第十部 第一章 第5話
「おなかすいちゃった」
レティアが小さくお腹を押さえ、どこか照れくさそうに呟いた。
買い物袋をいくつも提げた腕を少し持ち上げながら、困ったように笑う。
「干し肉の試食だけじゃ、さすがに足りなかったみたい」
「市場の匂いって、余計にお腹すくのよね。焼きパンとか、スープとか、あちこちから誘惑されて」
「そうだね、もうお昼だし、なんか食べようか」
アリスも頷き、袋を抱え直しながら周囲を見回す。
王都の大通りは昼時を迎え、食事処を探す人や、買い物を終えた家族連れの姿が多く見られた。
屋台から漂ってくる焼きパンや煮込みスープの香りに、ふたりの足取りも自然と食べ物を探す方向へ向かっていく。
「軽く済ませる? それともちゃんと座れるところにする?」
「できれば、少し落ち着けるところがいいな」
レティアが答える。
「さっきまでずっと人混みだったし、ちょっと休憩もしたい」
しばらく歩くと、石造りの落ち着いた外観の小さなカフェが視界に入った。
入り口の上には蔦が絡む木の看板が掛けられており、金文字で店名が刻まれている。
ドア横の窓には季節の花が飾られ、小さなチョークの立て看板には「本日のスープとキッシュ」の文字が記されていた。
「ここ、雰囲気よさそうだね」
アリスが微笑みながら振り向く。
「うん、入ってみよう」
レティアも同じように目を細めて頷く。
扉を押して中に入ると、外の喧騒とは打って変わって、落ち着いた静けさが広がっていた。
木の梁が見える天井、壁際には整然と並んだ本棚や小さな観葉植物。
窓から差し込む午後の柔らかい光が床の板目を照らし、淡い影を落としている。
焼きたてのパンと煮込み料理の香りがふんわりと漂い、自然と肩の力が抜けていった。
席に案内され、窓際の二人掛けのテーブルに腰を下ろす。
椅子の背もたれは少し高めで、座ると包み込まれるような安心感があった。
「……落ち着くね」
アリスが小声でつぶやく。
「市場のざわめきが嘘みたい」
「うん。ここならゆっくり話せそう」
レティアも頷き、椅子に背を預ける。
テーブルに置かれたメニューを手に取り、二人はしばし黙って目を走らせる。
煮込み料理や軽食のほか、デザート欄にはハーブを使ったプリンやベリータルトなど、目を引くものが並んでいた。
「キッシュ、いいかも」
「スープも美味しそう。今日は冷えた飲み物より、温かいのがいいかな」
窓の外では、石畳の通りを往来する人々の姿が揺らめく。
ガラス越しに遠い喧噪を感じながらも、店内には木の温もりと香ばしい匂いが満ち、二人だけの穏やかな昼の時間が流れていた。
「こんにちは、アリスさん」
ふいにかけられた声。
アリスとレティアは同時に顔を上げる。
窓から射し込む光を背に、そこに立っていたのは見覚えのある女性――セシリア・グレオール准尉だった。
普段は鎧姿で指揮を執る彼女だが、この日は非番らしく、落ち着いた色合いのシンプルな私服を身にまとっている。
淡いベージュのブラウスにダークグリーンのスカート。
髪もきっちりと結い上げるのではなく、緩やかにまとめて肩にかかるように下ろしていた。
戦場で見せる厳しい眼差しとは違い、今の彼女の表情はどこか柔らかい。
「セシリアさん! ここで会うなんて珍しいですね」
アリスが驚きつつも、ぱっと笑顔を向ける。
「市場でお見かけしたのですが、まさかここでお会いできるとは」
セシリアは穏やかに頷く。
「少し休憩をと思いまして。今日は非番なのです」
ふと隣に座るレティアへ視線を移す。
「そちらの方は?」
レティアは一瞬だけ背筋を伸ばし、丁寧に答える。
「初めまして。私はレティア・エクスバルドといいます。王立魔術学院でアリスの友人です。今日は一緒に買い物に来ていたんです」
「レティアはずっと一緒に演習に参加してるんだよ」
アリスが補足する。
セシリアは軽く頭を下げる。
「私はセシリア・グレオール。ティアナ騎士団の副長を務めています。今日は非番で、たまたま街に出てきていたの」
少しだけ声音を和らげる。
「……レティアさん、とお呼びしてもよろしいですか。――やはり、魔導戦で名を馳せた五家のご令嬢でいらっしゃいますよね」
レティアはわずかに目を瞬かせる。
「ええ、一応は。でも今はただの学生ですから」
落ち着いた笑みで応じる。
「そうでしたか……」
セシリアは静かに頷き、視線をわずかに伏せる。
「あの石碑の……」
「……えっ?」
アリスの胸が一瞬だけ強張る。
だが。
「――そういえば」
セシリアはすぐに顔を上げ、柔らかな笑みを取り戻した。
「お二人は今日、どんな買い物をされていたんですか? 市場は随分と混んでいたでしょう?」
「……え、あ……はい。演習用の準備で、保存食や装備を」
アリスはわずかな戸惑いを胸に抱えながらも答える。
セシリアは自然な仕草で耳を傾ける。
「長期演習と伺っています。準備は入念に越したことはありませんね」
「セシリアさん、今日はお一人なんですか?」
アリスが問いかける。
「ええ。今日は非番で、少し街に出てきただけなの。こうして自由に歩くのは久しぶりで……。――ふたりは買い物の帰りかしら?」
「ええ、ちょうど買い出しの途中で。……それにお昼を探していたところなんです」
アリスが答える。
セシリアの口元ににっこりとした笑みが浮かぶ。
「それなら、ご一緒してもいいかしら。たまには、こうして落ち着いた場所で、ゆっくり食事をするのも悪くないでしょう?」
アリスとレティアは一瞬だけ視線を交わす。
互いの瞳の中に“歓迎”の意思を確かめ合う。
「もちろんです。ぜひ」
アリスが応じる。
「ご一緒できるなんて光栄です」
レティアも微笑む。
「……では、遠慮なく」
セシリアは小さく肩を緩め、静かに椅子を引いて腰を下ろした。
カフェの窓からは、柔らかな昼下がりの陽射しがテーブルに差し込み、光がカップの縁で反射して淡い煌めきを描いている。
木目調の卓上には三人分のカップと水差しが整えられ、湯気を立てる紅茶の香りがふわりと広がっていた。
レティアが少し背筋を伸ばしながら、自然と会話の糸口を探すように視線を巡らせる。
窓際の淡い光が彼女の横顔を照らし、栗色の髪に柔らかな艶を落としていた。
指先はナプキンの端をそっと整え、どこか気遣うような仕草を見せる。
アリスはそんな彼女に気づき、くすりと微笑みを返した。
その蒼い瞳には「大丈夫」という無言の合図が宿っている。
セシリアも穏やかな眼差しで二人を見つめる。
その表情は戦場で見せる副長の顔ではなく、一人の女性としての柔らかな温もりに満ちていた。
肩の力が抜け、視線もどこか優しい。
こうして三人はテーブルを囲み、静かで和やかな昼食の時間を過ごし始めた。
店内に流れる穏やかな弦楽の調べと、外からかすかに聞こえる人々のざわめきが、まるで日常の安らぎを象徴するかのように心地よく響いていた。
店内の木の香りが漂う穏やかな空間で、三人はそれぞれに注文した料理を前にして腰を落ち着けている。
陶器の皿が置かれるたびに小さな音が鳴り、立ち上る湯気が光を含んで揺れた。
アリスの皿には香草の香りが立ちのぼるハーブチキンのグリル。
皮目はこんがりと焼き色がつき、ナイフを入れれば肉汁がじゅわりと滲む。
レティアの前には湯気を立てる野菜たっぷりのスープ。
色とりどりの根菜と豆が煮込まれ、表面には刻まれたパセリが浮かんでいる。
そしてセシリアの前には彩り豊かな魚介のパスタ。
白身魚と貝の旨味を含んだソースが麺に絡み、ほのかな香りが鼻をくすぐった。
窓辺から差し込む柔らかな光が食器の縁を照らし、湯気に混じって心地よい香りが広がる。
セシリアはフォークを手にしながら、ふとアリスの足元に置かれた荷物の多さに気づいた。
紙袋や包みがいくつも重なり、布地の端や保存食の箱が少し覗いている。
「それにしても……荷物がずいぶん多いけど、何の買い出しかしら?」
柔らかな声で問いかける。
アリスは少し肩をすくめて微笑み、テーブルの端に置かれた紙袋を軽く叩いた。
「長期滞在の演習があるから、その準備でいろいろ揃えてるんだよ。保存食とか、替えの服とか、魔導具の予備部品とか……気づいたらこんな量になっちゃって」
「演習って、泊まり込みになるのよね?」
「うん。班単位で野営もあるし、講義も現地でやるみたい。だから、忘れ物があると結構大変なんだ」
セシリアは小さく頷く。
「なるほど……ルーン大森林での講義演習、ですか?」
その表情に小さな驚きが浮かぶ。
「はい。実地演習Ⅱです」
アリスが答える。
セシリアはふっと視線を宙に泳がせ、懐かしむように言葉を続けた。
「実地演習Ⅱでしたか……あれは、大変でしたね。初日はまだ余裕があるのですが、二日目の夜あたりから一気に疲労が出るのです」
フォークを持つ手が一瞬止まる。
「夜間の索敵で道に迷いかけたり、湿地帯での野営準備に四苦八苦したり……。班ごとの意思疎通が足りず、危うく討伐対象を取り逃がしそうになったこともありました」
「そんなことが……」
レティアが目を丸くする。
「ええ。互いの判断を疑ってしまう瞬間があるのです。ですが、そこで踏みとどまれるかどうかが大切なのですよ」
セシリアは小さく息を吐き、微笑を浮かべた。
「でも、そういう失敗が一番身になるんです。仲間との連携や、互いを信じることの大切さを学べる。――今思えば、あれがあったから今の私があるのかもしれません」
横に座るレティアは、初めて会ったばかりのセシリアに思わず背筋を正し、やや緊張した面持ちで問いかける。
「よくご存じで……。セシリアさんは、王立魔術学院のご出身なんですか?」
セシリアはグラスを軽く指先でなぞり、穏やかに頷いた。
「ええ。私は騎士養成課の出身よ。剣術と戦術理論を中心に学びました。魔術科ほど派手ではありませんが、地道な訓練の積み重ねでした」
「そうだったんですね……」
レティアは思わず姿勢をこわばらせる。
「……よろしくお願いします」
セシリアはその様子に小さく微笑む。
「こちらこそ、よろしくね。後輩さん。肩の力を抜いて大丈夫よ。学院にいる間は、立場よりも経験を積むことのほうが大事なのだから」
その一言に、テーブルの上に漂っていた緊張が少しだけ和らいだ。
アリスはナイフを置き、そっと二人を見比べる。
「なんだか、不思議だね。こうして同じ学院の先輩と、こんな風に話せるなんて」
「学院時代はあっという間に過ぎます」
セシリアが静かに言う。
「ですが、そこで得た絆や記憶は、戦場でも日常でも、必ず支えになります」
三人はまだどこか硬さを残しながらも、温かな料理と木の香りに包まれた空間の中で、ゆったりと会話を続けていった。




