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第十一部 第三章 第7話

 少女が光の門の中へと姿を消した。


 揺らめいていた蒼白の縁がゆっくりと収束し、門は何事もなかったかのように静まり返る。

 淡い残光だけが空間に漂い、縁から零れ落ちた光粒が、名残惜しむようにふわりと宙を舞っていた。


 白と蒼の粒子はやがて重力に従うことなく、空気に溶けるように拡散していく。

 星海を模した天井は静かに瞬き続け、何も知らぬ顔で淡い光を落としていた。


 その場に残されたのは、ただ、その“背中”を見送ったまま――呆然と立ち尽くす一行だった。


 誰もが呼吸すら忘れている。

 胸の奥で心臓が早鐘を打っているのに、肺が動くことを拒んでいるかのような奇妙な静止。


 異質な姿。

 あまりにも洗練された振る舞い。

 口にされたその名。


 そして、何より――確かに肌で感じ取った“気配”。


 空気の密度が違っていた。

 視線を向けられただけで、己の存在が測られるような圧。

 それが今は消えている。


 だが、消えたはずなのに、まだそこにある。


「…………」


 沈黙が降りる。

 星々が静かに瞬き、空間を淡く照らすだけ。


 少女の痕跡は、まるで最初から存在しなかったかのように、星の輝きの中に溶けていった。


 だが次の瞬間――


「っ……え、えええええ!? い、今のって、まさか――!?」


 堰を切ったように声が弾けた。


「レティシアって……あの!?」

「ちょ、ちょっと待って!? な、なんであの方がここに……!?」


 爆発のように、動揺と混乱が一気に広がる。

 張り詰めていた緊張が、逆方向へと振り切れた。


 ラースが珍しく声を裏返し、額に汗をにじませて叫ぶ。


「いやいやいや、おかしいでしょ!? 時代が……え? 彼女、生きてるの? 幽霊? 幻? え、でも普通に喋ってたし!?」


 両手を広げ、視線を忙しなく巡らせる。

 落ち着きのない呼吸が荒くなる。


 ミレーネは唇をわななかせ、視線を泳がせながら必死に言葉を探す。


「わ、私も……夢でも見てるのかな……? だって、あの気配、ただの人間じゃ……」


 胸元の結界符をぎゅっと握りしめる。

 指先が白くなるほど力が入っている。


 ザックは両手を震わせ、目を大きく見開いたまま絶句していた。

 端末はいつの間にか握りしめられ、画面の光が揺れている。


 やっとのことで搾り出した声は、乾いた囁きに近かった。


「……さっきの剣……ルミナ=コードに……そっくり、いや、そのものじゃなかったか?」


 言葉と同時に、視線がアリスのいない空間を探す。

 そこには、何もない。


 レティアの声は、かすかに震えていた。


「……ファーレンの広場にある王祖様の像。あの人に……そっくり。いや、それ以上……。あんなに綺麗で、威厳があって……現実に存在するなんて……」


 喉がひりつく。

 脳裏に、石像の姿が浮かぶ。


 だが、先ほど目の前に立っていた存在は、あれよりも遥かに“生”を帯びていた。


 彼女の言葉に、ミレーネが息を呑む。


「像よりも……もっと、生きてるって感じで……本物って、ああいう人を言うんだ……」


 声は小さい。

 だが確信を含んでいる。


 ラースは頭を抱え、混乱したまま叫ぶ。


「いや、っていうかさ! 俺、思わずサイン欲しいって思っちまったんだけど!? なにあのオーラ! 普通じゃねぇって!」


 場違いな冗談めいた言葉。

 だが笑いは起きない。


 誰一人、軽口で済ませられる状態ではなかった。


 全員がまだ、あの圧倒的な存在感の余韻に縛られている。

 胸の奥に残る震えが消えない。


 やがて、張り詰めた空気を破るように、ザックが恐る恐る呟いた。


「……もしかして……本当に、時空の歪み……か?」


 その言葉は、重く冷たい刃のように空間に落ちる。


 星海の瞬きが、一瞬だけ遠のいたように感じられた。


 誰も笑わない。

 誰も否定しない。


 ただ、静寂の中で鼓動だけが耳に響く。


 確かに――“何かが狂い始めている”と全員が悟っていた。


 そのとき――


「ザック! 後で記録装置の映像、コピーもらえる?」


 ラースが振り返りざまに声をかけた。

 勢いよく身体を反転させた拍子に、外套の裾が空気を切り、わずかな風が生まれる。

 まだ完全には落ち着きを取り戻せていないはずの顔に、しかし確かな決意が浮かんでいた。


 思いも寄らぬ要求に、ザックは驚いたように瞬きを繰り返す。

 眼鏡の奥で目を丸くし、端末を抱え直す。


「あっ、ああ……もちろん。念のため複製を取っておくさ。消すなんて選択肢、あるわけないしな……」


 言葉の端にはまだ動揺が残っている。

 だが、その声音には妙な確信も混じっていた。


 震える指先で端末を操作しながら、記録データの保存状況を確認する。

 表示された魔力映像のタイムコードが、確かにあの瞬間を刻んでいる。


「頼む。……今のは、絶対に記録に残しておくべきだ」


 ラースの真剣な口調。

 冗談ではない。

 熱に浮かされた興奮でもない。


 仲間たちも静かに頷く。


 レティアは胸に手を当てるようにしながら、かすかに微笑んだ。

 指先が、鼓動を確かめるようにゆっくりと動く。


「……ものすごく綺麗だったわ。映像のコピーをもらったら、何度も……何度でも見返したい」


 その声音は柔らかい。

 だが、瞳の奥には揺るぎない憧憬が宿っている。


 先ほどまでの緊張とは違う。

 あれは恐怖ではなく、圧倒的な美と威厳に触れた者の余韻だった。


 その言葉に続くように、ミレーネが小さく息を吐く。

 張り詰めていた肩が、ほんの少しだけ下がる。


「ラースじゃないけど……サイン、もらえばよかったかな……」


 ぽつりと落ちた一言。


 一同は一瞬、絶句した。


 星海の瞬きが、妙に静かに感じられる。


 次の瞬間、誰かが小さく吹き出す。

 堪えていた空気が、ふっと緩む。


 肩を揺らす者。

 口元を覆って笑いをこらえる者。


 ラースが「だろ!?」とでも言いたげな顔をするが、言葉にする前に再び笑いが重なる。


 重く張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ柔らかくほどけていった。


 それは恐怖や驚愕から解放される、ささやかな安堵の吐息。


 胸の奥に溜まっていた緊張が、ゆっくりと流れ出す。


 だが、笑いの波が静まると、再び静かな星光が降りる。

 誰もが理解している。


 ――あの邂逅は、笑い話で終わるものではない。


 視線が自然と、先ほど少女が立っていた場所へ向かう。

 そこにはもう何もない。


 だが、確かに刻まれている。

 それぞれの胸に、確かな“刻印”として残っていた。


 一同がわいわいと騒ぎながらも、先ほどの出来事の余韻に包まれていた、そのとき――空間の奥、静まり返っていた光の門が、かすかに揺らいだ。


 蒼白の縁が波紋のように震え、閉じたはずの光が内側から滲み出す。

 淡い粒子が再び舞い上がり、星海を映す床面に白い反射を落とした。


 再び、門の中から揺らめく光と共に、人影が現れた。


「……ん?」


 誰よりも先に気づいたのはザックだった。

 反射的に記録装置へと手を伸ばし、目を凝らす。

 瞳孔がわずかに開き、端末の光が眼鏡に反射する。


 続いて他の者たちも振り返る。


 星光を背に浮かび上がる輪郭。

 長い髪。

 ほのかな金色の光。


 その姿を認め――全員の動きが、ぴたりと止まった。


「え……また……?」


 ラースが息を呑み、思わず半歩後ずさる。

 足裏が石床を擦る音がやけに大きく響いた。


 金色の髪。

 淡い光を帯びた輪郭。


 その外見は、先ほど目の当たりにした“彼女”を鮮明に想起させる。


 胸の奥に、再び緊張が走る。


 だが――


「……な~んだぁ、アリスかよ」


 ラースが脱力したように肩を落とす。

 張り詰めていた筋肉が一気に緩み、両腕がだらりと下がった。


 周囲も一斉に張り詰めた息を吐き出す。

 安堵と同時に、力が抜けたような疲労感が押し寄せる。


 それは安心であり、同時に肩透かしを食らったような混乱でもあった。


「なに? 私が戻ってきたら、いけないわけ?」


 眉をひそめ、少し不満げに抗議するアリス。

 門をくぐった直後らしく、まだ周囲の状況を把握しきれていない顔だ。


 その声に誰よりも早く反応したのは――レティアだった。


「アリスっ!」


 感情の堰を切ったように駆け寄る。

 床を蹴る靴音が星海の空間に弾ける。


 そのまま勢いよく抱きつく。


 アリスの胸元に顔を埋め、腕をぎゅっと掴んだ。

 指先が震えている。


「今ね……今ね、レティシア様がお見えになったの! 本物の、あの御方が……っ!」


 潤んだ瞳。

 紅潮した頬。


 声は震え、興奮と敬慕とがないまぜになっている。


 抱きしめられたアリスは完全に唖然とした。

 口を半開きにしたまま固まり、両腕が宙に浮いたまま止まる。


「……え、は? レティシア“様”? 何それ……どういうこと?」


 視線が左右に泳ぐ。

 状況が追いつかない。


 一同は再び言葉を失い、ただ互いに顔を見合わせるしかなかった。


 重い沈黙。

 かすかなざわめき。


 ――やがて、ようやく全員が少しずつ落ち着きを取り戻すまでに、しばらくの時間を要した。


「ちょっと待って……つまり――」


 アリスはレティアからそっと離れ、腕を組む。

 視線を一人ひとりに向け、順に確認する。


 興奮冷めやらぬ面々の様子を見て、その表情には戸惑いと苛立ちが入り混じる。


「私が門の中に入っている間に、“レティシア・ファーレンナイト”を名乗る人物が現れて……話をして、去っていった……と?」


「うん! 本当に本人だと思うの!」


 レティアが奇跡を語るように強くうなずく。

 瞳がきらきらと輝いている。


「姿も、雰囲気も……あのファーレン王都の王祖像とそっくりだったのよ。それに……ちゃんと、名乗ったの!」


「……冗談じゃなくて? 幻覚とか、擬態魔術の類とかじゃなくて?」


 アリスは眉をひそめ、目を細める。

 冷静に可能性を探ろうとする声音。


 だが返ってくる反応は真剣そのものだった。


「映像あるよ」


 ミレーネが振り返り、ザックに促す。


「ザック、さっきの映像……再生して」


「ああ、すぐに」


 ザックは落ち着いた仕草で腰の《リンク・アナライザー》を操作した。

 指先が淡く光り、空間に術式の円が広がる。


 瞬く間に浮遊式の小型スクリーンが展開される。


 淡い蒼光が星海の中に矩形の映像を結び、先ほどの光景が再生されようとしていた。



 空中に広がる映像には――光の門の前に立つ、黒色の髪を持つ少女が映し出されていた。


 浮遊式スクリーンは淡い蒼光を帯び、星海を背に半透明の膜のように揺らめいている。

 術式円から投影される映像粒子が、微細な光の砂となって縁を縁取っていた。


 画面の中。


 蒼白の門を背負い、静かに佇むその姿。

 黒とも深い紺ともつかぬ艶やかな髪が、光を受けて淡く縁取られている。


 赤の軍服。

 深紅に沈んだ布地は、光の粒子を吸い込みながら重厚な質感を保っている。

 胸元の金糸の意匠が、映像越しでもはっきりと輝きを放っていた。


 腰に佩いたルミナ=コードに酷似した剣。


 細部まで鮮明に記録されている。


 映像の中の彼女は、一歩も揺らがない。

 ただ立っているだけで、周囲の空気が整列するかのようだった。


 そして、何よりも全員の心を奪ったのは――


 堂々たる態度と、穏やかでありながら凛とした声だった。


 映像内で、少女がゆっくりと振り返る。

 光を受けた横顔がわずかに浮かび上がる。

 瞳に宿る確信。

 微動だにしない姿勢。


 次の瞬間、音声が空間に響く。


『私は、人族連合軍総督――レティシア・ファーレンナイトという。以後お見知りおきを』


 その瞬間、アリスの顔が引き攣った。


 蒼い瞳がわずかに見開かれ、呼吸が浅く止まる。

 映像に映る“彼女”の姿が、網膜に焼きつくように揺らめいた。


「う……そ、でしょ……」


 小さく漏れた声。

 それは驚愕と動揺を隠しきれない囁きだった。


 指先がわずかに震える。

 肩がかすかに強張る。


「ね、アリス。やっぱり似てるでしょ?」


 ミレーネが期待に満ちた眼差しで問いかける。

 無邪気な好奇心と、どこか誇らしげな色が混じっていた。


 アリスは息を呑む。

 喉がひりつく。


 一拍の沈黙。


 視線をスクリーンに釘付けにしたまま、肩をすくめるようにしてようやく答えた。


「……似てるのは、確かに。私が知っている記録のレティシア様とは服装は違うけど……雰囲気や立ち居振る舞いは、そっくり……いや、それ以上かも」


 映像の中の姿勢。

 視線の置き方。

 言葉の間の取り方。


 どれもが、史料で見た“王祖”、そして自身の記憶のそれを凌駕している。


「でしょ!? サインもらえばよかったよなー!」


 ラースが肩をすくめ、大げさに手を広げる。


「俺さ、あの瞬間マジで思ったんだよ!? 歴史的偉人だぞ!? いや偉人っていうか、生ける伝説っていうか……あれ目の前にしたら普通テンパるって!」


 その場違いな発言に、ミレーネとザックは苦笑を漏らした。


 だが、完全に否定できない自分たちがいることにも気づいている。


「記録に保存してあるし、あとで何度でも見られるわよ」


 リゼットが控えめに言い添える。

 落ち着いた声音だが、指先は無意識にローブの端をつまんでいた。


「いや……それはそれで、緊張するんだけど……」


 アリスは複雑な表情を浮かべたまま、スクリーンから目を離さない。


 胸の奥で、何かがざわつく。


 懐かしさ。

 距離の遠さ。

 そして――否応なく重なる存在。


 (……私の“過去”を、誰よりもよく知っている存在……)


 その思考に、自らを縛りつけるような重さを感じる。

 だが表情は崩さない。


「――記録を本部に報告する? それとも、今はまだ伏せておく?」


 ザックが問いかける。

 緊張をはらんだ視線が、自然とアリスへ集まる。


 判断を委ねる視線。


 アリスは小さく息を吐く。

 視線を一度落とし、映像の光から離れる。


 そして、ゆっくりと口を開いた。


「……ティアナ様にだけ、こっそり報告して。あとは……様子を見て」


 その声は落ち着いている。

 だが、どこか遠くを見つめるような響きがあった。


 過去と現在のあいだに立つ者の声。


 まるで懐かしい記憶の扉を、内側から叩かれたかのように――。


 だが、その視線の奥に隠されたものを、仲間の誰一人として読み取ることはできなかった。


 沈黙の中、不意にレティアが胸元を押さえる。

 指先が、まだ温もりを確かめるようにそこに触れている。


「……ふふっ……名前、聞かれちゃった……」


 頬がほんのりと染まる。

 瞳がとろけるように細められる。


 その表情は恍惚として、夢見る少女そのものだった。


 自分の名を、あの“レティシア”に呼ばれた。

 ただそれだけで、胸の奥が満たされる。


「私の名前……ちゃんと、覚えてくれたかな……」


 小さく、幸せそうに呟く。

 仲間たちは一瞬ぽかんと彼女を見たが、誰も茶化さない。


 その場の誰もが、まだあの邂逅の余韻に囚われていたからだ。

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