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第十部 第三章 第6話

 翌日は、学院によって設けられた休養日だった。


 王立魔導学院の実地演習用滞在施設は、前日の帰還でいったん活気を取り戻したあと、今日はどこか落ち着いた静けさに包まれている。

 石造りの外壁に朝日が淡く反射し、芝生にはまだ夜露がきらりと残っていた。


 早朝、施設の外に広がる森からは鳥のさえずりが響く。

 窓を開ければ、ひんやりと澄んだ空気が頬を撫で、ほのかに湿った木々の匂いが部屋の中へ流れ込んでくる。

 廊下や中庭には、訓練から解放された学生たちの、束の間の安堵を含んだ声が散発的に響いていた。


 食堂では焼きたてのパンと温かなスープの香りが漂い、普段なら急ぎ足で通り過ぎる学院生たちも、今日は席に腰を落ち着け、ゆったりとした会話を交わしている。

 カップが触れ合う小さな音、椅子を引く柔らかな擦過音、穏やかな笑い声。

 演習中の緊張は、確かに解けていた。


 廊下を歩けば、どこか緩んだ笑みを浮かべる仲間の姿が目に入る。

 演習中は張り詰めていた肩の力を抜き、互いに冗談を飛ばし合ったり、昨日の出来事を反芻して語り合ったりする声が、扉越しに聞こえてきた。

 広間ではカード遊びに興じる者もいて、軽い笑い声が時折廊下へ漏れ出す。


 しかし、そんな和やかな空気の中で――アリスはその日一日、ほとんどの時間を自室で過ごしていた。


「……ん~……動きたくない……ほんとに、指一本も動かしたくない……」


 広めのベッドに大の字に寝転びながら、アリスはのろのろと枕を抱きしめる。

 長い金髪は無造作にほどけて肩に散らばり、演習中の凛々しさは見る影もない。

 寝間着の裾も少し乱れ、ベッドの上には昨夜脱ぎかけの外套が放り出されたままだった。

 窓から差し込む柔らかな光が、その緩やかな空間をいっそう心地よく彩っている。


「走っただけで、ほとんど戦ってないのに……なんで筋肉痛……? 体力なさすぎ? わたし、総合一位じゃなかったの……?」


 小さく呻きながら、腕をだらりと垂らす。

 手がベッドの端から落ち、床に置いてあったぬいぐるみの耳をかすかに掴んだ。


「うぅ……いたた……これはきっと、地味に積み重なったやつ……三日分まとめてきたやつ……」


 食堂に足を運んだのは、朝食と昼食のときだけだった。

 それも、支給されたパンとスープを半分眠そうな目で食べ終えると、誰とも話さずにすぐ部屋へ戻ってきている。


「味は……うん、美味しかった。焼きたてだったし、スープも優しかった。でも……眠気には勝てない……」


 スプーンを持つ手が何度か止まり、あくびを噛み殺しながら食事をする自分を思い出して、アリスは苦笑する。


「レティア、たぶん声かけようとしてたよね……ごめん……今日はほんとに省エネモードなの……」


 机の上に置かれた魔導端末を手に取ると、演習中に撮られた風景や、班で撮った記念の集合写真が表示された。

 画面の中には、夕焼けを背に並ぶ仲間たちの姿。

 笑顔と、少しの照れと、誇らしさ。


「……あ、これ。リゼットが笑ってるやつ。珍しい……ちゃんと口元、上がってる」


 画面を指先でなぞり、映る仲間たちを順に眺める。


「ラース、やっぱりちょっと誇らしげ。ミレーネ、なんでそんなにきれいに写ってるの……? ザック、真面目な顔してるけど、たぶん内心ちょっと嬉しいよね」


 仲間の笑顔と静かな夜の星空。

 リゼットとの語らい、レティアとの冗談、ザックとの視線のやりとり。


 (……楽しかったな)


 胸の奥に温かい余韻が広がり、アリスはしばし言葉を失う。


「でも……今日は何もしないって決めたんだもん。ほんとに、何も。決定事項。わたしが決めた」


 自分に言い聞かせるように呟き、端末を枕元に置くと、ベッドの上で毛布をくるりと抱きしめる。


「魔力制御の訓練も、報告書の整理も、戦術ノートの書き直しも……いったん忘れて……忘却の彼方へ……」


 声を潜めながら、少し恥ずかしそうに笑う。


「頑張った自分への……ご褒美の日、だから。うん、これは必要な休養。戦略的休息」


 ごろりと寝返りを打ち、ぬいぐるみのように丸めた毛布に顔を埋める。

 鼻先にほのかな布の香りが広がり、さらに気持ちが緩んだ。


「……いい匂い……安心する……」


 窓の外からは、仲間たちの笑い声や、食堂から漂うスープの匂いがかすかに届いてくる。


「……いいなぁ。楽しそう……カードとか、やってるのかな。でも、今日はいいや……ほんとに、今日は」


 目を細めながら呟き、薄暗いカーテンの隙間から差す光を見上げる。


「明日からまた、きっと忙しくなるしね……きっと、すぐ次の課題が来る。演習の総括とか、講評とか……」


 小さな声は部屋の静けさに溶けていく。


「だから、今日は……何もしない勇気。うん……それも、大事……」


 まぶたが少しずつ重くなり、呼吸がゆるやかに整っていく。


 日が傾くまで、アリスはそんなふうに、ただのんびりと――“普通の女の子”としての時間を過ごしていた。




 日が少し傾き始めた頃。

 窓の外では西日が森の梢を橙に染め、滞在施設の石壁に長い影を落としていた。

 室内には柔らかな夕陽が差し込み、薄いカーテン越しに揺れる光が、静かな部屋の空気をゆっくりと温めている。


 扉の向こうから――控えめなノック音が響いた。


「……アリス? 起きてる?」


 どこか気遣うような、柔らかく澄んだ声。


「ん……ミレーネ?」


 もそもそと毛布から顔を出し、アリスはのろのろと身体を起こす。

 金髪は寝癖でふわりと跳ね、頬にはうっすらと枕の跡が残っていた。

 瞳は半分とろけたように細まり、演習中の凛とした面影はすっかり影を潜めている。


「どうぞ~……あ、部屋ちょっと散らかってるけど気にしないで……ほんとに、いま戦闘不能だから……」


 扉がそっと開かれ、ミレーネが微笑みながら顔を覗かせた。

 彼女の手には小さな木皿に載せた焼き菓子と、湯気の立ったマグカップがふたつ。

 淡い柑橘と花の香りが、ふわりと部屋に広がる。


「……やっぱり、寝てた? ノック、三回目でようやく反応あったよ」


「寝てたというか、溶けてたというか……人の形を保ってなかったかも……」


 アリスが情けない顔で肩をすくめると、ミレーネはくすくすと笑って部屋に入ってきた。


「ふふ……お疲れだもんね。はい、ハーブティー。レティアとイリーナに出したら思ったより好評で、食堂で余ってた焼き菓子も一緒に持ってきたの。甘さ控えめで、きっと今のあなたにちょうどいいわ」


「あっ……ありがと……。やっぱり、癒しのミレーネだね……いま世界で一番ありがたい存在……」


 受け取ったカップを両手で包むように持つと、ほんのり甘い香草の香りが立ちのぼり、アリスの表情が一気に緩んだ。

 蒸気が頬をかすめ、じんわりと指先まで温もりが伝わる。


 ミレーネは窓辺の椅子に腰を下ろし、そっとアリスを見つめる。

 夕陽が彼女の栗色の髪をやわらかく縁取り、その横顔に穏やかな影を落としていた。


「今日は一歩も動きたくないって顔してるね。……それも、全力で」

「図星……。動いたら筋肉痛が悪化しそうで……ほんと、笑えないレベルなんだよ」

「走り回ってたものね。戦闘より大変そうだったよ。森の中、あれだけ駆け回れば当然だよ」

「そうそう! 走っただけで、ほとんど戦ってないのに筋肉痛って……体力なさすぎ? 総合一位って看板、返却案件?」


 アリスがカップを抱えながらふてくされたように言うと、ミレーネは優しく微笑んで肩を揺らした。


「でも、それだけ頑張ったってことだよ。前に出るだけじゃなくて、後ろも見て、横も見て、全部気にしてたでしょ。……私、ちゃんと見てたから」

「……えへへ。そう言ってもらえると、ちょっと救われる。わたし、意外と単純なんだよね」


 アリスは頬をかきながら小さく笑い、毛布の上に置かれた端末に目をやる。

 そこには、先ほどまで眺めていた仲間たちとの写真がまだ表示されていた。


「ね、またみんなで撮ろうよ。次は……全員で笑ってるやつ。今回、ちょっとだけ真面目すぎた気がする」

「うん。そうしよう。今度はもっと自然な顔で、もっと近くで。……きっと、もっといい笑顔になるよ」


 二人の間に流れる空気は、日差しのように柔らかい。

 ミレーネは少しだけ表情を引き締め、アリスを見つめた。


「この三日間、やっぱり無理してたでしょ。演習中はあんなに気を張ってたんだもの。今日くらいは、何もしないで正解よ。本当に」

「……バレてたか。うん、ちょっとだけ、気を張りすぎてたかも」


 アリスは小さく笑ってから、マグを口元に運ぶ。

 香り立つ温かな蒸気が、張りつめていた胸を少しずつ解きほぐしていく。


「でも、なんか気が抜けすぎて。こういう時、どうしていいかわかんなくなるんだよね。止まるの、ちょっと怖いというか」

「大丈夫。私も午前はベッドでぐるぐるしてたから。……ただ、気になってね。あなたのこと」


 ミレーネの言葉に、アリスは目を丸くする。


「私のこと?」

「うん。昨日の報告の後……あなただけ、ちょっと遠くを見てる感じだったから。ここにいるのに、少しだけ、別の場所にいるみたいに」


 アリスは、しばし何かを考えるように黙った。

 視線は窓の向こうに流れる雲へと向けられ、唇が小さく震える。


「……きっと、あの森の中で、色々思い出しちゃったんだと思う。学院に来る前のこと、ギルドでのこと、……あと、信じるって、どういうことかって」

「そっか……」


 ミレーネは静かにうなずく。

 椅子に組んだ両手を重ね、その声は一層あたたかさを帯びていた。


「でも、私は今のあなたが、いちばん好きよ。強くて、誰かのために動けて、でも自分のことを見失わないアリス。迷いながらでも前に進もうとするあなたが、私は好き」


 アリスの胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。


「だから、ちゃんと休んで。立ち止まるのも前進の一部だよ。……また明日から、一緒に進もう?」


 目尻が少し潤み、思わず笑みがこぼれる。


「……うん。ありがと、ミレーネ。わたし、ちゃんと休む。今日はちゃんと、何もしない」

「それが一番難しいんだからね。あなたにとっては」


 二人は小さく笑い合い、静かな時間の中で、ゆっくりとマグを傾けた。


 窓から差し込む夕陽が淡く部屋を染め、橙色の光が二人の横顔を照らす。

 柔らかな沈黙が続き、心の奥に溜まっていた疲れが、少しずつ、ほどけていくようだった。



 やがてアリスが、頬をかきながら小さく笑う。

 夕陽に染まった部屋の中で、その仕草はどこかいたずらっぽく、それでいて少し照れを含んでいた。


「……でもさ、こうしてのんびりお茶してるの、なんだか年寄りみたいじゃない? 縁側で日向ぼっこしてる感じというか、次は盆栽でも育て始めそう」


 冗談めいた一言に、ミレーネは目を瞬かせた後、思わず吹き出した。


「ふふっ……もう、アリスったら。そんなこと言い出すなんて、さっきまで“戦略的休息”って真顔で言ってた人と同一人物?」

「だって、なんかこう……静かすぎて。演習中の自分と別人みたいでさ」

「それはそれで、素敵な時間よ。のんびりお茶を楽しめるのは、ちゃんと頑張った証拠なんだから」


 部屋に、また柔らかな笑い声が広がる。


 窓の外では、朱に染まった空が森の向こうに沈もうとしていた。

 西の空はゆるやかな茜色から紫へと変わりつつあり、雲の端が金色に縁取られて輝いている。

 施設の窓硝子にその光が反射し、廊下の床にも淡い橙の帯が延びていた。

 光は時間とともに角度を変え、部屋の壁に長い影を描き出す。


 ふたりで飲んでいたハーブティーのカップもすでに空になり、底に残ったわずかな琥珀色が、夕陽を受けてきらりと光る。

 部屋の中にはゆったりとした余韻が漂い、木皿の上に残った焼き菓子のかけらが、どこか心地よい満腹感を象徴していた。


「……ちょっと外の空気、吸ってみない? このまま部屋にいるのも悪くないけど、せっかくの夕暮れだし」


 ミレーネがそう声をかけると、アリスは毛布を直しながら大きく伸びをする。


「うん。ずっと寝転んでたら、体が固まっちゃったし。気分転換にちょうどいいね。歩くくらいなら、筋肉痛も怒らないはず」

「たぶん、ね」


 ふたりは並んで部屋を出る。

 扉を閉めると、廊下に漂う空気はひんやりとして、昼間の熱気が抜け始めていた。

 石造りの壁には夕陽の斜光が差し込み、赤や橙のグラデーションが模様のように映し出されている。

 遠くでは、誰かが談笑しながら階段を降りていく気配がし、床板を軋ませる小さな音が静けさの中に溶け込んでいった。


 空気には夕暮れ特有の穏やかな気配が漂い、施設の廊下にも二人の靴音だけが響いている。

 規則正しい足音が石床に反響し、どこか心地よいリズムを刻んでいた。


 アリスはそのリズムを耳で追いながら、ふと窓の外に目を向ける。

 森の木々の影が長く伸び、鳥たちが最後の帰巣を急ぐ姿が見える。


「……なんだか、まだ夢の中にいるみたいね。昨日まであんなに必死だったのに、今日はこんなに静かで」


 隣を歩くミレーネにぽつりと漏らす。

 声には、非日常の余韻を手放したくないような微かな名残惜しさが混じっていた。


「わかるわ。その気持ち。現実に戻ったはずなのに、心だけまだ森の中にいるみたいな感じでしょう?」

「うん。焚き火の匂いとか、足元の土の感触とか、まだ残ってる。……ちょっと寂しい」

「でも、それは大事な記憶よ。消えないから大丈夫。次に進むときの力になる」


 ミレーネは微笑みながら頷く。

 淡い光に照らされた横顔はどこか安らぎに満ちていて、アリスの肩に自然と寄り添うようだった。


「三日間、あんなに動き回ってたのに……急に何もしない時間が来ると、不思議と落ち着かなくなるのよね。体は休みたいのに、心がまだ走ってるみたい」

「それ、わかる。止まるって、ちょっと勇気いるよね。でも、こうして歩いてるだけで、ちゃんと戻ってきてる気がする」


 二人は談笑しながら、ゆっくりと廊下を進んでいく。

 夕陽に染まる廊下の中を歩くその姿は、まるで一日の締めくくりに与えられた小さなご褒美のようだった。

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