第十部 第三章 第9話
夜も更け、周囲が静けさに包まれる頃。
談笑に満ちていた食堂も灯りを落とし、施設全体が穏やかな眠りに入ろうとしていた。
窓の外では、森を渡る夜風が葉を揺らし、かすかな虫の声が一定の調子で響いている。
廊下の足音も途絶え、遠くで扉がひとつ閉まる音がして、それきり静寂が広がった。
アリスは支給された簡易ベッドに腰を下ろし、毛布を膝に掛けながら、小型の銀色の機械――携帯式魔導通信機をそっと取り出した。
掌に収まるほどの大きさ。表面には細かな紋様のように魔力回路が刻まれ、触れると微かに温もりを帯びる。
久しぶりに電源を入れると、淡い光が魔力回路に沿って浮かび上がり、細い線のような高音が静かに耳をくすぐる。
薄闇の中で輝くその光は、まるで夜空の星を閉じ込めたかのように頼もしく思えた。
「……応答、クラリス、レイラ。こちらアリス。通信、つなぐわよ」
深呼吸をひとつ挟み、静かに呼びかける。
声は小さく、それでも確かな想いを込めて。
数秒の静寂。
魔力回路が共鳴するかすかな振動。
最初に返ってきたのは、柔らかく澄んだ声だった。
『こちらクラリス。接続確認、良好。ミラージュ側、問題なし。……あら、珍しいわね、あなたの方から通信だなんて。どうしたの、何かあった?』
続いて、少し遅れて低く静かな声が届く。
『……レイラ、接続中。王都側、良好。雑音なし』
相変わらずぶっきらぼうな口調に、アリスは小さくくすりと笑った。
「ただ、なんとなく話したくなっただけ。三日間の演習も終わったし、久しぶりに――声が聞きたくなったのよ。無事に終わったって、ちゃんと伝えたくて」
毛布に身を包みながらそう言うアリスの表情は、演習の緊張を終えて初めて見せる、安堵と甘えの混じった柔らかいものだった。
『演習、無事に終わったのね。お疲れさま。声の調子も落ち着いているわ。大きな負傷はなさそうで安心した』
『怪我は? 報告にはなかったけど。森は油断ならない』
「うん、全員無事よ。ラースはちょっと足をくじいたけど、すぐ治ったし。ミレーネも一緒だったから、万全だったわ。打撲と擦り傷くらいで済んだの」
『それならよかったわ。あの子の回復術、確かに安定してるものね。術式の波形も綺麗だし、再発率も低い』
『……三日も森の中。よく我慢できたな。夜営は冷えただろう』
「寒かったけど、最後の夜営地は静かでね。小川の音が心地よくて……ちょっと、懐かしい感じがした」
通信の向こうで、わずかな沈黙が流れる。
『……そう』
レイラの短い返事。
けれどその奥に、確かな安堵が滲んでいた。
安心したようにクラリスが息を吐き、ふと声色を変えてため息を漏らす。
『こっちはこっちで、先週、調査隊の報告案件で散々だったわ。あなたの魔導剣の同期術式の試験結果、他部署のお偉いさんが“わかりにくい”と言って、勝手に改変させた部分を私の責任扱いにされて……書式の修正、三度目よ? 三度目! まったくあの技術局第二班の――』
『……クラリス』
レイラの落ち着いた声が、軽く制するように割り込む。
『通信先で愚痴を延々と垂れ流すのはやめろ。これは通話、報告会ではない。アリスは今、休息中だ』
『えええ……でも聞いてくれる相手、アリスしかいないのよ? 研究室の後輩たちは気を遣うし、上は話が通じないし』
『……迷惑そうにしていないからと言って、甘えるな。甘えは節度を守れ』
レイラの静かな叱責に、クラリスが子どものように「むぅ」と声を詰まらせる。
『レイラ、冷たい……』
『事実を述べただけだ』
そのやりとりがあまりにいつも通りで、アリスは思わず口元に笑みを浮かべた。
「ふふ、大丈夫よ。いつものことだし。クラリス、次の修正報告は私が代読してあげようか? “本件は設計思想に基づく合理的改訂である”って、堂々と」
『やさしい! やっぱりアリスしか勝たん! あなた、今すぐミラージュに来てくれない?』
『……調子に乗るな』
「ふたりとも、変わらないわね。声を聞くだけで、なんだか安心する」
アリスは毛布を少し引き寄せ、通信機を胸元に近づける。
淡い光が彼女の蒼い瞳をやわらかく照らしていた。
ふっと笑いがこぼれる。
そんなやりとりが交わせることが、どこか心を温かくした。
『――さて』
レイラが口調を切り替え、静かに告げた。
淡い魔導通信の光に照らされるその声色は、先ほどまでの柔らかな雰囲気とは一変していた。
低く、澄み、無駄のない響き。
『現時点では機密事項だが、事前に伝えておく。二月~三月頃、第二騎士団と第三騎士団、それに魔術師団との合同による《戦術連携合同演習》が計画されている。規模は中隊単位、場合によってはそれ以上になる』
「……《合同演習》? かなり大規模ね。学院の枠を超えるわよ、それ」
アリスは思わず息を呑む。
毛布の端を指先で握りしめたまま、通信機に視線を落とした。
『場所はミラージュ王国の国境沿いにある大草原地帯――〈アグニス平原〉。地形は広く、起伏も緩やかだ。部隊機動と連携戦術の実践に向いている。障害物も少なく、観測にも適している』
淡々とした説明。
その裏にある軍事的意図が透けて見える。
『学院からの推薦リストが既に回っている。アリス、おそらく《戦術連携特別枠》での参加だ。名指しに近い』
「私も……? ということは、レイラも?」
『私はティアナ様の護衛を兼ねる。その為、連携補佐の立場で参加する予定。表向きは指揮支援。実際は周辺監視だ。アリスは“実働側”として招集されるだろう。前線での連携実証要員だ』
「……また前に出されるのね、私。最近、そういう役回りが多すぎない?」
『慣れているだろう』
「否定できないのが悔しいわ……でも、嫌じゃないのよね。それがまた困る」
ぼやきながらも、アリスの声には不思議と嬉しそうな響きがあった。
胸の奥がじんわりと熱を帯びる。責任の重さと、同時に期待されている喜びが交錯していた。
『ちょっと、いいなぁ……私も参加できないかしら?』
唐突にクラリスが口を挟む。
『最近は技術局仕事ばっかりで、実地演習なんて全然ご無沙汰だし。机と報告書と魔導回路の解析図ばっかりよ? ちょっとぐらい混ぜてくれても――』
『無理だ』
レイラがばっさりと言い切る。
『演習そのものが機密扱いだ。他国籍者の関与は原則禁止。政治的配慮も絡む。……理解しているはずだろう、クラリス』
『……ですよねぇ。はいはい、わかってますとも』
クラリスはわざとらしく長いため息をつく。
『じゃあ、いっそ亡命しようかしら? そうすれば参加できるでしょ。書類は用意しておく?』
「ちょっ……!」
アリスは思わず吹き出し、慌てて口元を押さえた。
『……くだらない冗談を言うな』
レイラの低い声。だが、その奥にかすかな苦笑が混じっている。
『ふふ、冗談よ。でもそれぐらい羨ましいってこと。あなたが前線で活躍する姿、ちゃんと見ていたいのよ』
軽口の裏にある本音に、アリスは胸が少し温かくなる。
やがて会話は落ち着き、夜の静けさが再び通信の隙間を満たし始めた。
そして、アリスはふと視線を落とし、静かに口を開く。
「……そうだ。ひとつ、気になることがあって」
その声音に漂うわずかな硬さに、クラリスとレイラもすぐに察したようだった。
アリスは通信機を見つめたまま、ゆっくりと言葉をつなぐ。
「演習中、南東の密林地帯でね――魔力反応源が見つかったの。直接接触はしてないけど、地面が白く変質してて、周囲には岩の丘みたいなものもあった。地下に何かがあるような、そんな感じだったわ」
『……魔力瘤、あるいは封印痕かしら』
クラリスの声が僅かに低くなる。
研究者の顔に切り替わったのが、はっきりとわかる響きだった。
「ザックが結界札を使って封じてくれたけど、あの反応――妙に局所的で、しかも深層からじわじわと滲み出してるような感じだったの。
地脈の流れにしては不自然だったわ。……もしかして、あれ、“門”の前触れかもしれないって」
通信の先で、短い沈黙が落ちる。
魔導回線の微かな唸りが、かえってその緊張を強調していた。
『その位置……旧哨戒所からさらに南東。確か、かつて一度だけ、類似の魔力干渉が記録された地点ね』
クラリスが即座に思い出したように呟く。
『だが、記録上は再調査されていない。地形が変わってしまっていたとも記されていた』
レイラが淡々と補足する。
『今の反応が真であれば、再調査すべきだ。門ならば、早期の干渉と遮断が必要になる』
「演習の範囲外だったから、今回は撤収を選んだけど……個人的には、あれは無視できないと思う。もう一度、調査の依頼を出してもらえないかしら。記録だけじゃなく、現地確認を」
『もちろん。私の方からも開発局経由で動いてみるわ。観測班と共同で記録を照合する。過去データも引き出す』
『必要ならば、私も現地に向かう。単独でも構わない』
「ありがとう。……やっぱり、こうして話してよかった」
アリスは通信機越しに、静かに微笑む。
やわらかな沈黙が、三者の間に流れる。
言葉はなくとも、互いの存在が確かにそばにある。
そんな温もりが、回線越しに伝わってくるようだった。
夜の深まりと共に、それはまるで心を撫でるような優しさを帯びていた。
魔導通信機の淡い残光が、ゆっくりと回路の奥へと沈み、部屋の空気は再び静かな闇に溶けていく。
数分後――通信を終えたアリスは、静かに機器を閉じた。
小さな金属音が部屋に溶け、再び静寂が戻る。
寝台の脇にそれを丁寧に置き、指先で一度だけなぞる。
まだほんのりと残る温もりが、つい先ほどまで確かに繋がっていた証のように感じられた。
部屋の中は簡素だ。
木製の簡易ベッド、折り畳み式の机、小さな棚。
壁に掛けられた魔導灯は最小出力に落とされ、淡い光が床板の木目をぼんやりと浮かび上がらせている。
アリスは毛布を肩まで引き寄せ、それからふと思い立ったように立ち上がった。
足音を立てぬよう、静かに窓辺へと歩み寄る。
そっとカーテンを開けると、夜空には星が瞬いていた。
深く澄んだ藍色の空。
森の稜線の向こうに広がる闇の上で、無数の星が冷たい光を放っている。
遠くの森からは虫の声がかすかに響き、夜風が窓辺の布を揺らした。
そのひとつひとつが、まるで警告の灯火のように、冷たく、それでいて確かな輝きを放っている。
「……綺麗ね」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
声は夜に吸い込まれ、すぐに消えた。
胸の奥で小さく息を吸い込む。
冷たい空気が肺に満ち、ゆっくりと吐き出すと、ほんのわずかに心が澄んでいく。
「明日も、きっと忙しくなるわね。合同演習……それに、あの反応」
通信で交わした言葉が、静かに胸の奥で反芻される。
責任、期待、そして未知の気配。
「でも――」
言葉を継ぎかけて、アリスは小さく笑った。
「ひとりじゃないもの」
クラリスの軽口も、レイラの低い声も、今はもう届かない。
それでも、その存在は確かにここにある。
アリスは窓枠に軽く手を添え、しばらく星空を見つめ続けた。
蒼い瞳に、白い星の光が小さく映り込む。
――明日もまた、新しい一日が始まる。
そう思いながら、彼女はカーテンをそっと閉じ、ベッドへ戻った。
毛布に身を沈め、枕に頬を預ける。
静かな闇の中、呼吸の音だけが規則正しく響く。
そして――
彼女はそっと瞳を閉じた。




