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第十部 第三章 第3話

 だが、その穏やかな空気を割るように――。


「……“またギルドでな”って、どういう意味かしら、アリス?」


 不意に低い声が響き、場がぴんと張り詰めた。

 森を渡っていた柔らかな風が、一瞬だけ息を潜めたように弱まる。

 梢のざわめきが止み、さきほどまでの再会の余韻が、薄氷のようにひび割れた。


 振り向けば、レティアが眉間に深いしわを寄せ、するすると歩み寄ってくるところだった。

 普段は貴族らしい気品を纏い、誰に対しても穏やかで落ち着いた態度を崩さない彼女。

 だが今は違った。


 碧眼に鋭い光を宿し、わずかに震える吐息さえ熱を帯びているように見える。

 白い頬に差した紅が、怒りというよりは焦りの熱を映していた。

 まるで焚き火が再び燃え上がったかのように、彼女の周囲の空気がじりじりと熱を帯びて感じられる。


「え、ちょっと待ってレティア……そんなに構えなくてもいいから」


 アリスはその迫力に思わず吹き出し、肩を揺らす。

 冗談めかした声色とは裏腹に、半歩、また半歩と後ずさる。

 両手をひらひらと振り、まるで「降参」の合図のようにして彼女をなだめた。


「いやほんと、深い意味ないの。挨拶よ、挨拶。ほら、冒険者同士の、ああいうノリってあるでしょ?」


 顔には困惑とおかしさが半分ずつ混じり、笑みがこぼれている。

 だがその額には、うっすらと汗がにじんでいた。


「構えるでしょうよ。“ギルド”って、あなた学院の学院生でしょ? “また”って何よ、あんなに親しげに……まるで常連みたいな顔して」


 レティアの声は普段より少し早口だ。

 抑えているつもりでも、言葉の端に熱が滲む。


「私は聞いてないわよ。ギルドに出入りしているなんて。いつから? どのくらい? どんな依頼を受けていたの?」


 詰め寄る距離が、さらに縮まるるので、アリスは苦笑を浮かべ、軽く肩をすくめて答える。


「そりゃ親しいよ。あの人たち、わたしが学院に入る前に一緒に冒険してたパーティーだもん」


 何気なく言ったその一言に、周囲の空気が小さくざわめいた。

 ラースが目を丸くし、イリーナが低く口笛を吹きかけてやめる。

 ザックの指が端末の上で止まり、ミレーネがぱちりと瞬きをした。


「――は?」


 レティアの口がわずかに開き、言葉が止まる。

 端正な顔に、珍しく素っ頓狂な色が差す。


「今、なんて言ったの?」

「だから、学院に入る前に一緒に組んでたの。“閃光の鉄壁隊”。護衛と中規模討伐を中心にね。短い期間だけど、がっつりやってた」


 アリスは楽しそうに笑みを深め、淡々と続けた。


「ギルドに登録してたんだよ、昔。ちょっとした事情があってさ。家の都合も絡んでて。……あの人たちがいなかったら、わたし、多分今ここにいない」


 森の空気が、今度は違う意味で静まる。


「……初耳よ。私、聞いてないけど?」


 レティアが眉をひそめ、少し語気を強める。


「うん。だって、話してないからね」


 あっけらかんとした返答。


「隠してたわけじゃないよ。ただ、話す機会がなかっただけ。学院に入ってからは演習と講義で手一杯だったし」

「それは理由にならないわ」


 きっぱりと返る声。


「あなたがどんな道を歩いてきたか、私は知っていたいの。勝手に危険な場所で戦って、勝手に傷ついて、それを黙っているなんて――」


 そこで言葉が詰まる。

 アリスはわずかに視線を落とし、柔らかく笑った。


「別に、怒ってなんか……ないけど……って顔じゃないよ、それ」


 茶化すように言う。


「……完全に冒険者の顔されてたんだけど」


 レティアは呆れと驚きが混じった声音で言い、視線をわずかにそらす。


「うん、あの人たち、妙にそういうノリなんだよね。……ごめんごめん、誤解させちゃった?」


 アリスは手をひらりと振り、悪戯っぽく笑う。


「別に、怒ってなんか……ないけど……」


 レティアは小さくため息をつき、ふいっと横を向いた。

 長い栗色の髪が肩越しにさらりと揺れ、頬がわずかに赤みを帯びている。


「……ほんと、心臓に悪いのよ、あなたって」


 ぽつりと零れたその言葉には、呆れと同時に、隠しきれない親しさと心配が滲んでいた。


 アリスは一瞬きょとんとする。


「え?」

「いきなり“ギルドでまた”なんて言われたら、何をしているのかって思うでしょう。あなた、自分がどれだけ目立つ存在か分かってる?」

「うーん……半分くらい?」

「分かってないわね」


 即答だったが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいる。


「ごめん。……でも、心配してくれてありがとう」


 アリスが真顔で言う。


「……まったく。感謝するくらいなら、最初から黙って隠さないことね」


 そっぽを向いたまま、唇の端だけがほんの少し吊り上がる。


「まったく……驚かせるの、得意よね、あなたって」

「えへへっ、ありがと」

「褒めてないわ」


 即座のツッコミに、ラースが吹き出した。


 木漏れ日が二人の髪を柔らかく照らし、森を渡る風が緊張の残滓をさらっていく。

 さきほどまで火花を散らしていた空気は、春の陽気のように和らぎ、ふたりの間に穏やかな温もりを残した。


 その横から、ラースが興味深げに口を挟む。


「ってことは、お前……学院入る前って、十二か十三歳かそこらだよな? その歳で冒険者やってたのか?」

「正式登録は十一から。仮登録で同行してたのはその前。護衛対象の補助と索敵。前線には出てない……最初はね」


 さらりと言う。


「最初は?」

「途中からは、出た」


 苦笑混じりの返答。


「うん、本当。ギルドカードもちゃんとあるよ?」


 胸元に手を添え、懐かしむように目を伏せる。


「まあ、家の都合もあってね。あのパーティーには、ずいぶん助けられたよ。ひとりじゃ絶対無理だった」


 その言葉には、懐かしさと、ほんの少しの寂しさが混じっていた。

 焚き火を囲んだ夜。

 血と泥にまみれた討伐。

 笑い合った帰還の夕暮れ。


 過去の仲間たちの顔や、共に過ごした濃密な時間が、一瞬、脳裏に去来しているのだろう。


「……どおりでな」


 ザックが腕を組み、顎に手を当てながら低く呟いた。

 焚き火の残り火がぱちりと弾け、その橙の光が彼のレンズを淡く照らす。

 ガラス越しの瞳には、分析を終えた研究者のような確信めいた色が宿っていた。


「普通の訓練じゃ磨かれない感覚を持ってるとは思ってた。反応速度も、危険察知の精度も、間合いの取り方も……教本通りじゃない。あれは実地でしか身につかない類のものだ。あの現場で鍛えてきた経験が、今のお前の判断力や踏み込みの速さにつながってるんだな」


 静かだが、はっきりとした評価だった。


 アリスは少し照れくさそうに肩をすくめる。

 揺れる火の光が金の髪を淡く縁取り、その横顔に柔らかな影を落とす。


「まぁ……おかげで怪我もたくさんしたし、無茶もしたけどね。盾役の後ろから飛び出して怒られたり、魔獣の尾に弾き飛ばされたり、森で三日迷ったこともあるし。でも、そこで得たものがあるから、今こうしてみんなと一緒に戦えてるんだと思う」


 軽い調子で言いながらも、その声音の奥には重みがある。


 小さな沈黙が落ちた。

 森を抜けてくる風が頬を撫で、焚き火の煙がゆるやかに流れる。

 木漏れ日が揺らめきながらアリスの横顔を照らした。


 その表情はどこか凛としていて、過去の痛みすら今の強さに溶け込ませたような、確かな自負がにじんでいる。


「ちなみに……」


 ミレーネが興味を抑えきれないように前のめりになり、両手を膝の上で組んだまま問いかける。


「冒険者としてのランクって、今どれくらいなの? 仮登録じゃなくて、正式なやつよね?」


 視線が一斉に集まった瞬間、アリスは少しだけ頬をかき、照れくさそうに笑った。


「今は……Cランク、かな。学院に入る前に認定されたままだから、更新はしてないけど、等級はそのまま」


 焚き火がぱちりと弾ける。


「――し、Cランク!? え? すごい!」


 イリーナが両手をぱっと広げ、腰を浮かせるように身を乗り出す。

 瞳を輝かせ、声は弾み、まるで自分のことのように喜んでいた。


「Cって、ちゃんと単独依頼も任されるレベルでしょ? それって実力認定だよね? 年齢関係なく評価されたってことだよね? 尊敬しちゃうなあ!」

「ふふ、ありがとう。でも、あの時は本当に、みんなに支えられてたから。前衛が壁になってくれて、後衛がきっちり制御してくれて、わたしはその間を縫って動いてただけ」


 アリスは小さく肩をすくめる。

 その瞳には、一瞬だけ、当時の仲間たちの姿が映った。


 血に濡れた地面に牙を剥く魔獣。

 飛び散る火花と、震える大地。


 ラースが腕を組み、感心したように低く唸る。


「Cランクっていや、下手な傭兵団の副隊長クラスだぞ。そりゃあ、あの動きも納得だ」


 リゼットは顎に手を添え、観察するようにアリスを見つめる。


「……なるほど。だから、あの落ち着きや判断力が自然に出るのね。戦場の空気を読むのが早いのも、経験があるから。あれは机上の演習じゃ身につかない」


 ザックが眼鏡を指で押し上げる。


「理論だけでは説明できない“間”がある。敵の呼吸に合わせるあの一拍の取り方、あれは場数だ」


 レティアはほんの少し目を細める。

 誇らしげなような、呆れたような、複雑な微笑みが浮かんでいた。


「Cランクと言っても、冒険者組織の中では相当な実力者として認識されているわ。年齢を問わずね。まして十二歳で、というのは……異例中の異例よ」


 ヴィクトールが低い声で補足する。

 その冷静な語り口が、かえってアリスの凄さを際立たせた。


「……確か、魔導学院を卒業したら自動的にもらえる冒険者ランクって、Cランクなんだよね?」


 イリーナがぽつりと呟く。

 その瞬間、場に微妙な沈黙が落ちた。


「……え、それって……」


 ラースがちらりとアリスへ視線を送る。

 どう反応していいのか迷うような表情。


「つまり、アリスは十二のときに、未来の私たちと同じランクだってことよね……」


 ミレーネがゆっくりと言葉を繋ぐ。

 レティアが小さく天を仰いだ。


「さすがアリスというべきか、規格外というべきか……」

「両方、だな」


 ザックが淡々と補足する。

 端末を閉じながらも、その口元にはわずかな苦笑が滲んでいた。


「……十二歳でCランクかぁ。私なんて、やっとDランク相当の演習でひいひい言ってるのに」


 イリーナが肩を落とす。


「お前が比べる相手じゃねぇよ」


 ラースがぼやき、軽く頭を小突く。

 小さな笑いが広がり、張り詰めかけていた空気がようやく緩んだ。


 アリスは照れくさそうに肩をすくめ、頬をかきながら言う。


「それでも、学院でみんなと学んできたことは、今でもちゃんと生きてるよ。実地だけじゃ足りなかった部分、ここで補えてる。――だから、ほら、焦らずいこ?」


 ミレーネが軽くため息をつき、額に手を当てる。


「もう、何を目標にすればいいのか分からなくなりそう」


 アリスは困ったように笑い、両手を小さく振った。

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