第十部 第一章 第6話
セシリアが遠い目をして語った「実地演習Ⅱ」の記憶に、アリスは思わず身を乗り出した。
テーブル越しに前のめりになり、蒼い瞳をきらりと輝かせる。
「へぇ……セシリアさんも、やっぱり苦労されたんですね。なんだか、今の副長の姿からは想像できなくて。もっと最初から完璧だったのかと思ってました」
その声音には、憧れと親しみが入り混じっている。
レティアも少し安心したように、口元に笑みを浮かべた。
「なんだか、少し親近感が湧きます。今の私たちと、同じように悩んで、同じように失敗して……それを乗り越えてきたんだなって思うと、少しだけ勇気が出ます」
セシリアは二人の言葉に目を細め、軽く頷いた。
パスタの皿から立ちのぼる湯気が、彼女の頬をやわらかく包む。
「ええ。学院生のときは誰もがそうです。結界符を忘れて慌てたり、地図の読み違えで大回りしたり、夜番の交代をうっかり寝過ごして怒られたり……。私も例外ではありませんでした」
そこで小さく肩を揺らし、穏やかな笑みを浮かべる。
「当時は本気で落ち込みましたよ。自分には向いていないのではないか、とさえ思いました。でも、仲間が笑ってくれた。叱られながらも支えてくれた。その時間が、今の私を形作っています」
「今となっては、全部いい思い出ですけどね」
アリスとレティアは思わず顔を見合わせ、同時にくすりと笑った。
「……それ、すでに私たちもやってます」
「はい。夜番を変わるの忘れて……次の日、一日中眠かったです。班長にものすごく怒られて、でも途中から自分でも笑えてきちゃって」
レティアが恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「それに、湿地で足を取られて転んで、泥だらけになったこともあります。あのときは本当に泣きたくなりました」
セシリアは口元に手を当て、優しく笑った。
「ふふ……やっぱり、時代が変わっても“学院生あるある”は同じなんですね。真面目な人ほど、自分を責めてしまうものです。でも、それも含めて成長の過程なのですよ」
木の香りに包まれたカフェの一角に、三人の笑い声が広がる。
隣の席の客が一瞬だけこちらを見て、また穏やかに食事へ戻っていく。
重苦しい任務や過酷な訓練の話ではなく、ほんの少し肩の力を抜いた日常の会話。
それは短いひとときではあったが、三人の心を柔らかく結びつける、穏やかな時間だった。
木の香りに包まれたカフェの一角に、三人の笑い声が広がったあと――ふとセシリアが表情を引き締めた。
背筋をすっと伸ばし、瞳の奥に確かな光が宿る。
「でも……演習はやっぱり大変です。特に《実地演習Ⅱ》は長期にわたりますから、体力だけでなく精神面の消耗も大きい。仲間との信頼と、規律を守る覚悟が何より大事ですよ」
その言葉には、過去の体験を踏まえた重みがにじんでいた。
アリスは真剣な顔つきで頷き、胸に手を当てる。
「……はい。今度は、みんなをちゃんと支えられるように頑張ります。前回の討伐訓練では反省点も多かったから……もう絶対に、同じ失敗はしません。自分の判断に甘えないようにします」
レティアもゆっくりと頷く。
「私も、もっと冷静でいられるようにしたいわ。実戦に近い環境だからこそ、焦りや恐怖に飲み込まれないように。……班の仲間に、安心して任せてもらえるように強くなりたい」
その声音には、真剣な意志と同時に、どこか緊張をほぐそうとする柔らかさも感じられた。
セシリアは二人の言葉を聞きながら、どこか誇らしげに微笑む。
「その心構えがあるなら大丈夫です。訓練は厳しいですが、必ず成長につながります。――私も学院時代、仲間と支え合って乗り越えたから、今があるんです」
そして、ふと思い出したように言葉を続けた。
「そういえば、騎士養成課と探索者育成課とでは、《実地演習Ⅱ》の内容は少し違いましたね。たしか探索者育成課は……ダンジョンでの実習だったでしょうか」
「えっ……ダンジョンなんですか?」
レティアが思わず身を乗り出し、驚きの声を上げる。
「あ……ごめんなさい」
セシリアははっとして口を押さえた。
表情が一瞬で硬くなり、すぐに困ったように眉を下げる。
「本来、学院側は到着してから学生に説明する決まりだったのを、つい……口を滑らせてしまいました。副長としてあるまじき失態ですね」
「……なるほど」
レティアは少し緊張をにじませつつも、気まずさを解消するように小さく笑みを返す。
アリスはそんな二人の間を見渡しながら、(セシリアさんでも、あんな顔するんだ)と意外さと親近感を覚えていた。
気まずい空気が一瞬だけ流れる。
紅茶の湯気だけが静かに揺れる。
その場で、アリスが小さく肩をすくめて笑った。
「じゃあ……驚かせないように、私たちは“知らなかったふり”をしておきますね」
わざと小声で、まるで共犯者のようにひそひそと囁く。
レティアが思わず吹き出した。
「もう、アリスったら……そういうこと言うんだから。でも、うん、そうしましょう。私たち、何も聞いてません」
セシリアも安堵したように口元を緩め、静かに息を吐く。
「……助かります。私、つい真面目に話しすぎてしまうところがあるから」
「そこがセシリアさんらしくて、安心できます」
アリスの言葉に、レティアも大きくうなずく。
三人の間に漂っていた堅苦しい空気は、いつの間にか和らぎ、再び穏やかで温かな時間が流れ始めていた。
しばらく紅茶を口にしていたセシリアが、ふと真剣な表情を取り戻す。
カップを静かに置き、二人をまっすぐ見つめた。
「……演習に向けて、一つだけ、先輩として伝えておきたいことがあるんです」
アリスとレティアは思わず姿勢を正し、静かに耳を傾ける。
セシリアは柔らかな笑みを浮かべながらも、その瞳には確かな光を宿している。
「訓練や任務のとき、どうしても“力を見せよう”“成果を残そう”って思いがち。でも、一番大事なのは――必ず生きて帰ること。仲間と一緒に、です」
「……生きて、帰る……」
アリスは小さくその言葉を反芻し、胸の奥に深く刻み込むようにうなずいた。
セシリアは続ける。
「失敗や失点は取り戻せます。評価も、時間をかければ挽回できます。でも命は、一度失えばもう戻らない。演習で学ぶべき一番のことは、無謀をしないこと、仲間を見捨てないこと、そして……自分を大切にすることなんです」
その声音は厳しくも優しく、真心がこもっていた。
レティアも強く頷きながら小さく微笑む。
「……心に留めておきます。ありがとうございます、セシリアさん。必ず、みんなで帰ってきます」
「ええ。その言葉が聞ければ十分よ」
セシリアは安心したように口元を緩め、再び落ち着いた雰囲気に戻った。
しばしの間を置いて、レティアが興味深げにセシリアへ問いかけた。
スープの皿をそっと置き、指先でカップの縁をなぞりながら、少しだけ身を乗り出す。
「セシリアさんって、普段の休日はどんなふうに過ごしてるのですか? 騎士団の活動が多いと思うけど、リラックスする時間もあるのですか? 副長って、いつも忙しそうな印象があって……ちゃんと休めているのかなって、ちょっと気になってしまって」
セシリアは少し驚いたように瞬きをしてから、考えるように視線を伏せた。
長い睫毛の影が頬に落ち、グラスの水面に揺れる光がその横顔を柔らかく映す。
やがて、ふわりと微笑みが浮かんだ。
「そうですね……確かに任務が続くと、休日といっても半分は報告書や鍛錬に費やしてしまうことが多いのですけれど。それでも、意識して“何もしない時間”を作るようにはしています」
少し首を傾げ、言葉を選ぶように続ける。
「私は読書が好きで、特に歴史や魔法理論の本をよく読むわ。戦史や古代魔導文明の記録を読んでいると、時間を忘れてしまうの。過去の失敗や成功を知ることは、今の自分を見つめ直すことにもつながるでしょう?」
「あと、静かな場所でのんびり散歩するのも好きよ。騎士団の任務が忙しいときはなかなか時間が取れないけど、休日はそういう時間を大切にしているの」
窓から差し込む午後の光が、セシリアの淡いベージュの袖口を照らす。
彼女の声音は、戦場で命令を下すときの張りとは違い、どこまでも穏やかだった。
その口調に、アリスの表情がぱっと明るくなる。
「散歩かあ。自然の中を歩くのは気持ちよさそうですね。私、演習のときは森に入ることもあるけど、あれは“任務”だから余裕がなくて。ちゃんと景色を楽しむっていう感覚は、あまりなかったかも」
少し照れたように笑う。
「私もたまには、目的もなくゆっくり外を歩いてみたいな。風の音とか、木の匂いとか、そういうのをちゃんと感じながら」
「ええ、自然に触れることで気持ちが落ち着くの。忙しい日々の中で、自分を取り戻すための時間でもあるのよ。強くあろうとし続けると、知らないうちに心が固くなってしまうでしょう?」
セシリアはそう言って、少し遠くを見るように微笑む。
「だからこそ、何も考えずに空を見上げたり、川の音を聞いたりする時間が必要なのです。副長である前に、私は一人の人間ですから」
「そういう時間があると、演習や任務も頑張れますよね。心に余裕があれば、仲間にも優しくなれるし」
レティアが共感するようにうなずく。
「私も、読書は好きですけど、最近は課題ばかりで……。今度、純粋に楽しむための本を読んでみようかしら」
「それは素敵ですね。何かおすすめがあれば、今度お貸ししますよ」
セシリアが穏やかに提案する。
三人はそのまま、互いのちょっとした休日の過ごし方や好きな食べ物の話など、取り留めのない話題で盛り上がっていった。
甘いものは好きか、辛い料理は得意か、休日は早起きか遅起きか――そんな他愛のないやりとりが、自然と笑いを生む。
木の香りと食事の余韻が、心をゆったりと満たしていく。
カップの中の紅茶はいつの間にか冷め、窓の外の光は少しずつ色を深めていた。
やがて食事を終えると、三人は会計を済ませ、並んで店の外へと出た。
午後の陽射しは少し傾き始め、石畳を照らす光は金色を帯びている。
通りを吹き抜ける風はひんやりと心地よく、髪の先をそっと揺らした。
「今日は楽しかったわ。またこういうの、ぜひ誘って。副長としてではなく、セシリアとしてお茶をする時間も、悪くないものね」
軽く手を振りながら、柔らかな笑みを浮かべる。
その凛とした立ち姿には、普段の副長としての威厳と、今の穏やかな女性らしさが同居していた。
「また一緒にご飯行きましょうね、セシリアさん。今度は私たちがお店を探しますから」
アリスが元気よく笑顔で言う。
「ええ、ぜひ。今日のような時間は、きっと演習の前の良い思い出になりますわ」
レティアも優しく頷いて言葉を重ねる。
セシリアが街の別方向へと歩き出す背を見送る。
その後ろ姿はすぐに人波の中へ溶けていくが、不思議と存在感は消えなかった。
アリスとレティアは再び二人並んで歩き出す。
買い物袋がかさりと揺れ、石畳に靴音が軽やかに響く。
「……あの人、ちょっと格好よかったね。副長っていう立場だけじゃなくて、人として、なんだか憧れちゃう」
レティアが小声で漏らす。
アリスは思わず吹き出し、楽しげに笑った。
「ふふ、でしょ? でも、結構お茶目なところもあるんだから。さっきの“口を滑らせました”って顔とか、ちょっと可愛かったよね」
「確かに……ああいう表情を見ると、ぐっと距離が縮まった気がするわ」
二人の笑い声が柔らかな午後の光に溶け込む。
軽やかな足取りは、街の賑わいの中へと溶けていった。
セシリアの姿が人混みの中に消えていくのを見送り、アリスとレティアは顔を見合わせ、小さく笑った。
行き交う人々の肩越しに、淡いベージュの背中が遠ざかり、やがて夕暮れの光と混ざり合う。
「……さて、私たちも買い物の仕上げだね」
アリスが手にしたリストを軽く振る。
羊皮紙の端が風に揺れ、かさりと小さな音を立てた。
「うん。名残惜しいけど、まだやることは残ってるしね。忘れ物したまま演習に突入、なんてことになったら笑えないもの」
レティアが楽しげに頷く。
「残りは雑貨と消耗品くらいかな。ランタン用の追加の魔導石と、あとは簡易テント用の補強ロープ……だったよね」
「うん、それと予備の水袋の口金。前回、緩んで大惨事になりかけたし」
「そうだったわね。あのときは本当に焦ったわ」
二人は再び市場へと戻り、通りを歩きながら最後の買い物を済ませていく。
夕暮れの市場は昼間よりも落ち着きを帯び、香辛料の匂いや焼き菓子の甘い香りがゆるやかに漂っていた。
商人たちの呼び込みの声も、どこか穏やかだ。
「はいよ、質のいいロープだ。湿気にも強いぞ」
露店の店主が差し出したロープを、アリスが手に取り、強度を確かめるように軽く引く。
「これなら安心かな。演習中に切れたら洒落にならないし」
「ええ、これにしましょう」
魔導石も慎重に選ぶ。
淡く青白い光を宿した小粒の石が、木箱の中で静かに瞬いていた。
「少し高いけど、安定してる。夜間の明かりが揺れると、精神的に落ち着かないのよね」
「確かに。光って、意外と大事だよね」
買い物を終え、袋がさらに重みを増す。
「これで全部かな」
アリスが確認しながら荷袋を抱え直す。
「うん、たぶん完璧。……ふふ、思ったよりたくさん買っちゃったね。帰り道で腕が鍛えられそう」
レティアが笑みを浮かべる。
「演習前の筋トレってことで。これはこれで、いい準備運動かも」
「明日、腕が上がらなかったらどうするの?」
「そのときはレティアに持ってもらう」
「もう、ずるい」
二人は顔を見合わせて笑い合い、夕焼けに染まる石畳を踏みしめながら歩き出した。
王都の空は茜色に染まり、屋根の影が長く伸びている。
窓辺には灯りがともり始め、通りの先には薄紫色の夜の気配が忍び寄っていた。
通りを渡る風は昼間よりも涼しく、買い物袋を揺らすたびに紙や布の擦れる音が心地よく響く。
「こうして準備してると、いよいよだなって実感するね」
アリスが空を見上げる。
「うん。ちょっと緊張するけど……楽しみでもあるわ。未知の場所に行くって、不安と同じくらいわくわくするもの」
「うん。みんなと一緒なら、きっと大丈夫」
やがて学院の正門が見えてくる。
高い塔の窓に灯る明かりが一つ、また一つと増え、石造りの壁を淡く照らしていた。
帰ってきた学院生たちの姿が門をくぐり、談笑しながら寮へと向かっていく。
「……今日はいい一日だったね」
アリスがしみじみとつぶやく。
「うん。買い物も楽しかったし、思わぬ再会もあったしね。セシリアさんの話、ちゃんと胸に刻んでおきたいわ」
「“必ず生きて帰る”だよね」
「ええ。あれはきっと、一番大事なこと」
二人の胸には、演習を前にした緊張と、仲間とのつながりを確かめられた安堵とが混ざり合っている。
並んで学院の門をくぐる。
その瞬間、夕暮れの空に鐘の音が響き渡った。
澄んだ音色が空気を震わせ、石壁に反射し、広い校庭へと広がっていく。
それはまるで、新しい日々の始まりを告げているようだった。




