第十一部 第三章 第13話
料理が並びはじめ、やがて簡易配膳が終わると、湯気と香ばしい匂いが食堂いっぱいに広がり、自然と会話が弾み始めた。
鍋の中でゆっくりと煮立つスープの音が、静かなリズムを刻む。
立ちのぼる湯気は灯りを受けて淡く揺らめき、まるで空間そのものを柔らかく包み込むかのように漂っていた。
テーブルには素朴だが滋味に富んだ夕餉――熱々の根菜スープ、香草を効かせた焼き肉、色鮮やかな野菜のソテー、そして外は香ばしく中は柔らかな粗びきパン。
焼き目のついた肉からはじゅわりと脂が滲み、香草の爽やかな香りがそれを引き締める。
パンを割れば、内側から白い湯気がふわりと立ち上り、小麦の甘い香りが広がった。
演習拠点とはいえ、学院が誇る補給体制のおかげで、思いのほか贅沢な食卓が整っている。
クラリスはナイフとフォークを手に取り、丁寧に肉を切り分けながら、ちらりとザックの脇に置かれた端末ケースに視線を滑らせた。
刃が肉を切り裂く小さな音が、会話の合間に静かに混じる。
「……それ、ちゃんとキャリブレーション取れてる? あの子、調整にちょっとクセがあるのよね。出力は安定してても、微妙に位相がずれる傾向があるから、長時間運用だと誤差が蓄積するはずだけど……そのあたり、大丈夫?」
気さくな口ぶりに、ザックは思わず背筋を正す。
眼鏡の奥の瞳が小さく瞬き、慌てたようにケースへ視線を落とした。
「え? あ、はい……だ、大丈夫です、クラリス先生。一応、演習前に再調整しておきましたし、途中でも数値確認はしてました。……ただ、その、先生の言う通り、微妙なズレは確かにあって……」
言葉を選びながらも、声にはどこか嬉しさが滲んでいる。
「ふふ、いいわね。ちゃんと気づいてるじゃない。じゃあ、そのまま使い続けても問題ないわ。むしろ、そのズレに気づけるなら、もう半分は使いこなしてるようなものよ」
クラリスは軽く頷き、満足げに口元を緩めた。
その様子に、周囲の緊張がほどける。
ラースは肉を大きくかぶりつきながら笑みを漏らし、リゼットは口元に小さな笑みを浮かべてスープを口に運ぶ。
アリスはパンを割りつつ、その光景を微笑ましく見守っていた。
「でも、すごいですね。演習中の端末の波形まで確認しているなんて……。正直、あの場でそこまで把握されてるとは思ってませんでした」
ザックは落ち着きを取り戻し、眼鏡を指で押し上げながら続ける。
「だって私、開発者だもの。自分の作ったものがどう動いてるかくらい、ちゃんと見ておかないと気が済まないのよ。……それにね、“現場でどう使われているか”を知らないと、次の改良には繋がらないでしょ?」
クラリスは肩を竦め、余裕の笑みを浮かべる。
「ちゃんと最後まで面倒を見なきゃね。使いっぱなしで放置するなんて、開発者として一番やっちゃいけないことだもの」
その言葉に、ミレーネがスプーンをそっと皿に戻し、感心したように呟いた。
「……さすがです。そこまで考えてるから、あんなに安定してるんですね。正直、今日の演習でも、かなり助けられてました」
その声音には、心からの尊敬がにじんでいた。
そのとき、ふとレティアがスープスプーンを小皿に戻し、思い出したように声を上げた。
「そういえば、クラリスさんとアリスはわかるけど……皆はいつ知り合ったの? 私とアリスは先生の演習講義を受講しているけど、他のみんなはその講義にいなかったよね? ずっと気になってたの」
唐突な問いに、テーブルの空気が一瞬だけ静まり返る。
ラースはフォークを動かしかけて止め、ザックは眼鏡を直しながら小さく首を傾げた。
ミレーネはパンを割る手を止め、少し考え込むように眉を寄せる。
やがて、静かな調子でリゼットが口を開いた。
「それは……レティアさんたちが受けていたのって、《古代魔導理論と再構築演習》ですよね? あの講義、履修条件がとても厳しくて……一定以上の魔力量と、術式理解の基礎、それに評価試験を通過しないと受講できないはずです」
その声は柔らかく、それでいて確かな理路を帯びていた。
「確かに、ちょっとだけね。あれ、思ってた以上に大変だったし……」
クラリスは肉を一口味わってから、軽くナプキンで口元を拭い、口角を緩めながら頷く。
「私たちは、“魔導機構技術入門”の方に参加してたんです。基礎的な構造理解と、実際に触れて学ぶ形式の講義で……その中で、クラリス先生と」
リゼットは背筋を伸ばし、手元の皿に視線を落としながら穏やかに続ける。
「先生の講義は段階的に履修できるようになっていて……その入門編で、私たちは初めて接点を持ちました。そこから、少しずつ関わる機会が増えていって……」
「なるほど。じゃあ、そこで……知り合ったのね。そういう流れだったんだ」
レティアは肘を軽く机につき、興味深そうにリゼットを見やる。
「ええ。その講義でクラリス先生が紹介してくださった“試作観測装置”や“空間座標の可視化術式”にすごく興味を持って……それがきっかけで、演習の前に少し直接ご指導いただいたことがあって……本当に短い時間でしたけど、とても濃い経験でした」
リゼットは少しだけ目を細め、思い返すように語る。
「そんなふうに? うらやましいわ。私たちの講義は理論寄りだったから、実機に触れる機会はそこまで多くなかったし……」
レティアが素直に感心の声を漏らす。
リゼットは小さく瞬きをして、視線を逸らす。
頬にかすかな朱が差し、控えめな笑みが浮かぶ。
「ふふっ、うらやましがられるほど大げさなものじゃないわよ。本当に、ちょっと触れてもらっただけなんだから」
クラリスが穏やかに笑いながら会話へ加わる。
「ほんの少し、授業より実地に近い形で触れてもらっただけ。むしろ、あのときは私の方が助けられたくらいなのよ。試作品って、どうしても予測外の挙動をするものだから……観測してくれる人の存在って、とても大事なの」
「助けられた?」
レティアが目を瞬かせる。
「ええ。リゼットちゃんたちが真剣に観測してくれたからこそ、いくつも改善点が見えたのよ。データだけじゃ分からない、“使われ方”の癖っていうのがあるの。それを拾えたのは、彼女たちのおかげ」
クラリスの声音には、確かな誇らしさがあった。
リゼットは居心地悪そうに肩をすくめ、頬を赤くしたまま小さく首を振る。
「そ、そんな……私たちはただ、必死でついていこうとしていただけで……本当に、何も特別なことはしていませんし……」
その謙遜に、自然と笑みがこぼれる。
ラースが小さく笑い、ミレーネも肩を揺らす。
ザックは静かに頷き、アリスはその光景を穏やかに見つめていた。
食卓の上の温かな光が、彼らの表情を柔らかく照らす。
演習拠点の一角。
そこには確かに、戦いでも調査でもない、
ただの“仲間たちの時間”が流れていた。
そのあと、少しだけ間を置いて、レティアが思い出したように声を上げた。
食堂の灯りがゆらりと揺れ、彼女の栗色の髪に淡い金色の縁を与える。スプーンを持つ手を一度止め、何かを思い出したように目を細めるその仕草は、どこか楽しげで、そして少しだけいたずらめいていた。
「そういえば……クラリスさんの講義、実は私、最初の月でちょっとだけ泣きそうになったのよ? 本気で、ほんの少しだけ……本当にほんの少しだけだけど」
アリスが吹き出しかけ、慌てて手を口元に当てて笑いをこらえる。肩がわずかに震え、視線を逸らしながらも、こぼれそうになる笑みを隠しきれていない。
クラリスは目をぱちくりと瞬かせ、手にしていたスプーンを小さく止めた。
「え? 泣かせた覚えなんてないけど……何かしたかしら? 私、そんなに厳しいこと言った覚えもないんだけど……むしろ優しく教えてたつもりだったんだけどなあ?」
「いえ、違うんです、違うんです」
レティアは慌てて手を振りながら続ける。スプーンが小さく音を立てて皿に触れ、彼女の頬がほんのりと赤く染まる。
「先生の講義自体はすごく面白かったんです、本当に。内容も分かりやすくて、むしろ楽しくて……でも、ほら、“追加課題”ってあるでしょう? あれ、三週連続で出されて、“あれ、先生ってもしかして鬼なのでは……?”って、つい本気で思っちゃったの。しかも、だんだん内容が重くなっていくし……あれ、精神的にくるのよ」
その一言に、テーブルが一斉に笑いに包まれた。
笑い声が天井へと弾け、魔導灯の光が揺らめく。
「やっぱり出されてたんだ、追加分。あれ、避けられないやつなんだね」
ザックが苦笑しながら呟き、眼鏡の奥で目尻を下げる。
「ある意味で恒例行事ね。逃げられないやつ」
ミレーネも肩を揺らして笑い、スプーンを置いて両手を小さく広げる。
クラリスは悪びれる様子もなく、上品にスープを一口すすってから、さらりと言った。
「だって、ちゃんと解けたでしょう? あれ、あなたたちの理解度に合わせて出してるのよ? 能力に応じた“追加栄養”みたいなもの。むしろ出さない方が失礼じゃない?」
「そ、それがちゃんと胃に入るかどうかは別問題ですよ……消化できる量を考えてください……」
レティアが大げさに肩を落としつつも口元に笑みを浮かべると、再び軽やかな笑いが広がった。
レティアが語り終えると、ザックとミレーネも静かに頷き合う。
「ね? 先生の講義って、じわじわと後を引くというか……終わったあとに、“あれ、これって実はすごいことやってたんじゃ……”って気づくタイプなんだよね」
ザックはパンをちぎりながら言い、苦笑交じりに付け加える。
「中毒性あるよね。しかも、課題が異様に凝ってるし……一回解くと、もう一回やりたくなるのが悔しい」
クラリスはおどけたように眉を上げ、口元に小悪魔的な笑みを浮かべた。
「まあまあ。そうやって将来の優秀な技術者が育つのよ? ちょっとくらい大変な方が、記憶にも残るでしょう?」
「ひええ……それを本人が言うのか……」
ザックが小さく身をのけぞらせ、皆がまた笑い声をあげる。
そのとき、ラースが腕を組みながらわざとらしく咳払いをした。
わざと間を作るように視線を泳がせ、やや遅れて口を開く。
「……泣きそうになったのは、レティアだけじゃないぞ。あれ、普通に精神削ってくるやつだ」
一瞬の沈黙のあと、今度はさらに大きな笑いがテーブルを揺らした。
「ラースまで!?」
ミレーネが目を丸くして吹き出し、リゼットも珍しく声を立てて笑った。
「で、でも分かるよ……あの課題の分厚さ、正直心に刺さった。紙の束の厚みを見た瞬間、“これは戦闘よりきついかもしれない”って思ったし」
ラースが照れ隠しに頭をかきながらそう言うと、クラリスは目を細め、優雅に肩をすくめる。
「ふふ。そういう反応が聞きたかったのよ。ちゃんと限界まで考えた証拠だもの」
「性格悪っ……いや、ほんとに……でもまあ、嫌いじゃないけどな」
ラースがぼやきながらも笑みを漏らすと、場は再び笑いに包まれた。
けれど、その直後、ザックの声音は不思議と真剣味を帯びた。
「でも、ほんとに……役に立ってるなって感じるよ。今日の演習でも、あの理論がそのまま使えたし……正直、あれなかったら危なかった場面、いくつかあった」
その言葉に、ミレーネもそっと微笑んで言葉を添える。
「クラリス先生の講義、ただの理論じゃないんです。ちゃんと“現場”の感覚が入ってるから……吸収したものが、そのまま使えるんです。だから、怖いけど……でも、すごく助かってます」
クラリスはフォークを置き、まっすぐ二人を見つめて、柔らかな声で応えた。
「現場を知らない理論なんて、ただの飾りよ。頭の中だけで完結する知識なんて、戦場では何の役にも立たない。……あなたたちが、それを証明してくれてる。それが一番嬉しいわ」
その言葉は静かでありながら、確かな重みを持っていた。
食堂に広がる香ばしいパンの匂いと、温かなスープの湯気。
仲間の笑い声が重なり合い、灯りに照らされた食卓は、戦いや過去の影をひととき忘れさせる、かけがえのない時間に満ちていた。
そこで、レティアが小さく咳払いをして、意を決したようにクラリスへ向き直る。
食堂の灯りがわずかに揺れ、彼女の横顔に柔らかな影が落ちる。胸の前でそっと指を重ね、ほんの一瞬だけ視線を伏せたあと――静かに顔を上げた。
「でも先生……課題の締切だけは、もう少し緩めてほしいです。せめて……もう一日、いえ、半日でも……余裕があると……その、精神的にも……助かります」
その言葉は控えめでありながら、どこか切実さを帯びていた。
次の瞬間――
場が再びどっと沸いた。
ラースは堪えきれず、肘をついたまま机に突っ伏しそうになりながら肩を震わせる。
ザックは眼鏡を押さえながら吹き出し、ミレーネも口元を押さえつつ、くすくすと笑いを漏らした。
リゼットでさえ、わずかに視線を逸らして肩を揺らし、抑えきれない笑みを浮かべている。
クラリスはわざと大げさに目を丸くして、肩をすくめる。
ナプキンを指先で整えながら、その仕草ひとつひとつに余裕と遊び心がにじむ。
「まあ、可愛らしいお願いね。そんなふうに正面から頼まれると、少しは考えてあげたくもなるけれど……でも――締切があるからこそ力が伸びるのよ? 人って、追い込まれたときに一番いい発想をするものだから」
「やっぱり……やっぱりそうなりますよね……」
レティアががっくりと肩を落とす。
その動きに合わせて栗色の髪がさらりと揺れ、ため息が小さく漏れた。
ラースが顔を上げ、まだ笑いを引きずりながら口を挟む。
「いやいや、無理だって。あの量で締切据え置きとか、普通に戦場より過酷だぞ? 敵ならまだ殴れるけど、課題は殴れないからな」
「分かる……分かりすぎる……」
ザックが深く頷き、苦笑を浮かべる。
「時間制限があるからこそ伸びるっていう理屈は理解できるけど……あれはもう、“時間との戦闘訓練”だよね。精神削るタイプの」
ミレーネも小さく肩をすくめながら言葉を添える。
「でも……終わったときの達成感はすごいのよね。あれを乗り越えたあとって、なんだか一段階強くなった気がして……悔しいけど、嫌いじゃないの」
クラリスはそのやり取りを楽しむように見つめながら、ゆっくりと微笑みを深めた。
灰青の瞳が柔らかく細まり、その奥に優しい光が灯る。
「でしょう? 苦しいだけじゃ意味がないのよ。ちゃんと乗り越えられる難易度にしてあるの。……少しだけ厳しめにね」
「少し、ですか……?」
レティアがじっと見つめ返すと、クラリスはわずかに首を傾げる。
「ええ、“ほんの少しだけ”。あくまで“ちょっと背伸びすれば届く”くらいよ。……まあ、その“ちょっと”が人によっては大きいみたいだけど?」
その言葉に、再び笑いがこぼれる。
やがて、クラリスはいたずらっぽく微笑みを浮かべ、声を和らげた。
先ほどまでの軽さとは違い、わずかに深みを帯びた優しい響き。
「……でも、どうしても困ったときは、私に相談してちょうだい。無理をして潰れるのは本末転倒だもの。努力している子を、無下にするつもりはないから。ちゃんと見てるし、必要なら手も貸すわ」
その言葉は、静かに、しかし確かな温度を持って場に広がった。
レティアの表情がぱっと和らぐ。
張り詰めていた肩の力が抜け、柔らかな笑みが自然と浮かび上がる。
「……ありがとうございます、先生。それだけで、少し頑張れそうです」
「ふふ、それならよかったわ。無理はしないでね。でも、逃げもダメよ?」
「は、はい……そこはしっかり守ります……」
そのやり取りに、テーブルの空気はさらに温かくなっていく。
湯気の立つスープが静かに揺れ、パンの香ばしい匂いがふわりと広がる。
誰かがパンを割る小さな音、皿に触れるカトラリーの軽やかな響き、そして重なり合う笑い声。
――食卓を囲む彼らの笑い声は、夜の演習拠点の静けさに心地よく溶けていった。




