第十部 第一章 第7話
そして、出発の朝。
王都の南端――学院指定の魔導飛行艇専用ポートには、すでに大勢の学院生たちが集まっていた。
広く敷き詰められた石畳は夜露をわずかに残し、朝日を受けて淡く光っている。
整列する荷馬車には演習用の物資が積み込まれ、木箱や麻袋が几帳面に縄で固定されていた。
白く輝く飛行艇の巨大な船体は朝日を反射して眩しく輝き、その影が港の半分を覆っている。
大きなトランクを抱え、仲間と声を弾ませながら最後の点検をする者。
緊張の面持ちで書類を確認する者。
魔導器具を抱えて教官に質問をする者。
そこには期待と不安が入り混じった若者たちの姿があった。
空はよく晴れ、薄雲ひとつない青が広がっている。
涼やかな風が港に並ぶ帆柱の魔力結晶をかすめるたび、淡く蒼白い光がゆらめき、まるで呼吸するかのように瞬いていた。
アリスは制服の上に淡い外套を羽織り、肩掛け鞄のベルトをきゅっと握り直す。
視線は一直線に巨大な飛行艇の船体へと向けられている。
銀色に縁取られた舷窓や、甲板から突き出る操舵塔は、まさに学院生にとっての「大空への扉」そのものだった。
「……いよいよ、か」
思わず小さくつぶやく。
胸の奥で、静かな鼓動が確かに響いた。
「五日なんて、あっという間だったね。準備している間は長く感じたのに」
隣には、同じく搭乗準備を終えたレティアが立っている。
彼女もまた、鞄のベルトを整えながら飛行艇を仰ぎ見ていた。
陽射しを受けた栗色の髪が風に揺れ、瞳の奥には強い決意が宿っている。
「ほんとに……これから一か月。ちゃんと乗りきれるかな。長期の野営もあるし、未知の環境も多いし……正直、少しだけ怖いわ」
「怖いって思えるのは、それだけ真剣ってことだよ。大丈夫、私たち今までだって、なんだかんだで乗り越えてきたでしょ」
「乗りきるしかないでしょ。私たち、もう五年生なんだから」
レティアが冗談めかして肩をすくめる。
アリスは一瞬きょとんとした後、思わず小さく笑った。
張りつめていた心が、ほんの少しだけ和らぐ。
「そうだね。後輩に背中を見せる立場だもんね。弱音ばっかり吐いてられないか」
やがて構内放送の水晶塔から澄んだ声が響き渡り、場のざわめきがすっと収束していく。
『《王立魔導学院・実地演習班》の学院生は、順次搭乗を開始してください。出発予定時刻は午前九時。荷物確認を済ませ、係員の指示に従って整列してください』
甲高い鐘の音が一度だけ鳴り響く。
その瞬間、港に集まった学院生たちの空気は、期待と緊張を孕んだ一つの大きな鼓動となり、飛行艇の白銀の船体を取り囲んでいた。
その声に応じるように、周囲がざわめき始める。
荷物を肩に掛け直す音。
革靴が石畳を踏みしめる響き。
誰かが仲間を呼ぶ声。
すべてが一斉に動き出す合図のように広がっていく。
「――行こうか、レティア。ここで立ち止まってても、始まらないしね」
「うん。始まりの一歩ね。後で“あのとき緊張してたよね”って笑えるような、一か月にしましょう」
二人は互いに頷き合い、荷物を手に列へと加わった。
広い空を背に、蒼銀に輝く飛行艇がゆっくりと迫ってくる。
舷窓に映る陽光はきらめき、甲板からは微かな魔力の脈動が伝わってきた。
やがて係員の案内を受け、アリスとレティアは飛行艇の搭乗口へと進む。
魔力障壁が張られたハッチをくぐると、外気とは違う、わずかに澄んだ空気が肌を撫でた。
そこには広々とした船内が待っている。
金属光沢を帯びた通路には魔導灯が等間隔に並び、白い柔光が均一に空間を照らしていた。
床は滑らかに磨かれた銀灰色の金属で、歩を進めるたびに硬質な響きがわずかに返る。
すでに多くの学院生たちが席へと向かっており、ざわめきがあちこちで交差している。
座席は二人掛けのシートが整然と並び、頭上には荷物ラック、脇には小さな魔力緩衝結界が設置されていた。
結界が淡く光を放つたび、空気そのものが静かに整えられていく。
「ここだね。思ったより前のほうだ」
「窓側、取れてよかった。離陸の瞬間、ちゃんと見たいもの」
案内に従って進むと、二人の指定席がすぐに見つかった。
アリスとレティアは並んで腰を下ろし、肩から伸びる安全ベルトをしっかりと確認する。
シートの柔らかな感触が背中に沈み込み、これまでの旅路とは一線を画す特別な空間を意識させた。
「こんなに早くまた魔導飛行艇に乗るとは思わなかったね。前回は合同討伐で、あっという間だったけど」
「ね。ついこの前、合同討伐演習で乗ったばかりだったし……。あのときより、今回はずっと長い旅になる」
レティアが窓の外に目を向け、かすかに息を吐く。
大きな船体の外側には、朝日に照らされた甲板と整列する学生の姿がまだ小さく映っていた。
アリスも小さく笑みをこぼす。
だが、その瞳にはほんの少し緊張の影が揺れている。
視線を落とした彼女の手は、無意識のうちに膝の上で軽く組まれていた。
飛行艇はまだ静止したままだったが、飛行艇の魔導機関が低く唸りをあげ始め、甲板を伝って振動がわずかにシートへ響き始める。
そのとき――。
「アリス、レティア!」
後方から聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、布袋を肩にかけたラース・エルヴァンが人混みをかき分けて近づいてくる。
短く整えた髪を揺らしながら、大股で通路を進む姿はいつも通り豪快だ。
後ろには眼鏡を押し上げるザック・ミルドレイ、そして落ち着いた笑みを浮かべるミレーネ・フォルトナーの姿があった。
「やっぱり同じ便だったか。出発前に顔くらい見とこうと思ってさ」
ラースが口元をほころばせ、軽く手を振る。
「そっちの席はもう決まった? 俺ら、この後ろなんだけど」
「ええ、ここ。窓側を確保できたの」
アリスが頷く。
彼らの指定席もすぐ近くだった。
通路を挟んで二列後ろ。
「よかった。また一緒だなんて心強いですね。長期演習、班は別でも同じ艇にいるだけで安心します」
ミレーネが穏やかに笑い、手に持った小さな包みを膝に置いた。
中にはきちんと畳まれた包帯や回復薬が見え隠れしている。
「君は……相変わらず用意周到だな。出発前から野営を想定しているのか」
ザックが小声で言う。
「念のため、です。何も起きないのが一番ですが、備えは多いほうが安心でしょう?」
ミレーネは照れくさそうに微笑んだ。
「ははっ、でもまあ安心だよな。俺は正直、遠出の飛行なんてあんまり好きじゃなくてさ。長旅のあいだは酔ったり寝たりしそうだし、何より空の上じゃ剣も振れないからな」
ラースが肩をすくめる。
「あなたでも緊張することあるのね」
レティアが思わず吹き出す。
「そりゃそうだろ。戦うのと違って、自分の腕じゃどうにもできないからな。魔導機関が止まったら、俺はただの荷物だ」
「そんなことないよ。いざってときは一番頼りにしてる」
アリスが笑いながら返す。
「おいおい、今から縁起でもないこと言うなよ」
ラースは苦笑しつつも、どこか嬉しそうだった。
冗談交じりのやりとりに、みんなの表情が少し和らぐ。
周囲の学院生たちも席につき始め、ざわめきは次第に落ち着いていく。
『全員着席を確認します。安全ベルトを装着し、座席をお立ちにならないようお願いいたします』
船内に澄んだアナウンスが響いた。
甲板の扉が閉ざされ、低い音を立てて密閉される。
窓の外では港の結界が淡く光を放ちながら、ゆっくりと開いていった。
「……いよいよ出発だね」
アリスが小さくつぶやく。
「うん。もう後戻りはできないわね」
レティアが静かに頷く。
飛行艇の船体がわずかに震え、床から伝わる振動が強くなる。
緊張と期待が入り混じる中、ふとレティアが横で小さく笑みを浮かべた。
「でも、こういう長期演習が終わったあとの休暇って、きっと格別なんでしょうね。何をしようか、今から少し楽しみかも。きっと、帰ってきたときの王都の空気も違って見えるんでしょうね」
その言葉にアリスは一瞬だけ目を瞬かせ、そして小さく頷いた。
「うん、……演習が終わったら、ミラージュ王国に行こうかと思ってるんだ。少し、ゆっくりしたいし」
「ミラージュ王国に……?」
レティアが興味深そうに顔を向ける。
「うん。クラリスもまだいると思うから、少し顔出したいし、王都の研究塔も見てみたいなって。あの街の空気、嫌いじゃないんだ。静かで、どこか澄んでいて」
少しだけ視線を落とす。
「……それに、ちょっと――気になってることもあるし」
最後の一言を口にしたアリスの声は、ごく小さく、少しだけ間を置いた。
レティアは首を傾げる。
「気になってること?」
「ううん、今はまだはっきりしないから。演習が終わって、ちゃんと落ち着いてから考えたい」
アリスはそれ以上を語ろうとはせず、視線を窓の外へと逸らした。
その横顔には、ただの観光や友人への再会だけではない、胸の奥に秘めた思案の影が一瞬よぎっていた。
レティアは深く追及せず、静かにうなずく。
「うん、いいね。演習を終えたら、ご褒美だよ、きっと」
言葉を交わした直後、船内に淡い魔力音が響き、出発のアナウンスが流れ始めた。
天井に埋め込まれた魔導結晶が一斉に淡く発光し、低く澄んだ共鳴音が機内全体を包み込む。
それは耳に痛い機械音ではなく、どこか透明で、静かな湖面に小石を落としたときのような柔らかな振動だった。
『全乗員および搭乗班員へ――こちら操縦室。離陸準備が整いました。これより定刻通りに発進いたします。各自、座席の安全帯を再確認してください。これより目的地 《フォルセリア》に向けて出発いたします。所要時間はおよそ三時間半を予定しております。なお、航行中は船内移動に制限がございますので、必要なものは手元にご準備ください。乗員および係員の指示に従って、安全な移動にご協力ください』
落ち着いた声が、船内の空気をゆっくりと引き締めていく。
機内がざわめいた。
革ベルトの金具が鳴る音。
鞄を引き寄せる布の擦れる音。
誰かの小さな深呼吸。
「三時間半か……思ったより長いな」
ラースが後ろの席からぼそりとつぶやく。
「航路は王都から北東へ直線ではありませんから。上空の魔力気流を避けるため、多少迂回するはずです」
ザックが冷静に答える。
「そんな分析しなくていいから、酔い止めの準備しときなさいよ」
レティアが振り返って小さく笑う。
「言うなって」
ラースが苦笑する声に、緊張が少しだけほぐれる。
アリスとレティアも、肩のベルトをもう一度確認した。
金具を引き締め、胸元の固定具を押し込み、背中をシートに預ける。
「大丈夫?」
「うん。……ちゃんと締まってる」
深く息をついて、心を落ち着ける。
胸の鼓動は少し早い。
けれど、不安よりも高揚が勝っていた。
次の瞬間、機体の外殻が低く唸った。
腹の底に響くような重低音。
床下から微かな振動が伝わってくる。
それは揺さぶるというより、静かに押し上げられる感覚だった。
「来るよ」
アリスが小さく言う。
アリスとレティアは互いに短く視線を交わした。
ほんのわずかに笑みを交わす。
――いよいよ始まる。
飛行艇がゆっくりと浮上を開始した。
魔力の浮遊結界が安定すると、船体を包む蒼白の光が一瞬強く輝き、次第に透明な膜のように落ち着いていく。
振動は次第に一定となり、耳にかすかな圧迫感が走る。
「……浮いた」
レティアが息を呑む。
「うん。もう地面は、ずっと下だよ」
アリスの視線は窓の外に釘付けになっていた。
眼下に広がる王都の街並みは、刻一刻とその輪郭を小さくしていく。
赤煉瓦の屋根が幾何学模様のように並び、白い塔が林立し、中央の王城がまるで模型のように整然と佇んでいる。
川が銀の糸のように街を貫き、橋の影が水面に細く伸びていた。
「綺麗……」
レティアが思わず漏らす。
「いつも歩いてる場所なのに、こんなふうに見ると、全然違うね。王都って、こんな形をしてたんだ」
「上から見ると、街もただの模様みたいね。でも、あの中に私たちの毎日があったと思うと、不思議な気持ち」
レティアは静かに笑った。
飛行艇はさらに高度を上げ、やがて王都の城壁が完全に視界の下へ沈む。
視界いっぱいに蒼穹が広がり、白い雲が遠くに漂っている。
機体がわずかに前傾し、進路を取る。
甲板の魔導翼が微細に角度を変え、空気を切り裂く音がかすかに響いた。
蒼穹を目指し、彼女たちを乗せた飛行艇は、目的地 《フォルセリア》へと進路を取った。




