながら言う。
驚きは残っている。
だが、それ以上に、納得してしまう自分がいる。
クラリスとティアナ。
その二人の関係性を知っているからこそ、この異常な速度の情報連携にも、妙な現実味があった。
「それに――この空間そのものにも、おかしな点があるわ」
クラリスは持っていた端末を膝に置き、指先を静かに滑らせた。
その動きは無駄がなく、まるであらかじめ決められていたかのように正確だった。
次の瞬間、彼女の操作に呼応するように、空中に幾重ものホログラムが展開される。
淡い青白い光が層を成し、幾何学的な波形、数式、観測ログが立体的に重なり合う。
魔力波形の揺らぎ。
位相のズレ。
重力干渉の乱れ。
それらはすべて、通常の演習階層ではあり得ない数値を示していた。
整然としているはずの理論値が、ところどころで歪み、裂け、矛盾を露呈している。
「見て、この部分。位相の連続性が保たれていないの。普通なら、魔力場は連続した流れを持つはずなのに……ここだけ、明らかに“断絶”している。まるで別の系統の空間が、無理やり縫い付けられているみたいに」
クラリスの声は落ち着いているが、その奥には抑えきれない興奮が滲んでいた。
研究者として、未知に触れたときの高揚。
「一部の記録は、以前あなたが送ってくれた“石碑調査隊”のログとも一致するの。数値の揺らぎ、干渉波の周期……完全に同一パターン。偶然では説明できないわ。構造そのものが、通常の演習階層の生成理論と矛盾している。……まるで、どこか別の空間に、意図的に接続されたみたいに」
ホログラムの一部が強調表示され、異常箇所が明確に浮かび上がる。
それは、確かに“継ぎ目”だった。
アリスはその光景を見つめながら、あの星空を思い出す。
第四層――無限に広がる天体の海。
そして、その先にあった、現実の枠組みそのものを否定するような第五層。
あれは、間違いなく“この世界のどこか”ではなかった。
「……やっぱり、そうなのね。私が感じた違和感、ただの感覚じゃなかったんだ。あれは……本当に、別の“何か”が混ざってる」
アリスの声は静かだったが、確信を帯びていた。
クラリスはその表情をじっと見つめる。
灰青の瞳が、わずかに細められる。
「ねえ、アリス。正直に言って。――あの“レティシア”を見たとき、どう思った?」
その問いは、逃げ場を与えない。
視線が交わる。
わずかに、空気が張り詰めた。
アリスは一瞬、言葉を失った。
喉の奥がひりつく。
どこまで話すべきか。
どこまで踏み込んでいいのか。
だが――目の前にいるのはクラリス。
隠す意味はない。
「……間違いなく、私だった。声も、目も……思考の流れすら、同じ。あれは“別人”じゃない。同一の存在だと思う。……でも」
一瞬、言葉が詰まる。
「でも、あの魔導剣――あれだけは……どうしても説明がつかない。あれは……私の記憶の“後”にしか存在しないはずのものだから」
静かに吐き出された言葉。
「《ルミナ=コード》ね」
クラリスは即座に応じる。
背もたれへ身を預け、視線をわずかに上へ向ける。
眼鏡のレンズが、ホログラムの光を受けて淡く反射した。
「それが、あの時代に存在していた。それも――抜かれたわけではなく、“同調鞘に納められたまま”、確かに腰に佩かれていた。映像にはっきり残っている……。ね、アリス。これはもう、単なる過去映像じゃない。記録の再生でも、幻影でもない。何かが、“歴史を越えて割り込んでいる”」
その声音には、確信があった。
アリスは無意識に唇を噛む。
じわりと痛みが広がる。
「……それに、服装も違った。細部まで見た。装甲の配置、紋様、構造……全部、私の記憶にない。赤い軍装なんて、一度も着たことがないのに……」
言葉は自然とこぼれた。
脳裏に浮かぶのは、あの姿。
深紅の衣。
金糸の紋様。
翻る純白のマント。
それは、自分の知るどの時代にも存在しない。
アリスはソファに深く沈み込む。
背もたれが体を受け止め、わずかに軋む。
重たい息を吐く。
「……どこから来たのかも、どこへ行くのかも分からない。でも、あれが“私ではないレティシア”だとするなら……どうすればいいの? 認識するべきなのか、排除するべきなのか……それすら分からない」
クラリスは少しだけ目を細め、首を横に振った。
「今は、答えを出す必要はない。焦って定義しようとすると、かえって見誤るわ。けど――忘れないで。あれが“自分”かもしれないという実感も、“自分ではない”という恐怖も、どちらも間違ってないのよ。それは、どちらも“正しい反応”だから」
静かな言葉。
その一言一言が、ゆっくりとアリスの胸に落ちていく。
波紋のように広がり、沈んでいた感情を静かに支える。
アリスはふと微笑みを浮かべた。
張り詰めていた空気が、ほんのわずかに緩む。
「……そういえば、ザックが演習で使ってるあの調査端末一式――《リンク・アナライザー》とか《フェザーアイ》。動きがすごく安定してたよ。クラリスの調整だってすぐ分かった。あれ、かなり細かく調整してるでしょ?」
話題を変えるように、しかし自然な流れで。
クラリスはぱちんと目を瞬かせたあと、眉を上げる。
次の瞬間、楽しげに口元を緩めた。
「ふふっ、やっぱり気づいてたのね。あれは“EVA-X補助拡張群”のモジュール群。まだ型番すら決まってない完全な試作品よ。正式採用どころか、まだ評価段階にも入ってない“開発中の塊”みたいなもの」
外套の裾を軽く払う。
姿勢を正し、わずかに胸を張る。
研究者としての誇りが、隠しきれずに滲んでいた。
アリスは小さく頷く。
「やっぱり……。彼の手に馴染んでたのは、単なる適性じゃない。調整の賜物なんだね。動きの遅延もなかったし、補正も自然だった」
クラリスは軽く顎を引き、満足げに微笑む。
「もちろん。ザック君の魔力波形に合わせて最適化してあるもの。リアルタイム補正も入ってるし、干渉耐性も個別調整済み。だから“彼専用”ってくらい自然に動くのよ。……本当は、君が気づくかどうか楽しみにしてたんだから。あれ、結構分かりにくく調整してあるのよ?」
アリスは思わず吹き出した。
「ふふ、そういうところ、クラリスらしいね。わざと分かりにくくしてるあたりが」
肩の力が抜ける。
クラリスは椅子から少し前のめりになる。
指を一本立て、にっこりと笑った。
「それだけじゃないのよ? ザック君が使ってる端末から取得された解析データと感知ログ、あと、空間波動の生測定値は――設定次第でリアルタイム転送されてくるの。つまり、さっきの君たちの報告も、正式提出より前に、ある程度の情報は私の端末に届いてたってわけ」
その言葉は、さらりとしているのに重い。
アリスは目を瞬かせ、わずかに身を乗り出した。
「……そんな仕組みが? っていうか、それ、ほとんど“常時監視”に近くない……?」
「そう。副次観測系って名目で組み込んであるけど、実際には“演習中に何かが起きた瞬間”を見逃さないための、ちょっとした仕掛け。“裏の監視線”ってところかしら? まあ、公式には言えないけどね」
クラリスは得意げに肩をすくめる。
眼鏡の位置を指先で整える仕草が、妙に様になっていた。
その一連の動作すべてに、自信と遊び心が滲んでいる。
アリスは目を丸くしながらも、胸の奥で納得している自分に気づいた。
(……そういえば、ザック。たまに妙に“気づきが早すぎる”って思ってたけど……あれも、クラリス製の支援ユニットの力だったんだ)




