第十一部 第三章 第6話
光の門から現れた“人影”に、全員の視線が一斉に吸い寄せられた。
眩いばかりの光の帳がゆっくりと収束していく。
脈動していた蒼白の粒子が霧のようにほどけ、渦を巻きながら中心へと吸い込まれていく。
空間そのものが、ひと呼吸ごとに静まっていくのが分かった。
その中心から――一人の少女、いや、女性が歩み出てくる。
靴底が床へ触れる微かな音が、やけに鮮明に響いた。
硬質な石床と金属の縁が触れ合う乾いた音。
それは幻でも幻影でもない、確かな質量を伴う存在の証だった。
彼女の身を包んでいたのは、深紅の軍装を思わせる衣服だった。
ただの赤ではない。
血を吸い、幾度も戦場を渡り歩いたかのような、深みと重みを帯びた紅。
胸元には金糸で縁取られた直線的な意匠が刻まれている。
光を受けるたび、細い線が鋭く反射し、幾何学的な紋様を浮かび上がらせた。
整然としたその紋様は、まるで威厳を帯びた印章のように輝き、見る者に凛とした印象を刻みつける。
肩を覆うのは鋼鉄を思わせる小型のプレート。
装飾のように見えながら、縁の擦れや微細な傷が確かな実戦の気配を物語っていた。
光を受けて鈍く煌めくその質感は、戦場で血を浴びてもなお冷静に立ち続ける堅牢さを予感させる。
腰には濃茶のベルトが締められ、身体を一切の緩みなく引き締めている。
そこから垂れる赤いローブは、歩みのたびに低く揺れ、焔の残滓が風に流れるかのような存在感を放っていた。
その動きは静かでありながら、周囲の空気を確実に支配する。
両腕は深い色合いの革手袋に覆われている。
関節部分には使い込んだような皺が刻まれ、指先の動きに合わせてしなやかに歪む。
ただの飾りではない。
力を握り、剣を振るい、幾度も血と汗を受け止めてきた戦士の装具。
背には純白のマントが流れ落ちている。
黒髪と紅衣を鮮烈に引き立てるその白は、穢れなき旗印のように堂々としていた。
揺らめくたび、光と影が布の上を走り、まるで戦場に翻る軍旗そのもの――気高さと威圧感を同時に象徴している。
そして、左腰。
魔導剣《ルミナ=コード》の同調鞘に酷似、いや、そのものがある。
柄の曲線であり、鞘の紋様、そして細部の金属光沢。
見間違えようがない。
どう見ても、それは“アリスの剣”そのものを思わせる。
胸の奥に冷たいものが走る。
「――え?」
最初に声を漏らしたのは、ミレーネだった。
指先が小刻みに震え、視線がその姿から離れない。
「うそ……なんで。……あの剣……ねえ、誰か、冗談だって言って……」
声は掠れ、瞳は驚愕と恐怖のあいだをさまよっていた。
喉が鳴り、息が浅くなる。
「ま、待って……あれって、アリス……?」
レティアが眉をひそめる。
唇を強く噛みしめ、戸惑いを押し殺すように視線を凝らす。
「背格好も……立ち方も、似てる。でも……違う。雰囲気が違いすぎる。あんな圧……アリスから感じたこと、ない……」
声は震えている。
だが、その瞳は逸らさない。
「いや……でも髪の色が、顔が違う」
ザックが険しい眼差しを向ける。
端末を片手に、魔力波形と目の前の人物を交互に確認しながら、首を横に振る。
「骨格が微妙に違う。魔力波形はかなり近いが、まったくの同一じゃない。擬態か、同系統の存在か……少なくとも、俺たちの知ってるアリスそのものじゃない」
その声音には、必死に理性を保とうとする硬さが混じっていた。
その姿は――
もし王都の繁華街に現れようものなら、群衆のすべてを一瞬で振り向かせるだろう。
石畳を行き交う商人も、馬車を操る御者も、陽光の下で笑い合う子どもたちも。
誰もが足を止め、呼吸を忘れ、ただその存在を見上げるに違いない。
人ならざる美しさと圧倒的な威容を同時に備えた、幻想的な存在。
近づいてはならない。
触れてはならない。
だが目を逸らすこともできない。
見てはならないものを見てしまったような畏怖が、仲間たちの背筋を凍らせた。
冷たいものが首筋を這い上がり、肩甲骨の奥で硬く結ばれる。
「偶然……にしては似すぎてるけど、別人……なのか?」
ラースが低く呟いた。
握った双剣の柄に、無意識に力がこもる。
「背格好も、立ち方も、纏ってる空気も……似てる。いや! そのものだ。でも……違う。あんな目、俺は知らない。あいつは、あんな風に人を見ない」
疑念と警戒、そしてどこか信じたくない感情が滲む声だった。
少女――いや、その“存在”は確かにアリスに酷似していた。
黒髪の艶。
均整の取れた体躯。
指先の角度に至るまで、見覚えがある。
だが、その表情は冷えきった氷のように無機質で、彼らが知るアリスの柔らかさとは正反対。
笑みの気配も、戸惑いも、迷いもない。
ただ静かに、揺るぎなく立っている。
「……目が、違う」
ミレーネが小さく息を呑む。
「アリスは、あんな風に光を閉じない。怒ってても、真剣でも、どこか温度がある。でもあれは……底が見えない」
喉の奥がひりつく。
視線を合わせているだけで、思考を覗き込まれているような錯覚に襲われる。
「他人の空似……で済ませられるなら、どれだけ楽か」
ザックが低く呟く。
端末の魔力波形は依然として安定している。
「……波長が近すぎる。偶然で説明できる領域を超えてる。別人なら、意図的に似せている。あるいは――」
言葉を切る。
「あるいは?」
レティアが視線を外さずに問う。
「……同じ系譜の存在だ」
その推測が場の空気をさらに重くする。
――まさか、そんなはずはない。
だが――心の奥で膨らんでいく不安は、理性では抑えきれないほどに強烈だった。
胸の鼓動が耳奥で鳴る。
静まり返った空間で、その音だけがやけに大きく感じられた。
その少女は、しばし仲間たちを見渡すように静かに視線を巡らせた。
一人一人を、確かめるように。
値踏みするように。
その眼差しは鋭さと柔らかさを併せ持ち、ただ立っているだけで全員の心を見透かしているかのような錯覚を抱かせる。
やがて、薄く開かれた唇から言葉がこぼれ落ちた。
「……君たち、ここがどこか知らないか?」
声は落ち着いていた。
低すぎず、高すぎず、澄んだ響き。
空気を震わせるでもなく、張り上げるでもない。
それなのに、その一音が空間全体を支配する。
抑揚には年若さを感じさせない威厳が宿っていた。
まるで王の宣言を聞くかのような確固たる語調。
聞いた者の胸の奥を自然と揺さぶり、反射的に背筋を正させる力を帯びている。
石床の上に満ちていた微かな魔力粒子が、その声に呼応するかのようにわずかに揺れた。
音が届くと同時に、空間の温度が一段階下がったように錯覚する。
その存在感に、誰もが一瞬呼吸を忘れた。
肺に溜め込んだ空気を吐くことさえ躊躇するほどの緊張。
静寂が刃のように張り詰める。
「それと……なんだ。妙な格好をしているな。あまり見かけない装束だ。……ふむ? 彼女の格好に似ているな」
静かに告げられたその言葉は、戸惑いを隠しきれない響きを孕んでいた。
冷淡ではない。
嘲りでもない。
率直で素直な疑問。
だが、その素直さがかえって違和感を増幅させる。
まるで本当に、この場を何一つ知らないかのような声音。
一瞬、全員が顔を見合わせる。
無言の問いが交錯する。
息を整える音だけがかすかに重なる。
逡巡ののち、レティアがわずかに息を吸い込んだ。
胸を張り、視線を逸らさず、一歩踏み出す。
彼女の靴音が床に響いた瞬間、張り詰めていた空気がわずかに震えた。
「ここは……王立魔導学院が管理する、ダンジョンの第四層出口付近です。私たちは探索演習の最中で――」
声は落ち着いている。
説明は簡潔で、堂々としている。
だがその指先は、わずかに白くなるほど強く握られていた。
少女はその言葉を聞きながら、小さく首を傾げた。
銀糸のような長髪が肩越しに流れる。
光の残滓を受けてきらりと揺れ、細い線のような輝きが一瞬走る。
「……ダンジョン、だと? ふむ、そう呼ぶのか。ここを?」
その声音には、初めて耳にする言葉を咀嚼するような戸惑いがあった。
言語そのものは理解している。
だが、その概念が彼女の記憶には存在していない。
そう告げるかのような、わずかな沈黙。
「学院……魔導……」
少女はぽつりと呟いた。
声は低く、だが確実に届く距離。
視線がゆっくりと天へ向く。
天井を越え、その先に広がるはずの星空を思い描くように。
その瞳は、遥か彼方の星を越え、もっと遠い記憶の断片を探るかのように宙を彷徨う。
蒼と銀の狭間で揺れる光が、深い内省を映している。
冷静な表情。
だが、ほんのわずかに眉間が寄る。
内面に広がる齟齬。
記憶と現実の不一致。
それを必死に照合しようとしているのが見て取れた。
「奇妙だな。どうにも、私の記憶と一致しない……。いや、そういえば――」
そこで言葉が途切れる。
わずかな間。
光の粒子が肩口で弾ける。
そして、目を伏せると、かすかに呟いた。
「ああ……彼女が言っていたのは、このことか……」
その声は、吐息に紛れるほどの小ささだった。
音としては、ほとんど風に溶ける。
仲間たちには届くことなく、ただ夜風に溶け、星々の瞬きの下へと流れていった。
――しかし、その場にいた者たちは、なぜか一瞬だけ胸の奥をざわつかせた。
聞こえたわけではない。
意味を理解したわけでもない。
けれど。
まるで“重要な言葉を聞き逃した”ような、説明のつかない違和感だけが確かに残る。
沈黙の中、ザックが小声で呟いた。
「認識のズレ……? まさか、別時代、あるいは……」
端末の表示がわずかに揺らぐ。
波形は安定している。
だが、基準値そのものが未知だ。
だが、その先を言い切ることはできなかった。
誰もが口を閉ざす。
言葉にすれば、現実になってしまうような予感。
答えのない疑念だけが場に漂う。
アリスによく似たその少女は、仲間たちの視線を浴びながらも、ただひとり揺るがぬ姿勢で佇んでいた。
背後に広がる光の残滓が彼女を包み込む。
蒼白の粒子が肩から舞い上がり、純白のマントの縁を淡く照らす。
まるで星空を背負った幻像のように。
幻想的な輝きが、静かに、確かに空間を満たしている。
冷たくも美しいその存在感に、誰もが言葉を失った。
少女は、光の門の前から数歩ほど離れると、ふと足を止めて、空を仰ぎ見た。
天井を覆う星海は、静止しているようでいて、かすかに流動している。
蒼と紫の薄膜の奥で、無数の星々が瞬き、淡い尾を引きながら軌跡を描いていた。
現実の夜空よりも近く、しかし触れられぬ距離。
「……この部屋、というのか。ここの星空はとてもきれいだな」
まるで懐かしい風景を見つけたかのように、静かに目を細める。
その横顔は柔らかく、先ほどまでの威厳をわずかに解いていた。
「……あれはアンドロメダ大星雲かな。ふむ、あちらには火星。あ、金星……いや、木星もあるか? ほう、あれは……」
彼女はまるで誰に語るでもなく、指を差しながら、天に散る星々をひとつひとつ確認していくように呟いていった。
指先が動くたび、光の粒子がわずかに揺れ、星の位置と呼応するかのように瞬く。
一行はただ見上げる。
彼女の言葉の一つひとつが、遠い時代の記憶を辿るような響きを帯びている。
「うん? 重力が……なるほど、これは月面並みに低いな」
そう言って、足元で軽く跳ねてみせる。
床を蹴った瞬間、身体はふわりと浮き上がった。
白いマントがゆっくりと遅れて広がり、赤いローブが水中の布のように揺れる。
着地の衝撃はほとんどなく、石床に触れた靴底が軽やかな音を立てる。
「これが……月面浮遊か。ははっ、面白い!」
その笑顔は無邪気だった。
戦装束を纏う存在とは思えないほど、純粋な好奇心に満ちている。
だが、その瞳の奥には、世界の理を理解する者の冷静な観察光も宿っていた。
その姿を、一行は言葉もなく見つめていた。
あまりに異質で。
だが、どこか惹きつけられる存在感。
恐れと同時に、目を逸らせない感情が胸を締めつける。
やがて、少女はふと我に返ったように振り返り、微かに肩をすくめる仕草を見せた。
「……ああ、すまない。つい、ひとりではしゃいでしまったな」
軽く前髪を払う。
黒にも金にも見える髪が、光を含んできらりと揺れた。
「珍しい景色でね。いや、それだけじゃない。……懐かしいものを、久しぶりに見られた気がしてな。どうにも胸がざわつく」
その言葉に、再び一同の間に沈黙が落ちた。
レティアが、少女の横顔をそっと見やる。
わずかに寄せられた眉。
ほんの一瞬だけ滲んだ、言葉にできない郷愁。
その正体を、誰もが言葉にできずにいた。
「すまんが、君たちは――どちらから来たのかな?」
穏やかな声。
だが問いは真剣で、揺らぎはない。
場に不思議な浮遊感が広がる。
現実と夢の境界が曖昧になるような感覚。
レティアが一歩前に出る。
「……向こうからです」
彼女は振り向き、これまで一行が歩んできた星空の道を指さす。
淡い光の帯が、遠くまで静かに続いている。
少女はその指先を追う。
しばし無言で、星々の流れる道を眺める。
星光が瞳に映り込み、深い銀色を帯びる。
そして一歩進み、細く息を吐く。
「この星空が続くのか……。では、その先に何かあったか――教えてもらえないだろうか?」
レティアは小さく頷く。
「……はい。そこは、ダンジョンの第三層出口です」
「ふむ……また、記憶にない場所か。これは完全に迷い込んだな」
少女は苦笑する。
困惑よりも、状況を受け入れる柔軟さが先に立っていた。
わずかに肩をすくめる。
「しかたがない。元来た道に戻るか……」
そう言いながら、ふと柔らかな微笑みを浮かべる。
「君たち、ありがとう。とても助かった。早く戦場から――いや、ここは戦場ではないな」
一瞬の言い淀み。
だがその一拍に、重い記憶が滲む。
血と鉄と火薬の匂い。
幾度も死線を越えてきた者の響き。
ただの迷子ではない。
激動の時代を生きた者の声音。
「魔国軍が攻めてくる前に……自分たちの“場所”に戻りなさい」
そう言い残すと、少女は迷いなく光の門の前へ歩み出る。
門の縁から零れ落ちる光粒が、足元で花弁のように舞う。
白と蒼の粒子が彼女の輪郭を縁取り、神聖な影絵のように浮かび上がらせる。
「……!」
その背を見送る仲間たちの胸に、言葉にならぬ緊張が走る。
レティアは躊躇する。
だが、やがて意を決して一歩踏み出す。
「――すみません。失礼ですが、お名前をお聞かせ願えませんでしょうか!」
少女の足がぴたりと止まる。
静寂。
衣擦れの音すら、鮮明に聞こえるほどの間。
やがて、ゆっくりと振り返る。
その動きに合わせ、黒色の長髪がふわりと光を帯びる。
揺れるたびに星屑を散らしたかのように煌めいた。
「自己紹介……していなかったか。それは失礼した」
少し首を傾げるその仕草は、とても柔らかい。
だが、瞳に宿る光は揺るぎない。
「私は――人族連合軍総督、レティシア・ファーレンナイト。以後お見知りおきを」
その名乗りは、空間を震わせるほどの重みを持つ。
それでいて、不思議と優しさを含んでいる。
誰もが言葉を失う。
その名の響きが、胸の奥に深く刻まれる。
最後にもう一度、彼女は微笑む。
慈愛にも似て。
しかし同時に、戦場に立つ将の凛とした気高さを兼ね備えた笑顔。
光の門が揺らめき、彼女の姿を包み込もうとしたその時。
ふと少女はもう一度レティアへと視線を向ける。
「……そういえば、君の名は?」
突然の問いに、レティアは一瞬だけ息を詰める。
だが胸を張り、まっすぐ答える。
「レティア・エクスバルド、と申します」
少女の瞳が細められる。
口元に微笑が浮かぶ。
「……エクスバルド、か。なるほど……レティア、いい名だな」
その声音はどこか懐かしさを孕む。
まるで過去と現在をつなぐ糸を確かめるように。
レティアの胸に、理由の知れぬ熱が込み上げる。
やがて少女は静かに踵を返し、光の門へと歩みを進める。
光の粒が彼女の輪郭を覆う。
白と蒼の粒子が溶け合い、すうっと吸い込まれるように消えていった。
残されたのは、微かに揺れる光の残滓。
そして、ふたりの名が交わった一瞬の響き。
その余韻だけが、場に重く、そして鮮烈に刻み込まれていた。




