第十一部 第二章 第15話
その夜――。
学院宿舎の一室は、昼間の報告会の緊張が嘘のように静まり返っていた。
窓の外では月が高く昇り、淡い銀光が石造りの壁を撫でるように照らしている。遠くの回廊を巡回する兵士の足音が、規則正しく響いては消えていった。
アリスはようやく落ち着いた空気の中で、ベッドの上に腰を下ろした。
柔らかな寝具がわずかに沈み込み、その感触と同時に、全身にまとわりついていた緊張の残滓が少しずつほどけていく。
肩の奥に残っていた鈍い重さ。
指先に残る魔力の痺れ。
第三層での激戦、崩落、地下遺構、石像群――それらの光景が、ふと瞼の裏に蘇る。
深く息を吐く。
肺の奥に滞っていた冷たい空気が、ゆっくりと外へ流れ出た。
制服のポケットに手を入れ、小さな携帯式魔導通信機を取り出す。
掌に収まるほどの大きさ。
だが表面には幾何学的な術式刻印が幾重にも走り、淡い青白い光を帯びている。
それは単なる道具ではない。
最新の研究成果と高精度の同期術式が組み込まれた、特別仕様の端末だ。
(クラリス……今頃、どうしてるかな)
思わず胸の内で名前を呼ぶ。
正式な報告は済ませた。
だが、報告書の文面では伝えきれない感情がある。
あの地下で感じた違和感。
石像に刻まれた異様な静謐。
そして、胸の奥に残る言葉にしづらい予感。
アリスは小さく呼吸を整え、通信盤に指先を滑らせた。
魔力の流れが起動音と共に転写され、盤面に波紋のような光が広がる。
微細な振動が掌をくすぐり、空気がわずかに震えた。
まずクラリスの符号を入力する。
続いてレイラの符号を重ねる。
わずかな沈黙。
やがて小さな震動が掌に返り、二人からの応答信号が届いた。
『こっちは問題ないよ。……久しぶりに顔、見せて? 声だけじゃ足りないから』
穏やかなクラリスの声が真っ先に耳を打つ。
柔らかな響きは、学院の冷たい石壁を一瞬で温もりある空気に変えるかのようだった。
『通信端末、使え。確認済み。……無事なら、それでいい』
すぐ後に続いたのは、レイラの短く切り込むような声音。
だが、その抑えられた響きの奥に、確かに安堵の色が滲んでいる。
アリスは自然と口元を緩めた。
「……了解。じゃあ、顔を見せるね。ちゃんと、今の私を見てほしい」
立ち上がり、部屋の一角へ向かう。
そこには魔導通信機と連動する映像投射用の小さな魔術盤が設置されている。
壁面に刻まれた補助術式が、淡い光を帯びていた。
端末を重ね、短く接続呪文を紡ぐ。
「接続、同期、視覚共有」
青白い光が走る。
空間が微かに震え、魔力が円環状に広がる。
次の瞬間、術式盤が強く輝き、宙に二つの光窓が浮かび上がった。
一つ目の窓。
白衣姿のクラリス・ノーザレイン。
研究机の上には文献と魔導部品が山のように積まれ、分解途中の装置から淡い光が漏れている。
灰青の瞳が眼鏡越しに光を反射し、こちらを真っ直ぐ見つめていた。
もう一つの窓。
レイラ・アスコット。
黒髪を短く整え、椅子に背を預けたまま腕を組み、静かに佇んでいる。
冷ややかな表情に見えるが、その瞳の奥には微かな安堵が宿っていた。
アリスは両者の姿を見て、張り詰めていた心がふっと緩むのを感じた。
「……遅くなったけど、今日は連絡できてよかった。報告は済ませたけど、どうしても二人には直接伝えたかったの」
自然と柔らかい声がこぼれる。
彼女は深く頭を下げ、真摯に言葉を重ねた。
「支給品、ありがとう。全部、本当に助かってるわ。あれがなかったら、あの地下で全員無事に帰還できたかどうか……正直、自信はなかった」
クラリスは口元に穏やかな笑みを浮かべた。
『ちゃんと届いて安心したわ。設計段階では理論値しか出ていなかったけれど、実地で使ってもらってこそ意味がある。……《EVA-X》の結界展開、応答速度はどうだった? 負荷は許容範囲? 異常振動は出ていない?』
研究者の顔が前面に出る。
だがその奥には、教え子を気遣う優しさが確かにあった。
アリスは微笑む。
「応答速度は理論値以上よ。展開遅延は体感でゼロに近かった。魔力効率も安定してたし、過負荷の兆候も出ていない。……正直、想像以上だったわ」
レイラが低く問う。
『……問題なさそうだったか? 結界が破られる兆候は』
短いが鋭い問い。
「ええ、十分に」
アリスは即座に返す。
「結界展開の反応は速かったし、地下崩落時の衝撃にも耐えた。魔力効率も格段に良かった。……仲間たちも、口には出さなかったけど、確実に心強さを感じてたと思う」
クラリスは軽く眼鏡を押し上げ、小さく頷いた。
『それなら良かった。あなたたちの実測値は貴重よ。あとでデータを送って。波形と魔力消費量、全部』
レイラは目を細め、ほんのわずかに唇を緩める。
『……そうか。なら、それでいい。生きて戻った。それが最優先だ』
その何気ない一言が、アリスにとっては戦場から戻ったことをようやく実感させる温かな証明のように響いた。
アリスの言葉に、レイラはふと視線を伏せた。
光窓越しでもわかるほど、わずかな間が生まれる。
指先が無意識に机をとん、とん、と一定の間隔で叩く音が、魔導通信越しに微かに響いた。
そして、短い沈黙ののち、低い声で言葉を継いだ。
『……少し、問題あるかもしれない』
その声音は抑えられているが、軍務に携わる者特有の慎重さが滲んでいる。
黒髪の隙間から覗く瞳が、一瞬だけ険しさを帯びた。
『――あのライフルは、第二次石碑調査隊の成果をもとに設計した新型だ。術式干渉波を実弾と融合させる構造は、まだ理論段階の部分も多い。そのまま試作を起こして……ティアナ様が“ダンジョン演習なら実戦試験に最適だろう”と判断された。ほぼ強行だ』
「えっ……?」
アリスの声が思わず裏返る。
目を見開き、両手が膝の上で固まった。
レイラは淡々と続ける。
『本来なら段階的試験を行う。安全域の確認、干渉波形の安定値測定、反動補正の最終検証。それらを飛ばしている。つまり……実地が最終試験だ』
アリスはぽかんと口を開けたまま瞬きを繰り返す。
その反応を見て、クラリスが深々とため息をついた。
額に手を当て、眼鏡を押し上げる仕草は、呆れ半分、諦め半分だ。
『やっぱり……。あの人、本当に押し切ったのね。私の方は自分の試作品の改良版サンプルだから問題ないけれど、あれはまだ世に出す予定がなかったのよ。干渉演算が完成しきっていないのに……』
研究机の上に散らばる設計図を一瞥し、クラリスは続ける。
『しかも国外持ち出し制限がかかっていたでしょう? 正式な輸出ルートもない。外交局を通せば議会審議もの。どう処理すべきか、私も頭を抱えていたところだったの』
レイラが肩をすくめる。
『……そこへフィオナ王女が口を挟んだ。“面白そう”の一言だ。外交局に王族特権を行使し、輸出許可を即日通達。軍部の確認より先にな。だから今、君たちの手にある』
「…………」
アリスは言葉を失い、背もたれにぐったりと沈み込む。
両手で顔を覆い、くぐもった声だけが漏れた。
「なんでみんな、そんなにノリノリなの……うれしいけど……国家権力を私物化するのは、よくないよね……?」
小さな呻き。
その嘆きに、レイラとクラリスは視線を交わすこともなく、まったく同じタイミングで口を開いた。
『『……それ、アリスが言う?』』
声色まで揃っている。
アリスはがばっと顔を上げた。
耳まで赤く染まり、悔しそうに唇を尖らせる。
「……言われると思った」
肩が力なく落ちる。
張り詰めていた空気が、ふっと和らいだ。
レイラの眼差しも、クラリスの口元も、ほんのわずかに柔らかさを帯びる。
やがてクラリスが姿勢を正し、細い指をすっと持ち上げた。
研究者の瞳が真剣な光を宿す。
『でも、本気で使ってくれたことは伝わってきたわ。演算ログの揺らぎが少ない。あなたたち、無理な撃ち方はしていない。……それは信頼の証よ』
少し間を置き、淡々と続ける。
『で――支給品について、あと二点。私が支給した装備群、《EVA-Xシリーズ》も含めて、正式な製品ではない試作品ばかり。演習が終わったら、《インベントリア=ゼロ》に入れてある分以外は、全部返却してね。データ解析と改修が必要だから。……もっとも、アリスが管理してくれるなら、それでもいいけれど』
その最後の一言には、明らかな信頼が混じっていた。
アリスは背筋を伸ばす。
「了解。大事に扱うわ。傷一つでも増やさないようにする。改修が必要なら、使用感も全部まとめて渡す」
レイラが椅子の背からわずかに身を起こす。
視線が鋭さを帯びる。
『こちらの装備も同じだ。というか、それはもっと厳しい』
淡々とした声音。
そこに軍人としての冷徹な規律が宿る。
『ダンジョン攻略後、報告書。テスト運用結果、形式整えて提出。魔力消費量、反動補正値、干渉成功率、すべてだ。それと……国家機密指定装備。演習終了時に、全部回収する。例外なし』
重く冷たい言葉が落ちる。
アリスの肩がびくりと揺れた。
「うぅ……がんばります……報告書、ちゃんと書きます……」
机に突っ伏しそうになりながらも、神妙に頷く。
その姿に、クラリスとレイラの眼差しが一瞬だけ和らいだ。
緊張と義務の中にも、三人の間に確かに流れる信頼があった。
「でも、その分しっかり結果は出すわ。今回は、ちゃんと報告もあるから」
アリスは穏やかに、けれど芯の通った声で言った。
灯火の揺らめきが横顔を照らし、蒼い瞳の奥に宿る決意をよりいっそう際立たせる。
光窓の向こうで、クラリスが小さく微笑んだ。
灰青の瞳がわずかに細まり、研究者としての鋭さが滲む。
『じゃあ、聞かせてもらおうかしら。表面的な感想じゃなくて、事実と数値、主観の揺らぎまで全部ね。あなたが何を見て、何を感じたのか、それが一番大事なの』
落ち着いた声音だが、その奥には真剣さがあった。
レイラも腕を組んだまま、低く言い放つ。
『……内容次第では、私もフィールドに出る。机上の解析では足りないと判断したら、直接確認する。それだけの価値がある報告であってほしい』
二人の視線が、同時にアリスへ注がれる。
そこには軽い雑談の気配はない。
真摯に「報告を求める」圧が、静かに、しかし確実に存在していた。
アリスは自然と背筋を正した。
深呼吸をひとつ。
胸の奥で、第三層の空気がよみがえる。
端末の脇に置いてあった記録端末を、両手で慎重に取り上げる。
「ええ、順を追って説明するわ。まず――第一層の東側通路で確認した、未記録の石造扉から」
淡い魔力光が記録端末に走る。
青白い術式線が空中に広がり、ダンジョン内部の映像が立体的に浮かび上がった。
石壁。
湿気を帯びた空気。
苔むした床。
その奥に、異質な存在感を放つ巨大な石造扉。
クラリスは瞬時に眼鏡を押し上げる。
『意匠が違う……周囲の石積みより新しい。封印系統の残滓もあるわね。術式は半ば休眠状態』
レイラはわずかに目を細めた。
『扉前での索敵は? 魔力反応の揺らぎはあったか』
「微弱だけどあった。周期性は不規則。自然崩落由来じゃない。意図的な干渉の痕跡」
アリスの指先が映像を操作する。
場面が切り替わる。
石扉が開いた直後の映像。
暗闇の中、牙を剥いた魔獣が跳び出す瞬間。
「ここからが戦闘。三体同時出現。うち一体は変異個体」
映像が加速する。
魔獣の咆哮。
地を蹴る衝撃。
砂塵が舞い、視界が揺れる。
アリスの声は冷静だが、わずかに熱を帯びる。
「ラースが前衛で受け止め、リゼットが側面制圧。私は中央制御、ミレーネが後方支援、ザックが解析。連携は崩れてない」
魔獣の爪が石床を抉る。
火花が散る。
「変異個体は皮膚硬化型。通常魔弾が弾かれた。そこで――」
映像がスローになる。
アリスが新型ライフルを構える瞬間。
魔力収束。
干渉波形が青白く収束し、発射。
閃光。
衝撃波。
硬化皮膚が裂け、魔獣が咆哮を上げて崩れ落ちる。
クラリスの瞳が鋭くなる。
『干渉成功率、かなり高いわね……反動は?』
「右肩に負荷。許容範囲内。反動制御は優秀。ただし、長時間連射は非推奨」
レイラが短く頷く。
『暴発兆候は?』
「なし。波形安定」
映像がさらに進む。
地下崩落。
床が砕け、六人の身体が闇へ落ちる瞬間。
「ここが一番危なかった」
重力の消失。
視界が反転する。
耳鳴り。
「咄嗟に結界展開。EVA-Xの応答が間に合った」
光の膜が展開し、瓦礫が弾かれる。
落下衝撃が緩和され、地面に着地。
クラリスが小さく息を吸う。
『応答遅延ゼロ……理論値通り』
映像はさらに奥へ。
地下遺構。
石像群。
巨大な空間に立ち並ぶ像。
その中の一体――女性像が拡大される。
静寂。
「これが……リディア様と推測した像」
クラリスの呼吸が止まる。
レイラの視線が鋭くなる。
『魔力残滓、確認できる?』
「ほぼゼロ。でも……存在感がある。言葉にしづらいけど、“見られている”感覚があった」
沈黙。
アリスはゆっくりと続ける。
「第三層までの経緯は以上。未踏域に近づいている可能性が高い。石像の存在は、時間軸干渉か封印構造の再起動を示唆しているかもしれない」
光窓の向こう。
クラリスは深く考え込み、レイラは静かに目を閉じる。
そして。
アリスは、仲間と共に歩んだ第三層までの詳細な戦闘と発見の経緯を、ひとつも漏らさぬよう語り始めた。
【お知らせ】
ep.399より、第十一部第三章が開始となります。
次話、ep.400からは夜18時の更新を取りやめ、以後は毎朝7:30の1回投稿へ変更となります。
※ep.400より更新時間が変更となります。




