第十一部 第三章 第10話
報告を終え、転移装置の間を出た直後の廊下で、ラースがぽつりと呟いた。
石造りの長い廊下には、等間隔に設置された魔導灯が淡く灯り、壁面に刻まれた幾何学紋様が呼吸するようにゆっくりと脈動している。
その光は決して強くはないが、均一で、視界の隅々まで静かに照らしていた。
だが、その下に落ちる影はどこか鈍く、重たく、彼らの疲労をそのまま映し出しているかのようだった。
「……さて、夕食まで少し空いてるな。どうする? このまま部屋に戻るか、それともどこかで軽く頭を整理するか……正直、今のままじゃ落ち着かねえ」
ラースは肩を鳴らしながらそう言い、天井へと視線を向ける。
その吐息には、戦闘後とも違う、精神的な疲労が色濃く滲んでいた。
「外には出られないし……かといって、また集まって作戦会議ってほどでもないよね。今はどちらかというと、考えを無理にまとめるより、一度リセットした方が効率がいい気がする」
ザックが軽く肩をすくめて苦笑する。
眼鏡の奥の瞳はまだ情報処理を続けているように微かに動いていたが、その焦点はわずかに甘く、集中の糸が切れかけているのがはっきりと分かった。
「さすがに、あの情報量を一気に整理するのは無理だよね……僕でも一度寝ないと無理だと思う。むしろ今無理に考えると、変な仮説を立てそうで怖い」
彼はそう言って、小さく息を吐いた。
すると、そのやりとりを聞いていたミレーネが、少しだけ遠慮がちに言葉を挟んだ。
両手を胸の前で軽く組み、視線をわずかに落としながら。
「……あの、ごめんね。なんだか、ちょっと疲れちゃって……少し仮眠を取りたいなって……思ってたの。頭もぼんやりしてきちゃって、このままだとちゃんと考えられそうにないし……」
言葉の終わりにかすかに笑みを添えたが、その顔色はやはり少し青ざめている。
頬の血色は薄く、肩の力も完全には抜けていなかった。
「いや、無理すんな。あの空間、体よりも頭にくるタイプの疲労だ。ちゃんと休んだ方がいい。むしろ今の状態で動く方が危ない」
ラースが即座に言い、軽く手を振って制する。
「同感だね。精神負荷がかなり大きかったはずだし、仮眠でもいいから一度リセットした方がいい。……僕も、正直ちょっと頭を整理したい」
ザックが同意し、書きかけの符紙を懐に収める。
「異議なし。飯の前に寝るのも悪くないな。変に考え込むより、体を休めた方が回復は早い」
ラースが腕を組みながら短く言い、今度はゆっくりと深呼吸をした。
「私も……戻って資料を整理しておきたいし、その前に少し落ち着く時間がほしいわ。あの記録、ちゃんと残すには頭が冷えてないと無理だもの」
リゼットは静かに言いながら、手に持つ記録符を見下ろした。
その指先にはまだ微かな魔力の残光が揺れており、先ほどの異常空間の影響が完全には抜けきっていないことを示していた。
「そうね。これだけの情報、少し冷静になってからじゃないと、ちゃんと受け止められそうにないわ。今はまだ……感覚の方が先に来てる状態だもの」
レティアも静かにそう返す。
落ち着いた声色ながら、その瞳の奥には疲労と同時に、強く揺るがぬ決意が宿っていた。
アリスはそんな仲間たちを順に見渡す。
それぞれの表情。
それぞれの疲労。
そして、それでも崩れていない意志。
それを確認するように、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ、一度解散ってことで……夕食の時間になったらまた集合しようか。それまで各自休憩。無理はしないで。……何かあったらすぐ連絡して」
その言葉は穏やかだったが、指揮者としての確かな芯が通っていた。
「了解」
「うん」
「問題ない」
「ええ」
短い返答が重なり、自然と全員が頷き合う。
足音が静かに響き始める。
石床を踏みしめるその音は、先ほどまでの緊張とは違い、どこか柔らかく、しかし確かな重みを持っていた。
それぞれが、それぞれの部屋へと歩き出していく。
距離が少しずつ開いていく。
廊下の魔導灯の光に照らされる背中は、どこか重たく、疲労を背負っているのが分かる。
だが同時に――
その歩みは揺らがない。
見えない糸のように、確かな絆で結ばれているのが、誰の目にも分かるほどに。
静かな足音だけが、長い廊下に残り続けていた。
アリスは与えられた個室の扉を静かに閉めると、わずかに軋む音が背後で消えるのを確認するように立ち止まった。
外の廊下に残っていた足音や気配は完全に遮断され、室内には静寂だけが満ちていく。
外套を無造作に椅子へ掛けると、その布地がわずかに揺れ、光を受けて柔らかな影を床へと落とした。
そのまま彼女は迷うことなくベッドへと体を投げ出す。
柔らかな寝具が全身を優しく受け止め、沈み込むような感触が背中から肩へ、そして首筋へと広がっていく。
だが、その安らぎとは裏腹に、胸の奥には張り詰めた糸がぴんと張ったまま残り、どうしても気が休まらない。
呼吸は浅く、わずかに速い。
まるでまだ戦場にいるかのように、身体だけが遅れて現実へ戻ってきたような感覚だった。
――あれは、間違いなく“私”だった。
思考が、再びそこへ引き戻される。
枕元に置いた再生装置へと視線を移す。
淡い光を放つその小型の魔導機器には、何度も繰り返し再生された映像が静かに映し出されていた。
光の粒子が揺らぎ、星の海のような背景の中に――ひとりの女性が立っている。
あの異界。
あの、現実とは乖離した空間。
その中心で、揺らぐことなく佇む存在。
澄み渡る瞳は氷のように清冽で、長く流れる黒髪は淡い光を浴びて静かに揺らめいていた。
立ち居振る舞いは端然としており、一挙一動に迷いがない。
呼吸の間すら計算されているかのように整い、その存在だけが空間の“軸”となっている。
そして――声。
響き渡るその声音。
抑揚、間、響き。
どれを取っても、自分自身としか思えなかった。
だが――
映像に映る“彼女”は、明らかに違っていた。
「……魔導剣、か」
アリスは小さく呟く。
横目に映る自らの《ルミナ=コード》へと視線を移す。
白銀の刀身が寝具の端で静かに光を返し、淡い反射が天井へと揺らいだ。
映像の中で“レティシア”は、確かに“完成された魔導剣”を佩いていた。
あれは――かつて自らが生み出したはずの究極の創造物。
未完成でも試作でもない。
“完成形”。
それは確かに、見間違えようがなかった。
つまり、それは“マダム・レティシア”が語っていた“記憶封印の後”に製作されたもの。
誰にも知られず、ひとりで鍛え上げた魔導剣。
孤独の中で辿り着いた、最終到達点。
今こうして、自分もアリスとして再び手にしているこの《ルミナ=コード》と、同じもの。
だとすれば――
「女王を退いてから、記憶を封じて……その後に完成させたはず。なのに……なぜ、あの時点で……あの姿で、あれを持っているの……?」
言葉は自然と続いたが、最後はかすかに震えた。
喉の奥で、引っかかるように途切れる。
映像に現れた“彼女”は、若かった。
少なくとも、老境に差しかかった元女王の姿ではない。
凛としたまなざし。
気品と威圧を併せ持つ立ち姿。
それは確かに記憶の中にある“マダム”のものと酷似している。
だが――
そこに映っていたのは、記憶よりも遥かに若い、力に満ちた姿のままだった。
アリスの胸に、不安と戸惑い、そして得体の知れぬ違和感がゆっくりと沈み込んでいく。
――なぜ?
問いは単純だった。
だが、その単純さゆえに、答えが見えない。
女王退位後の記憶封印。
魔導剣の創造。
魂の輪廻。
すべては、論理の上ではひとつながりで説明がつく。
線として繋がる。
だが――
映像の中に立つ“彼女”は、その線を無視していた。
まるで、順序そのものを踏み越えた存在。
理屈では届かない場所に、当然のように立っている。
「……あれが、“後の私”なら、納得できる。けど……“前”では、説明がつかないのよ……どう考えても、順序が逆になってる」
声にした瞬間、その言葉が自分自身へと返ってくる。
重く、鈍く、胸の奥へと沈んでいく。
わからない。
どれほど理屈を積み上げても、あの姿の存在理由が抜け落ちる。
これまで、記憶の断片が戻るたびに、アリスは過去の自分を組み直すようにしてきた。
点と点を結び、ひとつの線へ。
線を繋ぎ、やがて面へ。
そうやって「自分」という存在を理解してきた。
だが今回だけは違った。
あの“外からやってきたもうひとりの自分”は、その積み上げた構造を一撃で粉砕し、定義そのものを無効化してしまいそうだった。
――あれは本当に、“私”なのか?
問いが胸に突き刺さる。
答えは出ない。
ただ、理屈では説明できない“存在の確かさ”だけが、鮮明に脳裏に焼きついて離れなかった。
その中で――
映像の中の彼女が口にした、ある名乗りが記憶を揺さぶる。
『人族連合軍総督、レティシア・ファーレンナイト』
その響き。
その重み。
それは、ファーレンナイト王国が建国される以前――人魔大戦期に、人族諸国が統合されていた組織の名だった。
人族連合軍。
その総督。
それは確かに、自分の過去。
「……だったら、あの外見も納得がいく。女王になる前、まだ軍の総督だった頃なら……時代的には一致する」
口に出してみる。
だが――
納得は、しない。
心の奥に残る違和感は、まったく消えなかった。
「でも、魔導剣……だけは、おかしいのよ。あれだけは、どうやっても辻褄が合わない……」
人族連合軍の総督だった時代。
その頃のレティシアは、まだ《ルミナ=コード》を完成させていない。
記憶を封印し、すべてを終えた後。
孤独の中で。
誰にも知られずに。
あの剣は創られた。
――そう、語られていた。
ならば、なぜ。
戦時中の姿で、あの剣を佩いている?
あれは、“後”にしか存在しないはずのもの。
それが、当たり前のように“前”にある。
「時系列が、ひとつ……ずれてる。いや……ずれてるなんてものじゃない。重なってる……?」
自分でもはっきりしない言葉が、ぽつりと零れる。
記憶の封印後に生まれたはずの魔導剣が、封印前の“レティシア”に存在している。
それは、輪廻でも記憶喪失でも、単なる誤認でもない。
別の何か。
記録に存在しない、“もうひとつの因果”が、そこにあるとでもいうのだろうか。
さらに、アリスの胸を強くかき乱したのは――“服装”だった。
視界の奥に焼きついた映像が、まるで現実の上に重ね書きされるように、何度も何度も脳裏で再生される。
瞼を閉じても、閉じなくても、あの姿は消えない。
自らの記憶に残るレティシアの姿。
それは常に、白を基調とした上衣に赤のラインと金刺繍が走り、清廉な白銀のベルトで腰を締めた装いだった。
布地は光を受けるたびに柔らかく反射し、無駄のない裁断は動きを一切阻害しない。
純白のプリーツスカートは歩みに合わせて静かに揺れ、肌色のストッキング越しに見える脚線はしなやかで、力強さと気品を兼ね備えていた。
足元は白と金のロングブーツ。
その造形は戦装束でありながらも儀礼的な美しさを持ち、まさに“王”としての威厳を象徴するものだった。
――それが、記憶の中の“レティシア”。
だが――
レティアたちが目にした映像に映る“レティシア”は、まるで別人のようだった。
彼女の身を包んでいたのは、深紅の軍装を思わせる衣服。
その色は単なる赤ではない。
血を思わせる濃さと、炎のような揺らぎを内包した、重く、深く、見る者の意識に焼きつく色だった。
胸元には金糸で縁取られた直線的な意匠が刻まれている。
その紋様は装飾というよりも“刻印”に近く、整然と並ぶ線はまるで軍規そのものを形にしたかのような厳格さを帯びていた。
光を受けるたびに鈍く輝き、見る者に圧をかける。
肩には鋼鉄を思わせる小型のプレート。
ただの飾りではない。
その厚み、角度、重なり方――すべてが戦闘を前提に設計された防具のそれだった。
刃を受け、衝撃を流し、それでもなお機動を損なわない構造。
そこには確かな実戦の匂いがあった。
濃茶のベルトに引き締められた胴。
その上から流れ落ちる赤いローブは、歩みに合わせて低く揺れ、まるで焔の残滓が尾を引くかのように空間へと軌跡を残す。
光を吸い、影を引きずりながら揺れるその様は、静かでありながら強烈な存在感を放っていた。
両腕を覆う革手袋には使い込まれた皺が刻まれている。
新品の光沢ではない。
幾度も戦場を駆け、血と汗を吸い、なお破れずに残った“歴史”がそこにあった。
指先の動きひとつで、その者がどれほどの修羅場を越えてきたかが分かる――そんな質感だった。
背には純白のマント。
だがそれは、記憶の中の“清廉な白”とは違う。
戦場の風を受けて翻り、光と影を切り裂くように揺れるその布地は、まるで軍旗のような威圧感を帯びていた。
黄金の髪と紅の衣をより一層鮮烈に際立たせ、その存在そのものを象徴する“旗印”のように背後で揺れている。
それは――
自らの歴史に存在しない姿。
確かに“レティシア”でありながら、どこにも記録されていない装い。
「……違う。あれは……私の知ってる“私”じゃない……あんな装備、あんな意匠……記憶のどこにも、存在しない……」
アリスはかすかに唇を動かし、誰に聞かせるでもなく言葉を零す。
声は小さく、だが確かに震えていた。
静かな室内。
外界から切り離された空間の中で、時計の刻む音すら存在しない。
ただ、自分の呼吸と鼓動だけが、やけに大きく耳に響いている。
天井を見つめる視線が揺れる。
焦点は定まらず、光の残像がにじむように広がっていく。
アリスの額には、知らず薄く汗が浮かんでいた。
それは運動によるものではない。
思考の過熱。
理解不能な事象に直面した脳が、必死に整理しようとしている証だった。
思考は止まらない。
ひとつの疑問が、次の疑問を呼び。
その連鎖は終わることなく続いていく。
だが――
どれだけ積み重ねても、答えには至らない。
それが――
「かつての私」ではなく、「私ではない“レティシア”」だったのだとしたら……それは、もう“記憶の継承”でも“輪廻”でも説明がつかない……全く別の存在……別の系統の“私”が存在しているってことになる……」
言葉はゆっくりと、だが確実に形を成していく。
……それは、輪廻が逸脱し、あるいは並行する存在を許容する“何か”が、すでにこの世界に作用しているということ。
そう思った瞬間――
アリスの背筋に、冷たいものが走った。
ぞわり、と。
皮膚の表面ではなく、もっと深い場所。
魂そのものを撫でられたような感覚。
彼女は小さく身震いした。




