第十部 第三章 第7話
夕暮れの廊下でしばし談笑した後、ミレーネとは一旦別れて自室へ戻った。
廊下に残る橙色の残光が扉の縁を淡く染め、部屋の中にも柔らかな影を落としている。
アリスは軽く汗を流して身を整えると、学院の支給服ではなく、薄手のカーディガンに膝丈のスカートという私服に着替えた。
白を基調としたカーディガンは柔らかさを引き立て、淡い色合いのスカートは歩くたびに軽やかに揺れる。
戦闘時の硬質な雰囲気とは違い、少女らしい穏やかな空気が彼女の仕草に漂っていた。
鏡の前でくるりと一度回り、髪を整え直す。
蒼の瞳に映るのは、剣を携えた探索者ではなく、ただの十七歳の少女。
「よし……これで気分も切り替えられるかな。戦闘モードは完全終了。今日は、のんびりモード」
鏡に映る自分にそう呟いてから、アリスは小さく笑い、扉を開けた。
廊下に出ると、ちょうどミレーネがやってきた。
彼女も私服に着替えており、落ち着いた色合いのワンピースが夕暮れの光にやさしく映えている。
「アリス、待ってたわ。一緒に夕食に行きましょう。今日はちゃんと食べないと、明日響くわよ」
「うん、ありがとう。ちょうどお腹が空いてたところ。さっきまでは眠気が勝ってたけど、今はちゃんと空腹感じてる」
「それは良い兆候ね。回復してる証拠」
ふたりは並んで食堂へ向かう。
廊下の窓から差し込む最後の夕陽が、床に細長い光の帯を描いていた。
石造りの壁に反射した光が、二人の影を寄り添うように並べる。
「今日の夕食、何かしらね。演習明けだから、少し豪華だったりして」
「さっき厨房の前を通ったとき、ロースト系の香りがしたから……肉料理だと思うわ。香草とバターの匂いがしてた」
「ふふ、それなら嬉しいかも。三日間走り回った分、ちゃんと栄養補給しないと」
「あなた、さっきまで“動きたくない”って言ってた人よね?」
「それはそれ、これはこれ。食欲は別枠」
ミレーネがくすっと笑い、アリスもつられて笑う。
「そういえば、レティアたちはもう来てるのかな」
「たぶん先に席を取ってるんじゃないかしら。イリーナはきっと賑やかに話してるわね」
「想像できる……」
やがて、食堂の扉が見えてきた。
夕暮れの光が斜めに差し込み、扉の隙間からは温かな灯りと人々の談笑が漏れ出している。
器の触れ合う音や笑い声が重なり合い、明るい空気が外まで漂っていた。
焼いた肉の香ばしい匂いと、スープの優しい香りが混じり合い、空腹を刺激する。
「……賑やかそうね。なんだか、ちょっと安心する」
「皆、演習を終えてホッとしてるのよ。私たちと同じように。緊張が解けると、こんなにも声って明るくなるのね」
アリスは小さく頷き、扉の取っ手に手をかけた。
その表情には、疲れの中にも満ち足りた安堵が浮かんでいる。
――明日はまた、動き出す日だけれど。
今日くらいは、のんびりしてもいい。
そんな思いを胸に抱きながら、アリスはゆっくりと食堂の扉を開けた。
扉を開けると、柔らかな灯りに包まれた食堂の空間が広がった。
木目の床と梁の走る天井は、夕陽の残光とランプの橙色が混ざり合い、まるで炉辺にいるかのような落ち着いた雰囲気を醸し出している。
壁際には観葉の鉢植えや簡素な布飾りが掛けられ、殺風景になりがちな広間に温かみを添えていた。
長テーブルがいくつも並び、すでに何組かの班が食事を始めている。
皿が触れ合う軽快な音、椅子を引く軋み、笑い声の断片――それらが折り重なって、活気あるざわめきとなっていた。
香草と肉の焼ける匂いが鼻腔をくすぐり、湯気の立つスープの優しい香りがそれに重なる。
ぐぅ、と小さく鳴った腹の音を、アリスは思わず咳払いでごまかした。
「こっちだよ、アリス、ミレーネ!」
手を挙げて合図してきたのはラースだった。
背筋を伸ばして座るその姿は、いつもの頼もしさを漂わせながらも、どこか気が緩んでいる。
隣にはザックの姿もあり、既に席を取って待っていたようだった。
「遅かったじゃないか。もう冷めちゃうかと思ったぞ。……まあ、まだ出てないけどな」
ラースの言葉は責めるというより、半分は冗談めいている。
「ふふ、ごめんね。ちょっと準備に手間取っちゃって。ほら、今日はちゃんと“私服”だから」
アリスが軽くスカートの裾を摘まむと、ラースは一瞬目を瞬かせた。
「お、おう……なんか、雰囲気違うな」
「褒め言葉として受け取っておくね」
「気にするなよ。ちょうど良かった、これからメインが出るところだ」
ザックが眼鏡を押し上げながら淡々と告げる。
「それにしても、いい匂いだな……これは当たりかも」
ラースが鼻を鳴らして笑うと、ミレーネも思わず頷いた。
「さっきからずっと、香草の匂いがしてたものね。期待していいと思うわ」
ちょうどその時、配膳係の学院生が順に料理を運んでくる。
白い陶器の皿に盛られたのは、こんがりと焼き色のついたローストチキンに、香草を散らした付け合わせの野菜。
隣には湯気の立つ濃厚なスープと、まだ温かい丸パンが添えられていた。
アリスたちの前にも、温かな食事が次々と並べられていく。
「わぁ……おいしそう! 見た目からして、もう優勝なんだけど」
アリスが思わず目を輝かせると、ラースが得意げに腕を組んだ。
「だろ? 匂いを嗅いだ時から期待してたんだ。これは絶対うまい」
「ラースの勘、食べ物に関しては妙に当たるよね」
「失礼だな。“に関しては”はいらないだろ」
彼らの笑い声がまたひとつ、食堂の賑わいに溶け込んでいった。
香草で焼いた鶏肉のロースト、じゃがいもと根菜のグリル、きのこたっぷりのスープ、そしてふっくら焼きあがった小麦パン。
どれも、演習後の体にしみわたるような、滋養のある料理だった。
皿から立ちのぼる湯気に香草と肉汁の香りが混ざり合い、鼻腔をくすぐる。
「このスープ……すごく優しい味。胃に染みる……。体がほっとする」
ミレーネが感嘆の息を漏らし、頬を緩める。
「演習明けの身体に合わせてるのかもね。こういう気配り、地味に嬉しいな」
アリスもスプーンを口に運びながら、ほっとした表情を浮かべた。
肩の力が抜けるのを自分でも感じ、思わず小さく笑みがこぼれる。
「……なあ」
ふと、ラースが声を落とすように言った。
「三日間、いろいろあったけどさ。こうして、四人で一緒に飯を食ってると――やっぱ、悪くなかったなって思うよ。きつかったけど、無駄じゃなかった」
その言葉に、全員の手が止まる。
パンをちぎろうとしていたミレーネは小さく目を見開き、アリスはスプーンを皿に置いたままラースを見つめた。
ザックもまた、眼鏡の奥で静かに瞬きをして、仲間の顔を順番に見回す。
わずかな沈黙。
だが、それは重苦しいものではなく、互いの心にじんわり広がる温かさを確かめるための静けさだった。
「……そうね。私も、同じ気持ち。怖い瞬間もあったけれど、こうして笑えているなら、きっと意味はあったわ」
ミレーネが微笑んで、そっと言葉を添える。
「ふふ……ラースらしいね。言い方はぶっきらぼうだけど、ちゃんと大事なこと言ってる」
アリスも頬をゆるめ、照れくさそうに笑った。
「でも、わかるよ。その感じ。大変だったけど……みんながいたから、頑張れた。ひとりじゃ、きっとあそこまで動けなかった」
「……ま、言葉にするのはちょっと気恥ずかしいけどな」
ラースは頭をかき、耳の先が赤くなっていた。
その様子に、ザックがくすりと笑いを漏らす。
「そういう正直さ、嫌いじゃないよ。僕も同感だ。数値的にも、精神的にも、今回の演習は有意義だった。……君たちとだったから、だろうけど」
四人の間に、温かな笑い声が広がった。
食堂の賑わいの中、その輪は小さくも確かな灯のように輝いている。
静かに、それぞれがうなずいた。
ラースの言葉は大げさではなかったが、胸の奥にしっかり響くものがあった。
「うん。大変だったけど、皆で乗り越えられたのは、すごく大きなことだと思う。これから先の、ちゃんとした土台になった気がする」
アリスがまっすぐに言葉を返す。
スープの湯気越しに見えるその瞳は、どこか誇らしげだった。
「私も……あの連携戦、きっとこれからの力になる気がする。あの瞬間、ちゃんと繋がれたって思えたから」
ミレーネが頬に手を添え、思い返すように微笑む。
その声には安堵と確信が込められていた。
ザックは黙ったままパンをちぎり、少し視線を落としてから低く呟いた。
「……分析値としても、十分に成果は出ていた。班の動きは、以前より確実に改善されていた。主観だけではなく、客観的にも、だ」
淡々とした言い方ではあったが、その眼差しは優しい。
数字や記録の裏にある仲間たちの努力を、彼なりにしっかり見ていたのだ。
テーブルの上に置かれた料理の温もりと同じように、四人の間にも確かな温かさが広がっていく。
短い沈黙さえ、心地よい余韻として続いていた。
そしてまた、にぎやかな会話が始まる。
温かな灯りの下、皿の上の湯気がゆらりと揺れ、笑い声が小さな波のように広がっていった。
ラースが戦闘中に見せた奇妙な転び方を思い出され、話題の中心になる。
「いやいや、あれはどう見ても派手に転んでたでしょ。しかも前のめりで、剣がくるんって回って」
アリスがパンをちぎりながらくすくす笑う。
「ほんと、あの場面でよく立て直せたわよね。剣は飛ばすし、敵も呆気に取られてたし。あれ、ある意味すごい才能よ」
ミレーネも肩を揺らして頷く。
「お、おい……! そこまで言うなよ! あれはだな、わざと体勢を崩して相手の注意を引いたんだ。戦術だ、戦術!」
「戦術って言うには、顔が本気で焦ってたよ?」
「それは演技だ!」
ラースが慌てて手を振ると、テーブルに笑いが広がる。
「でもさ、あの後の切り返しは本当に見事だったよ。転んだ直後にあそこまで持ち直せるのは、簡単じゃない」
アリスが少し真面目な声で付け加えると、ラースは一瞬言葉を失い、そっと視線を逸らした。
「……まあな。転んだままじゃ、格好つかねぇし」
その照れ隠しに、また小さな笑いが弾ける。
今度はザックが無意識に独り言をつぶやいていたことが話題になる。
「そういえば、あの時……“角度七度修正、重心二センチ前方”とかなんとか、ずっと呟いてたよね。敵より先に味方が混乱してたかも」
ミレーネが思い出しながら笑う。
「……解析に必要な思考過程だ。ただの独り言とは違う。口に出すことで整理しているだけだ」
ザックは眼鏡を押し上げ、頬をわずかに染める。
「でもさ、あれ聞いてると、なんか呪文みたいだったよ。“七度修正”って」
「敵が一瞬止まってたの、あれザックのせいかもしれないね」
アリスが冗談めかして言うと、ザックは目を細め、わざとらしくため息をついた。
「……まったく、君たちは観察が細かすぎる。僕はただ、最適解を探していただけだ」
「それを声に出しちゃうのがザックらしいんだけどね」
その不器用な返しに、またテーブルが笑いに包まれる。
ミレーネは笑いながらも、周囲の皿にそっと目をやる。
「冷めちゃう前に食べてね。スープ、今が一番美味しいから。きのこ、たっぷり入ってるわよ」
「うん、ありがと。ほんとだ、これうまい」
ラースが素直に頷いてスプーンを口に運ぶ。
気づけば皆、彼女の言葉につられてまた手を伸ばしていた。
そんな中、アリスはパンを割ってスープに浸し、夢中で口に運んでいたが――うっかりスプーンを落としてしまった。
「わっ……!」
軽い音が響き、アリスは慌てて拾い上げ、照れ笑いを浮かべる。
「ご、ごめん……! つい手が滑っちゃって。なんか、まだ少し力加減が戻ってないかも」
「ふふ、大丈夫。今日のアリスは、戦場よりリラックスしてるみたいね」
ミレーネが優しく笑う。
「おいおい、戦闘より食事でスリップするなんて、新しい戦術か? “食堂転倒戦法”ってか?」
「やめてよ、その言い方! そんな戦術、採用しないから!」
アリスが頬を赤らめると、また小さな笑い声が弾けた。
何でもないやりとり。
けれど、それが妙に心に残る。
笑い声、食器の触れ合う音、香ばしい料理の匂い。
そのすべてが、彼らの「今この瞬間」を確かに刻んでいく。
「……こうしてると、本当に演習が終わったんだって実感するな」
ラースがしみじみと呟く。
「うん。やっと、普通に“ごはんがおいしい”って思える。森の中じゃ、味わう余裕なかったもん」
アリスが頷く。
「記録としてだけじゃなく、心に残る時間だった……そう思うよ。数値には残らないけれど、確実に意味はあった」
ザックが静かに言葉を添える。
――それぞれの皿が空になっていく頃には、
疲労も緊張も、少しずつほどけて、ただ温かい気持ちだけが残っていた。




