第十部 第三章 第8話
そのときだった。
食堂の入口が再び開き、夜気を含んだ空気とともに数人の影が差し込む。
外の廊下の明かりを背に、ゆらりと伸びる影が床を横切り、ざわめきの中に新たな気配を落とした。
「あっ……」
アリスが思わず顔を上げる。
入ってきたのは、レティアとその班の面々――イリーナ、ヴィクトール、そしてリゼットの三人だった。
彼女たちもまた、入室と同時にふっと肩の力を抜き、漂う料理の香りに安堵を滲ませた笑顔を浮かべている。
演習を終えたばかりの疲労はまだ残っているが、それでもその表情には確かな達成感が宿っていた。
「こっち、こっち!」
アリスが立ち上がって大きく手を振る。
椅子が軽く音を立て、周囲の視線が一瞬集まる。
レティアはそれに気づき、柔らかく微笑みながら小さく頷いた。
「見つけてくれてありがとう。人が多くて少し迷ってしまったわ」
「ちょうどよかったわね。少し遅れてしまったけれど、まだ温かそうで安心したわ。匂いだけで元気が戻りそう」
レティアがテーブルを見渡しながら言う。
その声音には、演習を共に乗り越えた仲間だけが持つ柔らかな信頼が込められていた。
「おつかれ、レティア。空いてる席、ここだよ。ほら、荷物も置けるように少し詰める」
ラースがベンチを軽く引き、隣に座るよう促す。
「ありがとう、助かるわ」
レティアは優雅な所作で腰を下ろす。
「ご一緒しても?」
控えめに尋ねたのはヴィクトールだった。
彼は食堂内のざわめきを気にするように視線を巡らせつつも、声には落ち着きがある。
「もちろん、歓迎するよ。人数が増えたほうが、きっともっと賑やかになる」
ミレーネが柔らかく返す。
「遠慮なんてしないで。今日はみんな、同じ戦友だよ」
アリスが続けると、イリーナがぱっと顔をほころばせた。
「よかった、ようやく座れた……足がちょっと震えてるの、自分でもわかるくらいなの」
「それだけ全力だったってことだよ」
ラースが軽く笑う。
「ええ。演習のあとの食事は、やっぱり特別ね。空腹もあるけれど、それ以上に“終わった”って実感があるから」
リゼットが静かに言う。
テーブルに新しい椀や皿が並べられ、料理の香りが一層濃く漂う。
湯気が交じり合い、香草と焼き肉の匂いが空気を満たしていく。
仲間の輪が広がったことで、食堂のざわめきの中に一段と温かな雰囲気が生まれていった。
配膳係が新たな皿を運び、レティアたちの前にも同じく温かな夕食が並ぶ。
「うわあ、すごく美味しそう……! これ、香草の香りがすごい。見て、この焼き色!」
イリーナが目を輝かせ、両手を胸の前で組む。
「落ち着きなさい。誰も取らないわ」
ヴィクトールが穏やかにたしなめる。
「だって、三日ぶりに“安心して”食べられるのよ?」
その無邪気さに、周囲が思わず笑みをこぼす。
「三日間、よく頑張ったわね」
アリスがレティアに声をかける。
「あなたの班こそ。最後のあの連携、素晴らしかったわ。動きに迷いがなかった。あれは簡単にできるものではない」
レティアが少しだけ目を細めて返す。
「ふふ、ありがと。……でも、そっちの感知と結界支援も、すごく助かったのよ。あれがなかったら、あそこまで踏み込めなかった」
アリスは真っ直ぐに言葉を重ねる。
レティアは隣に座るリゼットへ視線を向ける。
「リゼットが頑張ってくれたの。私の指示より先に、もう準備を整えていたわ」
「……当然の役目だから。前線が安心して動けるようにするのが、私の仕事」
リゼットは小さく微笑む。
頬がほんのり赤く染まっているのを見て、イリーナが肘でつついた。
「また照れてる。ほんと、褒められると弱いんだから」
「照れていないわ」
小さく咳払いしてごまかす姿に、再び笑いが広がる。
こうして、二つの班は自然にひとつの円卓を囲むような形になった。
最初こそ互いに「お疲れさま」とねぎらい合う程度の言葉が多かったが、すぐにあちこちで会話が弾み、笑い声が混ざり合っていく。
卓上のランプが橙色の光を落とし、立ち上る湯気をやわらかく照らしていた。皿と皿が触れ合う軽やかな音、パンをちぎる小さな音、スプーンが器に触れる澄んだ響き。
それらが重なり合い、食堂の一角は小さな祝宴のような温もりに包まれていく。
「そういえば、途中の通路であの変な影犬に出くわしたでしょう? あれ、急に壁から滲み出るみたいに現れたやつ」
イリーナが身振りを交えて話し始める。
「お前らの方にも出たのか! あれ、足音しないから心臓に悪いんだよな。いきなり背後に影が伸びてきてさ」
ラースが身を乗り出す。
「ええ。でも、ヴィクトールが結界で動きを封じてくれて。ほんの一瞬だったけど、あの隙がなかったら危なかったわ」
「大げさだ。みんなが連携してくれたおかげだよ。イリーナがすぐに視界を確保してくれたし、リゼットの補助も正確だった」
ヴィクトールが肩をすくめる。
「いやいや、あの結界の展開速度は本気で助かったぞ。俺、あの時ちょっと踏み込みすぎてたからな」
ラースが苦笑すると、場の空気がまた柔らかく和んだ。
卓上には温かな料理の湯気が立ち上り、その香りとともに仲間たちの笑い声が食堂の賑わいに溶け込んでいく。
「そういえばさ、あの二日目の川沿い、途中でちょっと迷いかけたよな? あれ、今思い出しても冷や汗もんだ」
ラースが箸を持ったまま苦笑まじりに切り出す。
「ああ、あの時! わたし、てっきり左の獣道を通るって思い込んでて。リゼットが止めてくれなかったら、完全に違う斜面に出てたかも」
イリーナがぱっと目を輝かせる。
「……あの道、獣の足跡は多かったけど、明らかに“往復”の痕跡がなかったから。行き止まりか、縄張りの中心に向かう道だと思った」
リゼットはパンをちぎりながら、静かに説明する。
「そこまで見てたのか。僕は足跡の数だけ見て判断してた……方向性までは読めなかった」
ザックが珍しく目を見開く。
「足跡は量だけじゃなくて、向きと重なり方も大事よ。往復していれば、踏み固められ方が違うもの」
「なるほど……記録しておこう。次回からは往復痕も確認項目に入れる」
彼の真面目な声音に、場の空気が一瞬和らぐ。
「ふふ、ザックがそんな風に言うの、ちょっと新鮮かも。いつも自信満々って感じなのに」
アリスがくすりと笑う。
「……評価に値するものは、素直に認めるだけだ。それが効率的だ」
「なんだよ、案外いい奴じゃん」
「茶化すな」
ラースのからかいに、ザックが眉をひそめる。そのやりとりにイリーナが吹き出し、レティアまでもが堪えきれずに笑みを浮かべた。
笑いと談笑が混ざり合い、卓を囲む空気はいっそう賑やかになっていく。料理の香りと声の温もりが重なり合い、まるで長く続いていた緊張の糸を解きほぐすかのように、食堂の一角に柔らかな安堵が満ちていた。
「でも、やっぱりリゼットってすごいよね。あの状況で冷静に見極められるの、簡単じゃないよ」
ミレーネが感心したように声をかける。
「……褒められるの、あまり慣れてない」
リゼットはスープの表面を見つめながら、小さく答える。
「そこがまた可愛いのよ。自覚ないのが余計に」
イリーナがにやりと笑う。
「からかわないで」
リゼットが低く返すが、その頬はほんのり赤い。
「リゼットは昔からそうなの。良くも悪くも、真っ直ぐで、静かで、でも信頼できるの。私にとっては、なくてはならない存在よ」
レティアが柔らかく付け加える。
「……あなたは、喋りすぎ」
そっぽを向きながらも、その声音はどこか温かい。
「ふふっ、可愛い」
「ほんとだな、意外と照れ屋なんだな」
イリーナとラースが同時に笑う。
「……からかわないでって言ってる」
「いや、貴重な表情だから記録しておきたいくらいだ」
「ザック!」
アリスが笑い混じりに突っ込むと、再び卓を囲む輪が笑いに包まれた。
「いやでもほんと、皆それぞれ役に立ってたって実感あるな。誰かひとり欠けてたら、あそこは越えられなかった」
ラースが箸を置いて腕を組む。その表情は真剣さと照れ臭さが入り混じっている。
「俺なんか、アリスとイリーナが一緒に突っ込んでなきゃ、二日目のあのやつ――あれ名前なんだっけ?」
「《アース・レントグリズ》。土系の魔獣で、皮膚が岩石化してるやつね。腹部の関節部が弱点」
イリーナが即座に答える。
「よく覚えてるな」
「筆記試験の時、ああいう系の魔獣って頻出だから。名前と弱点、セットで覚えてるの。丸暗記じゃなくて、特徴と関連づけて」
胸を張るイリーナに、アリスは感心したように頷く。
「イリーナが頼りになるの、今回でよくわかったよ。前に出て戦ってもらってる間、ほんと助かった。迷いなく踏み込んでくれた」
「ありがと、アリス先輩!」
イリーナはぱっと笑顔を咲かせる。
「いい加減、先輩はやめようよ。年、一緒だよ?」
「い、や、よ。だって、アリス先輩はアリス先輩なんだもん」
からかうように笑うその返事に、周りの仲間たちが一斉に吹き出した。
「ははっ、こいつ、アリスのこと完全に慕ってるな」
「……呼称にこだわりがあるのは悪いことじゃない」
ラースの愉快そうな言葉に、ザックが珍しく口元を緩める。
「イリーナらしいわね」
レティアも微笑み、リゼットまで小さく肩を揺らして笑みをこぼした。
食堂のテーブルには、次々と笑いと会話が波紋のように広がっていく。
その輪の中心に、アリスとイリーナのやりとりが、柔らかな灯りに照らされていた。
「ところで、レティアは最後の夜営地、よくあんなに静かな場所を選んだわね。あの小川沿いの平坦地、すごく落ち着いたし、小川での水浴び最高だった」
ミレーネが感心したように言う。
思い出すように目を細め、スープの湯気越しにレティアを見る。
「ふふ、あれはちょっとした直感よ。地図と地形は頭に入っていたけれど、最後は“空気”で決めたの」
レティアは柔らかく微笑む。
「空気?」
「ええ。風が強すぎず、湿りすぎず、でも水音が絶えない場所。小川があると、動物も来るけれど、その分こちらも気配を掴みやすい。夜の音が澄んでいたから、安心できると感じたの」
さらりと言うその口調は穏やかだったが、懐かしい時間を思い出しているような温かさがあった。
「でも、昔からアリスと山歩きしてたから、どこが風を受けやすくて、どこが安全か、なんとなく分かるのよ。あの頃、ずいぶん歩いたでしょう?」
「……確かに。あのときのレティア、ちょっと“昔のレティア”だったわね。先に先に行って、振り返っては“こっちよ”って手を振ってた」
アリスが頬をかきながら言う。
レティアはくすりと笑い、わざと首を傾げる。
「じゃあ、今の私は少し変わったかしら?」
「ええ。頼れる貴族のお嬢様って感じで。立ち振る舞いも、声のかけ方も、すごく堂々としてる」
「それ、褒めてるのかしら……?」
レティアは目を細めてじっと彼女を見つめ、すぐに小さくため息をついた。
「もちろん。褒め言葉以外のなにものでもないよ。昔のレティアも好きだけど、今のレティアはもっと誇らしい」
アリスがにっこり笑うと、テーブルのあちこちから笑いが漏れる。
「確かに、最後の夜営地は快適だったな。地面も柔らかすぎず硬すぎず、寝心地よかったし」
ラースが腕を組んで頷く。
「風の流れ、湿度、地面の安定度……すべて条件に適していた。偶然とは思えない選択だった。夜間警戒の視界も確保できていたし」
ザックが眼鏡を押し上げながら口を添える。
「ふふ……さすが分析屋ね。そこまで細かく見ていたの?」
「見るさ。良い選択は、次に活かすべきだから」
「やっぱり、いい班ね。皆それぞれ違うのに、こうして一緒にいると、すごく安心する。強さの形が、ちゃんと噛み合ってる感じがするの」
ミレーネが小さく笑みをこぼす。
その言葉に、誰も反論せず、自然に笑みが広がった。
そして――リゼットが、パンをちぎりながら小さく呟く。
「……安心できる時間って、大事。気を張り続けてると、心が先に疲れるから」
その静かな一言に、テーブルの輪は一瞬だけ静まる。
次いで、温かな笑顔がまた広がっていった。
「そうだな。張り詰めっぱなしじゃ、剣も鈍る」
「心もね」
イリーナが頷く。
「……今日みたいな時間があるから、また頑張れるのよ」
レティアが穏やかに言う。
言葉の端々に、信頼と絆が滲んでいる。
演習という名の厳しい三日間を共に過ごした仲間たちが、今、こうして肩を並べて笑い合っている。
そのことが、なによりも尊く思えた。
――そして、夜は少しずつ更けていく。
食堂の窓の外には、夜の帳が静かに降り始めていた。
橙色の灯りが窓硝子に映り、外の闇と内の温もりがやわらかく溶け合う。
遠くの森では虫の声が涼やかに響き、星々がひとつ、またひとつと瞬きを増していく。
食堂の灯りに照らされた仲間たちの笑顔は、日中の疲れを忘れさせるほど穏やかで、温かな空気に包まれていた。
明日になればまた、新しい一日が始まる。
けれど――今この瞬間だけは、戦いも不安も忘れ、互いの存在を確かめ合える静かな時間が流れていた。




