第十一部 第一章 第4話
班登録を終え、アリスが受付台から離れようとしたそのとき――。
「……アリス・グレイスラー」
低く響く声が講堂のざわめきの中でもはっきりと彼女の名を呼び止め、足が止まり心臓がわずかに強く打つのを感じながらアリスは振り返る。
壇上脇の影から現れたのは黒い教官用ローブを纏った長身の男性――ギルベルト教官だった。
周囲の学院生たちが無意識のうちに背筋を伸ばし、その威圧感は言葉を必要とせず、靴音が硬い床に規則正しく響くたび空気がさらに張り詰めていく。
至近に立ったギルベルト教官は他の学院生に聞かれぬよう声を落とす。
「一時間後、第二棟の教官室C区へ。君の班、六人全員で来るように。……時間厳守だ。遅延は許さん」
短い言葉の響きには抗う余地のない圧力とわずかな切迫が混じっており、アリスは一瞬問い返そうとする。
「教官、それは――」
だが言葉が終わる前にギルベルトは踵を返し、人波の奥へと静かに姿を消していく。
「……全員、で?」
残されたアリスは小さく眉をひそめ、胸の奥に細い緊張が走る。
理由は告げられていないが六人全員を名指しで呼ぶそれは単なる注意喚起ではない。
アリスは深く息を吸い、そして吐く。
迷っている時間はない。
班員たちのもとへと足を速めると、視線が一斉に自分へ集まる。
その瞬間にはすでに決意は固まっていた。
講堂の一角で六人が輪を作る。
「……というわけで、ギルベルト教官から“私たち六人全員で来るように”って言われたの。時間は一時間後、第二棟の教官室C区、遅れるなって」
低くしかしはっきりと告げると一瞬だけ空気が凍る。
「なんだって全員なんだ?」
ラースが腕を組んだまま眉をひそめる。
「演習の説明ならここで済むだろ。わざわざ呼び出すってことは特別扱いか問題発生かそのどっちかだ。……まさか登録直後に解散命令なんてオチはねぇよな」
「直接呼び出すってことは通常連絡じゃないでしょうね」
レティアが冷静に分析する。
「六人全員という指定、つまり班単位で伝える内容、個人評価ではない。編成に関わる何かか、あるいは……」
一拍置く。
「特別任務の詳細か」
ミレーネが胸の前で手を組む。
「さっき壇上で触れられていた“高難度任務”のことかしら。もし深層固定任務なら補給や転移制限の説明も必要になるわ、命に直結する内容よ」
「可能性は高い」
ザックが眼鏡を押し上げる。
「書面で済ませない理由は機密性かあるいは不確定要素の多さだ。口頭伝達の方が調整が効く、班全体に共有すべき内容なら妥当だ」
リゼットが短く言い切る。
「……なら行くべき、内容が危険であるほど事前情報は多い方がいい」
その端的な声が場を再び引き締め、アリスは皆を見渡す。
それぞれの瞳に浮かぶのは緊張だが逃げの色はない。
「そうね、今ここで想像しても結論は出ない、まずは話を聞く。危険が増すなら対策を立てるだけよ、私たちはもう六人で動く班なんだから」
力強く言い切る。
「どんな内容でも私たちは六人で受ける、それでいい?」
ラースが小さく笑う。
「最初からそのつもりだ。どうせ深層だろうが罠だろうがやることは変わらねぇ、前に出て斬る、それだけだ」
ミレーネが柔らかく頷く。
「防壁は任せて、無茶はさせないわ」
ザックが淡々と続ける。
「情報整理は僕がやる、聞き漏らしはないようにする」
リゼットが静かに言う。
「魔力反応の違和感があれば即時共有する」
レティアが穏やかに締める。
「なら問題ないわ、行きましょう」
緊張が少しだけ和らぐ。
「しゃあねぇな」
ラースが肩をすくめ、ミレーネは安堵の微笑みを浮かべ、小さな動作一つひとつに覚悟が宿る。
一時間後に待つものが何であれ深層任務か機密指定かあるいは想定外の危険か、共に向かう覚悟は揺るがなかった。
一時間後。
学院演習棟の第二棟――その東側廊下を、アリスたち六人は足並みを揃えて歩いていた。
廊下は昼間であるにもかかわらず薄暗く、等間隔に並ぶ魔導照明が淡い青白い光を投げかけ、石壁に冷たい陰影を刻んでいる。
磨かれた石床は硬質な光を反射し、靴底が触れるたびに乾いた音が規則正しく響いた。
講堂のざわめきはまるで遠い別世界の出来事のように消え失せ、ここにあるのは静寂と冷ややかな緊張だけだった。
誰も言葉を発さないが、足取りに迷いはなかった。
ラースは顎を引き肩に力を込め、その指先は無意識のうちに剣帯へと触れていた。
ミレーネは胸の前でそっと手を組み呼吸を整え、ザックは視線を伏せ理論と仮説を頭の中で組み立てる。
リゼットは細く息を吐き魔力感知の感覚をわずかに広げながら廊下の揺らぎを確かめ、レティアは静かに歩調を合わせつつ何度もアリスの横顔を横目に見やる。
その蒼い瞳は穏やかでありながら決意を帯びている。
アリスは胸の奥で思う、これから何を知らされるのかと。
やがて指定された扉の前にたどり着いた。
その扉の金属板には「教官室・C区」と刻まれている。
アリスはノックの前に一呼吸置き汗ばむ掌を握りながら仲間たちを一瞥する。
そして。
「失礼します。《グレイスラー班》六名、指示に従い参りました」
すぐに中から低く通る声が返る。
「入れ」
扉を押し開けるとそこには分厚い机の奥で腕を組み椅子に腰かけるギルベルト教官がいて、その視線はまっすぐに六人を射抜く。
扉が閉じられ重い音が静寂に吸い込まれ、教官室には張り詰めた沈黙が戻る。
窓からの光が六人の輪郭を鋭く浮かび上がらせていた。
ギルベルトは腕を組んだまま告げる。
「よく来た。《グレイスラー班》。正式に、王国軍および学院合同の特別任務を通達する」
空気が凍るような錯覚が起こり肌を刺すような緊張が走り、六人は自然と姿勢を正す。
ギルベルトが魔導板を操作し、浮かび上がるダンジョン構造と二十階層に安全地帯や既知領域が表示される。
だが二十階層のさらに下には赤い縁取りで囲まれた不自然な構造が存在していた。
「これが今回の目的地だ」
赤い印が脈打ち地下が呼吸するように明滅する。
「……階層外、ですか」
ミレーネが小さく呟く。
「正確には未確認深層区画。《深層領域仮称:第X階層》」
ギルベルトの声が重なる。
「理論上は数年前から推測されていたが魔力干渉が強すぎて観測不能だった。最近になり地下魔力濃度に不規則な揺らぎが発生している」
投影図の一部が乱れ魔力波形が跳ねる。
「放置すれば地脈そのものへ干渉しかねん。最悪、周辺階層が崩落する可能性もある」
ラースが低く息を吐く。
「崩落ってのは上から全部落ちるって意味か」
「そうだ。圧壊。魔力爆縮。連鎖災害」
淡々と告げられる言葉が重い。
「学院と王国はこれを“魔力災害予兆区画”と判断した。早急な調査班を派遣する」
アリスが問う。
「それを私たちに?」
「君たちは観測調査班・特別枠として指名された。通常演習ではない。結果は軍記録と学院記録の両方に残る。これは模擬ではなく本番だ」
沈黙。
「装備支援と探索優先権を与える。ただし救援は遅れる。深層干渉域では転移誤差が発生する可能性が高い。戻れなくなる危険もある」
ザックが静かに問う。
「観測のみが第一目的。制圧ではない。……そうですね?」
「その通りだ。存在確認と記録持ち帰りが最優先。深層が実在する証拠を得よ」
レティアが静かに言う。
「だから覚悟がある者だけ、と」
「そうだ。期待もある。懸念もある。だが推薦は覆らなかった。それが君たちの評価だ」
ギルベルトは引き出しを開けると封印術式が淡く輝く青銀の紋章が刻まれた魔導封筒を取り出し、それを机上に滑らせる。
「任務指示書および軍事局通行許可証。実質軍務だ。上層部が監視している。軽率は許されん」
アリスは両手で受け取り、その魔導封筒の重さを確かに感じる。
「了解しました。六名全員、責任をもって任務に臨みます。観測を最優先とし不要な交戦は避けます」
ギルベルトは順に見渡す。
「よし。任務開始時刻の判断は任せる。初期転移後、拠点補給を終え次第だ。各自整えておけ。以上だ。下がれ」
六人は立ち上がり一斉に礼をする。
椅子の軋む音と衣擦れが静かに重なる。
扉を閉じる直前、アリスは振り返りギルベルトの視線が揺るがないことを確かめる。
六人は教官室を後にし、その足取りには確かに先ほどまでとは違う重さが宿っていた。
扉が閉まり重い音が廊下に低く響き、木材と金属がかみ合う鈍い衝撃が静まり返った空間に長く尾を引く。
再び静寂に包まれた廊下。
先ほどまで張り詰めていた空気が、ほんのわずかに緩む。
窓のない石壁。
等間隔の魔導灯が青白い光を落とし、六人の影を長く伸ばしていた。
「……まさか、本当に“本番”になるとはな」
ラースが肩をぐるりと回し、固まった筋肉をほぐすように呟く。
関節が小さく鳴る。
「演習って言葉、あれ建前だったのね。あそこまで堂々と“模擬ではない”って言われるとは思わなかったわ」
ミレーネは眉をひそめながらも、声色は落ち着いている。
胸の前で組んだ手に、わずかに力が入っていた。
「地脈に干渉する魔力変動……あれが事実なら、確かに放置はできない。でも、地下構造が崩れれば上層も連鎖する可能性がある。想定外の戦闘が発生する確率も高いわ」
理性的な分析だが、その瞳の奥には確かな不安が宿っている。
「そもそも、あの深層って誰も観測できてなかったんだろ」
ザックが腕を組み、床へ視線を落とす。
「魔力干渉で位置特定不能。干渉強度が高すぎて観測結晶が歪む。そんな領域に踏み込むってことは、事実上、前人未踏の未開区域だ。転移誤差が起きれば座標固定も困難になる」
「……怖くはないの?」
リゼットの声は小さいが、確かに響いた。
ザックは一瞬沈黙し、眼鏡の奥で瞳を揺らす。
「怖いさ。未知は常に最悪の仮説を含んでいる。だが――だからこそ価値がある。記録できれば、それは未来の安全になる。恐怖を数値化できれば、災害は“予測可能”になる」
「ははっ、理屈っぽいな。でも嫌いじゃねぇ。怖ぇのは当たり前だ。けどな、怖いからやらねぇって言ってたら、探索者なんてやってられねぇだろ。俺たちは踏み込む側だ」
ラースが笑いながら拳を軽く握る。
その仕草が場をわずかに和らげる。
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩む。
「だからこそ、準備と判断が命取りになる」
アリスが静かに口を開く。
「未知に踏み込むなら、感情じゃなく手順で進む。無理はしない。でも躊躇もしない。必要なのは、正しく前に進む力よ」
蒼い瞳に強い光が宿る。
「私たちは“制覇”しに行くんじゃない。確認して、生きて帰る。それが最優先」
レティアが小さく微笑む。
「……アリスらしいな。でも私も同じ気持ちよ。やるべきことをやるだけ。焦らず、慢心せず、確実に」
「六人で行くって決めたんだ。今さら後戻りはねぇ。どんな魔力が暴れようが、どんな化け物が出ようが、俺は前に立つ。それだけだ」
ラースが拳を握り直し、ミレーネが頷く。
「防壁は任せて。想定外の衝撃波や魔力爆縮が起きた場合は即時展開する。地脈干渉が起きたら、まず退路確保よ」
「観測機材は三重にする。結晶が歪んだ場合に備えて手動記録も残す。通信が遮断された場合の符号も決めておくべきだ」
ザックが言い切る。
「魔力異常検知は常時展開する。揺らぎの変化を即座に共有する」
リゼットが淡々と続ける、アリスが頷く。
「よし。じゃあ準備に戻りましょう。装備再確認、触媒補充、転移安定率の再計測。班としての初任務――抜かりなく行く」
ミレーネが周囲を見渡す。
「物資の再確認をしておくわ。防壁触媒の残量も測る」
「転移装置の初期起動テストは俺が見る。誤差が出るようなら座標補正を事前に計算する」
ザックが付け加える。
レティアが静かに言う。
「全員で戻る。それだけは絶対」
六人が視線を交わす。
無言の誓いが、その場に確かに成立する。
足並みを揃え、歩き出す。
石床に響く靴音は先ほどよりも重いが、迷いはない。
冷たい廊下の空気が、今ははっきりと覚悟の温度を帯びていた。
演習という名を借りた本当の任務の幕が、いま静かに上がろうとしていた。




