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第十部 第三章 第4話

 予定していた休憩時間はとうに過ぎていた。


 森の上層を覆う枝葉の隙間から差し込む朝の光は、先ほどよりもわずかに傾き、地面に落ちる影の形をゆっくりと変えている。

 湿った土の匂いと、朝露を含んだ草の青い香りが混じり合い、ひんやりとした空気が肺の奥まで澄みわたる。

 焚き火の名残の白い煙は細く空へと溶け、ぱちりと弾ける炭の音が小さく響いた。


 アリスは最後に苦笑しながら周囲を見回す。

 頬にかかった金の髪を指先で払いつつ、軽く肩を竦める。

 蒼の瞳はやわらかく細まり、その表情には、仲間と過ごした穏やかな時間への安堵がにじんでいた。


「……あれ? 気づけば、これって普通に“休憩”になっちゃってたね。最初は状況確認のつもりだったのに、完全に思い出話と感想会になってたかも」


 くすりと笑いながら、地面に置いていた水筒を拾い上げる。


「でもさ、こういう時間も悪くないよね。張り詰めっぱなしだと、頭も体も固まっちゃうし」

「完全におしゃべりモードだったな。しかも全員参加型だ」


 ラースが腰を上げながら大きく伸びをする。

 背中をぐっと反らし、肩や背骨が小さく鳴る。


「ふーっ……体も固まってたわけだ。悪くねぇ休憩だよ。剣を握る前に、ちゃんと力を抜くのも大事だ」


 彼が息を吐いた拍子に頭上の枝葉が揺れ、朝の日差しが斑に差し込む。

 光が鎧の縁をかすめ、淡く反射する。


「まあ、進行に支障はない時間配分だ。予定よりわずかに超過しているが、許容範囲内だろう。むしろ、精神的な余裕が戻った分、次の行動は安定するはずだ」


 ザックは相変わらず冷静で、膝に置いた結晶端末に視線を落とす。

 透明な結晶盤に指先で淡く印を走らせ、確認の動作を繰り返す。

 魔力の微光が彼の指に沿って流れ、数式のような光紋が一瞬浮かんでは消えた。


「緊張値の上昇は見られない。呼吸も安定している。……問題なしだ」


 淡々とした声だが、その端にはわずかな満足が混じっていた。


「ふふっ、たまにはこういうのも悪くないわね。ずっと前を見続けていると、心が乾いてしまうもの」


 ミレーネが穏やかに微笑む。

 揺れる髪を耳にかけ直し、木陰に腰を下ろしたまま仲間たちを見回す。


「こうして同じ場所で笑える時間があるからこそ、いざというときに背中を預けられるんだと思うわ」


 その優しい眼差しが、張り詰めた空気をさらに和らげていく。


「うん、楽しかった。なんかさ、みんなの話聞いてると、自分もちゃんと前に進んでる気がする」


 イリーナがにこやかに頷き、背中の短杖を軽く整えながら言った。

 革紐を締め直し、魔力石の固定を確かめる指先は手慣れている。


「こういう時間があると、次も頑張ろうって思えるんだよね」


 彼女の頬には、まだ笑い話の余韻が残っている。

 森を抜ける風がさらりと吹き、枝葉がさわさわと鳴る。

 木漏れ日が揺れ、地面に落ちる光が波のように揺らいだ。


 レティアが静かに立ち上がり、周囲を一瞥する。


「……そろそろ戻りましょうか。気持ちも整ったことだし、次の確認に移りましょう」


 その声音は落ち着いていて、先ほどの柔らかな空気を自然に引き締める。

 アリスは小さく頷き、仲間たちを見渡した。


「うん。よし、それじゃあ再開しよっか。――さっきより、きっといい動きができるよ」


 仲間たちの顔に浮かぶ柔らかな笑み。

 ざわめく木々と涼しい風が、その和やかな時間を優しく包み込んでいた。

 小さな休憩は、ただの休息以上に――互いの心をつなぐ力となっていた。


 レティアもふっと肩を落とし、胸の奥に残っていたわずかな緊張を吐き出すように息をついた。

 指先で制服の裾をいじりながら、どこか恥ずかしそうにアリスの方を見る。

 木漏れ日が栗色の髪をやわらかく照らし、その碧い瞳に淡い光を落としていた。


「……次からは、ちゃんと聞いておくわ。あなたの昔のことも。どこで何をして、どんな人たちと過ごしてきたのか。私は、知っておきたいの」


 声音は穏やかだが、その奥には真摯な想いが込められている。


「勝手に想像して心配するより、きちんと聞いて、きちんと理解していたいの。あなたが歩いてきた道を、少しでも共有したいから」


 アリスは一瞬だけ目を丸くし、それからやわらかく微笑んだ。

 金の髪が風に揺れ、陽光を受けてきらりと輝く。


「いつでも話すよ。隠すつもりはないし、もう驚かせない程度にね。……たぶん」


 わざとらしく首をかしげる。


「たぶん、って何よ」


 レティアが小さく眉を寄せるが、その口元はもう怒っていない。


「だってさ、わたしの過去って、ちょっとだけ波乱万丈だから。全部一気に話すと、また“心臓に悪い”って言われそうで」


 アリスは苦笑を浮かべ、軽く肩をすくめる。


「でも、本当に聞きたいなら、順番にちゃんと話す。わたしがどうやってここまで来たのか、どこで転んで、どこで立ち上がったのか。レティアには、ちゃんと知っていてほしいから」


 その声音には、冗談めかしつつも確かな誠意がにじんでいた。


 レティアは一瞬だけ視線を伏せ、それから小さく頷く。


「……ありがとう。そう言ってくれるだけで、十分よ」


 ふたりの柔らかなやり取りに、小さな空気の緩みが広がる。

 森を渡る風がそっと枝葉を揺らし、さきほどまで残っていた緊張の名残をさらっていく。


 だが、アリスは気を引き締めるように両手をぱん、と軽く打ち合わせた。

 乾いた音が森の静寂に小さく響く。


「――よし、それじゃあ、再出発しようか。あと少し、今日のルートを確認して帰還予定地へ向かうよ。さっきの地点から北東に二百メートル進んだところで合流ポイントを確認、そのまま尾根沿いに戻る」


 視線が一斉に集まる。


「休憩で気持ちは整ったはず。ここからは切り替えていこう。警戒レベルは中。魔力反応は弱いけど、油断はしない」


 その言葉に、皆が一斉に頷く。

 背負い袋を締め直す音、革紐を引く音、鞘に剣を納める音が重なり合う。

 革靴が土を踏む感触が、足裏に確かな現実を伝える。


「先頭、俺でいいな」


 ラースが大きく肩を回し、剣の柄に手を添える。


「頼む。間合いは任せるよ」


 アリスが短く応じる。


「了解。視界良好、遮蔽物は多い。奇襲に注意だ」


 ザックが端末を閉じ、冷静に周囲を確認する。

 イリーナは短杖を軽く振り、魔力石の反応を確かめる。


「うん、安定してる。後衛支援、いつでもいけるよ」


 リゼットが静かに頷く。


「左側の茂み、少し濃いわ。気配は薄いけれど、視界は遮られる。通過時は間隔を詰めて」

「了解」


 短い応答が交わされる。


 緑の木立を揺らす風が、再び進み出した一行の背を押していく。

 朝の光が斜めに差し込み、揺れる葉の影が地面に細かく踊る。


 仲間たちは一列となり、整った足並みで静かな森の奥へと歩を進めていった。


 再び歩き出した一行は、ルーン大森林の西側低地帯を順調に進んでいた。

 木々の間隔はやや広がり、頭上の樹冠の隙間から陽光が斑に差し込む。

 湿った土と苔の香りが濃く漂い、踏みしめるたびに柔らかな感触が靴底を包み込んだ。

 遠くで鳥がさえずり、どこかで小動物が草を揺らす音がする。

 空は高く澄み、風は穏やかだ。


 張り詰めた気配は薄れ、隊列の足並みも安定している。

 魔力の干渉もほとんど感じられず、周囲の流れは自然のままだった。


「残りは標高の低いルートを抜けて、北側の帰還道に合流するだけね。尾根を避けて、このまま湿地手前を横断すれば最短距離よ」


 地図を広げたレティアが歩を緩め、確認するように言う。

 風に揺れる髪を押さえながら、指先で現在地を示した。


「このまま何もなければ、日が高くなる前に戻れるわ。魔力濃度も安定してるし、危険域は抜けているはず」


 アリスが頷きかけた、その瞬間。


「……魔力の揺れを検知。左手前、岩陰付近」


 リゼットの声音が低く鋭く響いた。

 空気が、ぴたりと変わる。


 彼女の指先にはすでに小さな結界符が用意され、紙片が微かに震えている。

 その震えは、周囲の魔力の乱れと同調していた。


 すぐにザックも端末を構える。

 結晶盤に指を走らせると、淡い光の波形が空中に立体表示される。

 不規則な点滅が二つ。


「微弱だが、確かに不規則な魔力反応……生体反応あり。数は二体、距離二十メートル。移動速度は遅いが、潜伏状態。待ち伏せの可能性が高い」


 ラースが一歩前に出て剣の柄に手をかけ、振り返りながら短く問う。


「どうする? 迂回もできるが」


 アリスは小さく頷き、目を細める。

 蒼の瞳が静かに研ぎ澄まされる。


「確認して排除する。念のための警戒も兼ねてね。この距離なら、放置は危険」


 腰の魔導剣《ルミナ=コード》に手を添えた瞬間、剣がわずかに脈動した。


「了解。ヴィクトール、支援を」

「任せて」


 ヴィクトールが一歩下がりつつ杖を構える。

 青白い結晶が淡く輝き、周囲の空気がぴんと張り詰めた。


 風が一瞬止む。

 森のざわめきが消える。


 隊列を再編し、アリスたちは慎重に接近した。

 落ち葉を踏む音さえ最小限に抑え、呼吸を浅く整える。

 森の空気がひりつき、静寂が耳鳴りのように響いた。


 次の瞬間、岩陰から黒い霧がにじみ出る。


「……《ウィスプハウンド》か」


 イリーナが低く呟く。

 黒く濃い霧を纏い、獣の輪郭だけが不気味に浮かび上がる。

 二体。

 赤い眼が闇の中でぎらりと光った。


 喉奥から漏れる唸りは、耳の奥をざらつかせる不協和音。


「油断しないで。素早いわよ! 影に潜るタイプよ!」


 レティアの鋭い声が全員を駆り立てた瞬間――戦闘が始まった。


「空間固定術式、展開――《アース・ブレイカー・フォールド》!」


 先陣を切ったのはヴィクトールだった。

 低い詠唱と同時に、敵の足元へ複雑な幾何学の紋が広がる。

 地面が軋みを上げ、圧縮された重力場が炸裂した。


 ――ドゴォンッ!


 一体の《ウィスプハウンド》が足を取られ、黒い霧を撒き散らしながら姿勢を崩す。


「今だ! 叩くぞ!」


 ラースが地を蹴る。

 双剣が弧を描き、青白い残光を残す。


 ――ガキィン!


 硬質な抵抗音。

 刃が霧の肉体を裂き、断面から黒煙が噴き出す。


「右、来るぞ! 跳躍!」


 ザックの指示。

 もう一体が影のように飛びかかり、牙が空を裂き、黒い霧が尾を引く。


「――《シールド・シェル》!」


 ミレーネの結界が展開。

 淡い光膜が前衛を包み、衝撃を受け止める。


 バチンッと弾かれた牙。

 霧が火花のように散る。


「逃がしません!」


 ヴィクトールが手をかざす。


「《グラヴィティ・レーン》!」


 空気が歪み、圧縮された重力の奔流が獣の脚を絡めとる。

 地面が沈み、動きが鈍る。


「はぁっ!」


 アリスが踏み込む。

 魔導剣《ルミナ=コード》が青白く発光する。


 踏み込み一閃。

 光の弧が正面から《ウィスプハウンド》を貫く。

 刃が触れた瞬間、霧が爆ぜた。


 断末魔の咆哮、そして赤い眼が弾け、黒煙が霧散する。


「これで――終わりっ!」


 ラースとイリーナが左右から同時に斬り込む。

 双剣と短杖から放たれた魔力刃が交差する。


 霧の体を十字に切り裂くと、獣の影は悲鳴とともに消散し、黒い霧が森に溶けていく。


 そして、しん、と森が静まり返り、落ち葉がゆっくりと地面に戻り、風が再び流れ始めた。


「……完了、ね」


 リゼットが結界札を手に反応の消失を確認する。


「残留魔力、減衰中。再出現の兆候なし」

「短期決着。大きな損傷なし。さすがだな、ヴィクトール」


 ザックが珍しく賞賛を口にする。


「本番での制御、まだ甘いけどね。でも……足止めくらいにはなったかな」


 ヴィクトールが苦笑し、肩をすくめる。


「十分すぎるくらい。ありがとう」


 アリスが微笑み、剣を収める。

 蒼の瞳に宿っていた戦闘の光が、ゆっくりと静まっていく。

 霧の残滓が漂う森に、仲間たちの呼吸だけが静かに響いていた。


 現場を再確認したのち、ザックが結界札を地面に差し込む。

 薄く湿った土を指先で払ってから、正確な角度で札を立てる。

 刻まれた術式紋様が淡く発光し、残留していた魔力の痕跡を吸い上げるように収束させていった。


 霧の残滓が、糸のように細く引き寄せられる。

 空気のざらつきが消え、ざわついていた魔力の揺らぎが静まっていく。


「封鎖処理、完了。残留干渉は封じ込めた。二次発生の可能性は低い」


 ザックが淡々と告げる。


「念のため、帰還後に報告書へ記録しておく。座標は保存済みだ」


 リゼットは目を閉じ、指先で空気の揺らぎを確かめる。

 ゆっくりと呼吸を整え、周囲の流れを読む。

 森の深層から流れてくる魔力は穏やかで、先ほどの不協和音は完全に消えている。


 やがて瞳を開き、落ち着いた声で告げた。


「問題なし。帰還続行可能です。周囲三十メートル圏内に異常反応なし。魔力濃度も自然値へ戻っています」


 その言葉に、仲間たちの肩から一斉に緊張が抜ける。


 ミレーネが小さく息を吐き、胸元で組んでいた手を解く。


「よかった……本当に、きれいに消えてる。さっきまでのざらつきが嘘みたい」


 イリーナは腰の短杖を軽く回して確認し、鞘に収める。


「うん、大丈夫そうだね。さっきの連携、すごく良かったよ。誰も焦らなかったし、崩れなかった」


 ラースが剣を拭いながら低く笑う。


「短期決着で済んだのは上出来だな。無駄に追撃せず、確実に仕留めた。いい判断だった」


 アリスは静かに頷き、魔導剣《ルミナ=コード》を鞘に収める。

 剣身の青白い光がすっと消え、森の色へと溶けていく。


「じゃあ、戻ろう。もう出口も近いし……無事に、全員で帰るよ」


 その声は穏やかだが、確かな決意を帯びていた。


「今日はそれで十分。確認も済んだし、目的は達成。あとは安全に帰るだけ」


 レティアが地図を畳み、微笑む。


「北側帰還道までは直線で五分ほど。もう危険域は抜けているはずよ。でも、最後まで気を抜かないで」

「了解」


 短い応答が重なる。


 空は雲ひとつなく澄みわたり、頭上の木々の隙間から朝の陽光が金色の筋を描いて差し込んでいる。

 葉を揺らす風は心地よく、先ほどまでの緊張をやわらかく洗い流すようだった。


 歩き出す足音が、湿った土の上で規則正しく重なる。

 革靴が落ち葉を踏みしめ、枝がかすかに鳴る。


 やがて前方、木々の向こうに出口の気配が見え始める。

 光が段々と強まり、閉ざされた森の闇が開放されていく。


 視界がゆるやかに広がる。

 森の匂いが薄れ、外気の澄んだ空気が流れ込む。


 イリーナが小さく笑う。


「見えてきたね。やっぱり、外の光って安心する」

「帰るまでが任務だ」


 ザックが淡々と付け加える。


「だが……全員無傷でここまで来られたのは事実だ」


 アリスは振り返り、仲間たちを見渡した。


 それぞれの顔に浮かぶ、疲労と安堵と、ほんの少しの誇り。


「みんな、お疲れさま。今日もちゃんと、乗り越えたね」


 その言葉に、誰も大げさには応じなかった。

 だが、確かなうなずきが返る。


 一行の胸には、互いを信じ合い戦い抜いた確かな絆と、無事に帰還できる安堵が静かに広がっていた。

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