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第十一部 第三章 第9話

 転移装置からの帰還と同時に、アリスたちは学院側管理階層の転移室に姿を現した。


 淡い光の粒がぱらぱらと弾ける中、彼らの靴底が石床に触れる。

 硬質な反力がじんわりと足に伝わり、全員の肩がほっと緩んだ。

 あの“浮遊するような重力”の空間を離れたばかりの彼らにとって、地に足がつくという感覚は、驚くほど重く、そして安心を与えるものだった。


「……帰ってきた、って実感するね。ちゃんと踏めるって、こんなに落ち着くんだ」


 ミレーネが微笑を浮かべながらつぶやく。

 声は小さかったが、どこか解放感を含んでおり、胸元に手を当てる仕草には緊張がほどけていく余韻が滲んでいた。


「はぁ……なんか変な疲れ方してるわ。体は軽いのに、芯が重い感じが抜けねえ」


 ラースが大きく肩を回し、関節を鳴らすように腕を振る。


「感覚のズレだね。重力と空間認識が歪んでたから、脳の補正がまだ追いついてない。数分もすれば落ち着くと思うけど……しばらく違和感は残る」


 ザックが眼鏡を軽く押し上げながら淡々と補足する。


「……結界の反応も正常に戻ってる。あの空間とは明らかに違うわ。魔力の流れも安定してる……やっぱり、あそこは異常だった」


 リゼットが符紙を整えながら静かに告げる。


 転移装置の前には、すでに学院側の監督責任者であるギルベルト教官が腕を組んで立っていた。

 灰色の軍装に包まれたその長身は威圧感に満ち、眼光は鋭く氷のように冷たい。

 彼の視線がアリスたち一人ひとりを射抜くように巡り、数秒の沈黙の後、小さく頷く。


「……全員無事か。予定より早い帰還だな。途中で引き返した理由があるはずだ。……何があった?」


 低く響く声に、空気がさらに引き締まる。


 アリスは一歩前に出て、姿勢を正した。

 金の髪が揺れ、表情は真剣そのもの。


「報告事項が複数あります。主に、第四層とその先に確認された異常についてです。通常の演習範囲を逸脱していると判断し、帰還を選択しました」


「よし、話せ。記録装置は作動中だ。順を追って整理してくれ。曖昧な部分も含めてすべて残す」


 ギルベルト教官が横の卓に置かれた魔導記録端末に手をかざす。

 術式が展開し、青白い光が淡く揺らめく。

 次の瞬間、周囲に低い魔力の振動が広がり、記録準備完了の音が静かに響いた。


 アリスは深呼吸をひとつ挟み、仲間たちに目配せをする。

 皆が軽く頷き返すのを確認してから、落ち着いた声で状況を報告し始めた。


 第四層における重力の異常。

 月面に近い浮遊感。


 星空に包まれた空間構造。

 地面はあるが反力が曖昧で実体感が乏しい。


 流星状の物体が魔獣に変化して襲来する事例あり。

 種別:擬態型《アステロイド・ファントム》。


 地形構造において、明確な「光の門」が存在。

 門の先は“第五層”またはそれに準ずる異空間。


 その空間には強烈な魔力波と空間的揺らぎが存在。

 視覚・重力・魔力感知すべてに影響。


 そして――


 遭遇人物。

 人族連合軍総督レティシア・ファーレンナイトを名乗る人物。


 読み上げられた最後の項目に、ギルベルト教官の表情がわずかに動いた。

 硬直した横顔に、ほんの一瞬だけ、鋭い驚愕の色が浮かぶ。


「……もう一度言え。誰に会ったと?」


 低く唸るような声が転移室に響き、仲間たちの背筋がぴんと伸びる。


「レティシア・ファーレンナイト、と名乗っていました。外見、魔力の質、持っていた武装など――すべて記録に残る“王祖”のそれと酷似しています。単なる模倣ではないと判断しました」


 アリスの言葉は揺るがず、はっきりとした響きを持っていた。


 沈黙が落ちる。

 転移室の術式灯が小さく脈動を刻む音だけが、異様に大きく感じられた。


「記録映像はあるか?」


「はい。ザックが全行動を記録しています。すぐに再生可能です。音声も含めて完全記録です」


「ああ、欠損なし。ノイズ補正済みだ。いつでも再生できる」


 ザックが端末を軽く叩いて応じる。


「よし、後で解析班に回す。……こりゃあ、上層に回す前に一度こちらで精査する必要があるな。軽々しく外に出せる情報じゃない」


 ギルベルト教官は低く唸り、顎に手を当てて短く考え込む。

 その表情は険しく、普段の冷静さに加えて重圧の色が混じっていた。


「よくやった。まずはお前たちの無事が第一だ。詳細な報告はその後で構わん。……今日は部屋で休め。ただし完全待機だ。呼び出しには即応できるようにしておけ。上層部が動くぞ、これは確実に」


「了解しました」


 アリスがしっかりと頷き返す。


 ギルベルト教官は最後に一度だけ、厳しい眼差しを全員に投げる。

 ラースは無言で拳を握り、ミレーネは不安を隠すように胸の前で手を重ね、リゼットは記録符を強く握りしめて背筋を伸ばした。

 レティアもまた静かに顎を引き、騎士としての決意を宿した眼差しを返す。


「何が起きたのか――必ず記録と証言で残しておけ。これは“学院の演習”の範疇を超えている。単なる異常では済まされない。……それを忘れるな」


 その言葉に、アリスたちは一斉に背筋を正し、静かに頷いた。


 ギルベルト教官は短く息を吐き、視線を端末へと落とす。


「……他の班の動きについては、お前たちは何か確認しているか? 途中で接触した形跡でもいい」


「いえ、他の班との接触はいまだにありません。第四層到達以前も含めて確認できたのは自分たちだけです。まだ第三層の中ではないかと推測しています」


「ふむ……その見解で正しい。現時点での記録とも一致している」


 ギルベルト教官は端末のスクリーンに手を滑らせる。

 術式光が走り、記録符が淡く点滅した。


「現在、他の班については、まだ第三層の出口に至っていない。加えて、例の地下遺構付近――過去にお前たちが発見した未登録領域にも、現時点では誰も接触できていない」


 教官の言葉に、一行の間に小さなざわめきが生じる。

 ラースが眉をひそめ、ミレーネはわずかに息を飲み、リゼットは記録符に目を落として指を強く押し当てた。


 ギルベルト教官は端末を閉じるようにスクロールを止め、指先に残る淡い術式光を静かに消しながら、ゆっくりと顔を上げた。

 その鋭い眼差しが、まっすぐにアリスを射抜く。

 転移室の空気が一段と引き締まり、周囲の魔力の流れさえも息を潜めたかのように静まり返る。


「確認するが……第四層と第五層。お前たちが見たというあの空間構造、報告通りで間違いないのか? 誇張や錯覚、あるいは一時的な感覚異常ではないと断言できるな?」


 低く抑えられた声音。

 だが、その奥には一切の曖昧さを許さない圧が込められていた。


 アリスは一瞬だけ言葉を探すように視線を揺らし、仲間たちに目を配る。

 ラース、ミレーネ、ザック、リゼット、レティア――全員が静かに頷き返すのを確認してから、短く息を整えた。


「はい。星空に包まれた空間、重力異常、魔力干渉の濃さ。視界・重力・感覚すべてに影響が及ぶ構造です。……錯覚ではありません。あれは“環境そのもの”が変質しています。異常空間としての体感は、記録の通りで間違いありません」


 その声音は硬質で、緊張に張り詰めながらも揺らぎはなかった。

 言葉の一つひとつが、現場で体験した“確信”をそのまま押し出している。


 ギルベルト教官はその答えを受け、わずかに顎に手を当てる。

 指先で顎をなぞるようにしながら、思考を沈めていく。

 沈黙。

 術式灯の淡い脈動が、規則的に室内を照らし、石床にかすかな影を落としていた。


「……第四層については、これまでの演習でも確認されている。空間そのものの異常性――重力の乱れ、方向感覚の混濁、魔力流の不安定性。それ自体は“特異環境”として既知の領域だ。過去の演習記録でも“星空に囲まれた階層”という認識で共有されている。……つまり、お前たちの報告の前半部分は、理論上の枠内には収まっている」


 淡々とした説明。

 だが、その語尾はわずかに重く沈んでいた。


「魔獣の出現については……?」


 ザックが眼鏡を押し上げ、慎重に言葉を差し込む。

 その声音は落ち着いているが、瞳の奥には明確な緊張があった。


「それが問題だ」


 ギルベルト教官は即答した。

 間を置かない断定。


「第四層においては、過去に魔獣が出現した記録は“ない”。一件もだ。あの層はあくまで空間異常のみの層であり、演習目的としては“錯覚や方向感覚の揺さぶり”に対する対応力を見る場所だ。……お前たちが遭遇した《アステロイド・ファントム》なる存在が本当に第四層で現れたなら、それは記録体系そのものを覆す未確認の異常現象ということになる」


 その言葉は、静かでありながらも重かった。

 石壁に反響し、空気を押し潰すように響く。


 室内の温度が、わずかに下がったかのような錯覚。

 誰もが無意識に息を浅くする。


 リゼットの手元の符紙が、わずかに震えた。

 刻まれた術式が反応し、淡い光が走る。

 まるで、この場の“異常”そのものを記録しようとするかのように。


 ギルベルト教官はすぐさま端末へと視線を落とし、指先を走らせる。

 魔導符式のパネルに触れるたび、淡い青光が瞬き、乾いた記録音が一定のリズムで刻まれていった。


「第五層についても、似たような扱いだ。空間構造がさらに希薄になるという報告は、その通り既存記録に存在する。こちらも第四層と同様、空間そのものの異常性――重力の乱れ、方向感覚の混濁、魔力流の不安定性の“特異環境”として既知の領域だ。……つまり、空間の異常そのものは想定内だ」


 一度言葉を切る。


 そして、ゆっくりと顔を上げた。


「だが――魔獣が出現しない、という前提での話だ」


 その一言が、場に重く落ちた。


「お前たちの報告通りであれば、第四層は“環境異常層”から“実戦環境層”へと変質している可能性がある。……これは単なる誤差や個体差では説明がつかん。構造そのものが書き換わっているか、あるいは――外部からの干渉だ」


 誰も口を開かなかった。


 アリスたちは互いに目を交わす。

 短い視線のやり取り。

 だが、その中に含まれている理解は同じだった。


 ――今回の出来事は、ただの偶然ではない。


 ギルベルト教官は一呼吸置き、わずかに口元を緩める。

 だがそれは安堵ではなく、状況の深刻さを理解した者の、皮肉めいた笑みだった。


「おまえ達だから言うが、学院側としては、本演習の中で第四層と第五層の突破を最難関として扱っている。環境への適応、認識の維持、精神の安定――それらを同時に試される領域だからだ。……それ以後の下層階は、単純に我々の生活圏上に存在する環境が、より過酷になり、そして魔獣の強さも上がるだけのものだからな」


 ラースが小さく息を吐く。

 その吐息は短く、だが重い。


 ミレーネは胸の前で手を重ね、指先をわずかに握りしめる。

 緊張を抑え込むように。


 ザックは無言で眼鏡を押し上げ、思考を整理するように視線を落とす。


 リゼットは記録符に細かな走り書きを刻み続ける。

 その筆致はいつもよりわずかに速く、強く、深かった。


 レティアは一歩も動かず、ただ真っ直ぐにギルベルト教官を見据えていた。

 その瞳には揺らぎはない。

 騎士としての覚悟が、静かに宿っていた。


 「それから、もう一つ」

 ギルベルト教官の口調がわずかに重くなる。

 先ほどまでわずかに緩んでいた表情は完全に消え、鋭く細められた視線がアリスたちを射抜いた。

 その一言だけで、転移室の空気が明確に変わる。

 温度が下がったかのように感じられ、術式灯の淡い光さえも冷たく見えた。


「“第五層入口の光の門”――その存在自体は把握していた。もちろん、学院側の管理記録にも明確に残っている。だがな、あれはあくまで“到達制限用の視覚的結界”だ。……言い換えれば、あの門は侵入を制御するための“見せかけの境界”に過ぎない」


 教官は一歩、わずかに前へ出る。

 靴音が硬質に響き、その音がやけに大きく耳に残った。


「物理的な通行を前提とした構造ではない。あれは単純な第五層への入口だ。許可された手順、許可された条件下でのみ通過が成立する。……逆に言えば、それ以外の通過や、ましてや“外部からの出現”など想定されていない」


 短く息を吐く。


「であるから本来、関係者以外がそこから出現するなど“あり得ない”事態だ。断言できる。記録上も、理論上も、そして管理上もな」


 その言葉は断定だった。

 一切の揺らぎがない。


 転移室の空気が、さらに重く沈む。

 誰も動かない。

 誰も声を出さない。


 ただ、教官の声だけが、静かに、だが確実に場を支配していた。


 アリスの胸に、あの瞬間の記憶が鮮明に蘇る。

 光の門を抜けた瞬間の、視界を埋め尽くす星の海。

 重力の感覚が曖昧に溶け、空間そのものが揺らいでいたあの異界。

 そして――


 そこに“いた”存在。


 深紅の装い。

 白のマント。

 揺るぎない威圧と、静かな慈愛を同時に宿した眼差し。


 ――レティシア・ファーレンナイト。


 無意識に、指先がわずかに震えた。


 ギルベルト教官はその様子を見逃さず、わずかに視線を細める。

 だが何も言わず、すぐに端末へと視線を落とした。


 額に手を当てる。

 指先でこめかみを押さえ、思考を深く沈めるように。


 数秒。


 静寂。


 やがて、低く、厳しい声が再び落ちた。


「……そのため、この件は学院上層部と、演習空間管理局にて“即時検証対象”として扱われる。通常の報告案件ではない。優先度は最上位だ」


 指先が端末を叩く。

 淡い青光が瞬き、記録術式が次々と展開されていく。


「該当映像、および魔力反応の解析が急務だ。記録の改竄や誤認の可能性も排除する。……同時に、当該人物の再出現があるかどうかも含めて監視を強化する」


 一度言葉を区切る。


 その間に、誰も息を整えようとしない。


「あるいは――」


 わずかに声が沈む。


「ダンジョン構造そのものに異常干渉が起きている可能性もある。外部からの侵入、あるいは内部構造の書き換え。……いずれにせよ、現段階では断定できん」


 教官の視線が、再びアリスたちを射抜く。


「だが、どちらに転んでも同じだ。これは放置していい問題ではない。……上に報告せざるを得ない」


 その言葉は、静かに、しかし決定的に場へ落ちた。


 静寂。


 魔導端末の淡い光が、アリスたちの顔を照らす。

 その光は揺らぎ、まるで心の内側まで映し出すかのようだった。


 ラースは拳を握りしめ、無言で歯を食いしばる。

 ミレーネは胸の前で手を重ね、祈るように視線を落とす。

 ザックは眉間に皺を寄せ、必死に状況を整理しようと目を細める。

 リゼットは記録符に視線を落としながらも、指先に力を込めたまま動きを止めていた。

 レティアはただ静かに立ち、まっすぐ前を見据えている。


 そしてアリスは――


 何も言わなかった。


 ただ、その言葉の重みを、真正面から受け止めていた。


 ――これはもう、ただの学院演習ではない。


 その事実だけが、確かな重さを持って胸の奥に沈んでいた。

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