第十部 第一章 第4話
並んで歩き出した廊下の途中。
石造りの壁にかかった装飾灯が午後の光を受けてほのかにきらめき、磨き上げられた床は二人の姿を淡く映していた。
遠くの教室からは講義の声が微かに漏れ、規則正しい靴音が静かなリズムを刻んでいる。
そのとき、レティアがふと足を緩め、窓の外に目をやった。
高い窓枠の向こうには、雲ひとつない青空が広がり、初夏の風が木々を揺らしている。
光が彼女の横顔を縁取り、長い睫毛の影が白い頬に静かに落ちた。
「一か月かぁ……けっこう長丁場になるのね」
まるで空を仰ぐように、小さくつぶやく。
「森での生活が続くとなると、きっとあっという間ではないわよね。天候も変わるだろうし、疲労も蓄積するでしょうし」
「でも、そういう時間を乗り越えたら、きっと今までとは違う自分になれる気がするの」
遠い目をしながらも、その声音にはわずかな期待が滲んでいた。
アリスは横顔を覗き込み、軽く頷く。
「うん。だから、いろいろ買い出しにも行かないとね」
「食料の保存食、替えの手袋、予備の魔導石、修復用の符紙……考え出すと結構あるよ」
「一か月って聞くだけで、準備の重みも増す感じがする」
声には現実的な意識と同時に、わずかな高揚感が混じっている。
「じゃあ、今日のうちに買い出し行こっか」
レティアはぱっと顔を輝かせる。
「夕方なら商店街もまだ開いているわよね? 装備品店も覗きたいし、保存食の専門店も行きたいし」
「せっかくだもの、ちゃんと選びたいわ」
歩調を少し速め、スカートの裾がふわりと揺れる。
軽やかに先を行こうとする仕草は、どこか子どものような無邪気さを帯びていた。
アリスは苦笑交じりに声をかける。
「そうだね。でも、まずはリストを作らなくちゃ」
「勢いで買うと、絶対に何か忘れるよ。食料の栄養配分とか、重さの分散とか、ちゃんと考えないと」
「だから明日かな。今日は一度整理しよ」
レティアは一瞬だけ唇を尖らせる。
「えー……せっかく気分が乗ってきたのに」
だがすぐに、小さく笑って頷く。
「了解。計画的に、ね」
「ふふっ、なんだか遠足前の準備みたいで、ちょっと楽しいかも」
「子どものころ、前日に荷物を広げて何度も確認したのを思い出すわ」
張りつめていた緊張が解け、声に柔らかな弾みが混じる。
アリスも微笑む。
「うん。大変そうだけど、いい時間になるといいね」
「準備って、ただの作業じゃなくて、気持ちを整える時間でもあると思うんだ」
「ちゃんと備えていけば、不安も少しは軽くなるし」
二人の視線が自然と重なる。
ほんの一瞬だけ、言葉を交わさなくても通じる静かな笑み。
窓の外では、風に揺れる木々の葉がきらりと光る。
差し込む陽光に包まれながら、二人の影が長く並んで伸びていく。
足音は軽やかで、それでいて確かに前へ進んでいる。
軽やかな足取りで進むその姿は、ただの準備の一幕でありながらも、これから始まる長い演習に向けた“新たな一日”の始まりを確かに刻んでいた。
翌日。
朝から快晴となった王都ファーレンの中央市場は、すでに活気に満ちていた。
澄みきった青空の下、石畳の大通りは朝露をわずかに残しながらも乾き始め、陽光を反射して柔らかく輝いている。
通りの両脇には色とりどりの天幕が張られ、深紅や群青、翡翠色の布が風に揺れ、その影が地面に揺らめく模様を描いていた。
薬草や保存食、魔道具の素材を扱う露店が軒を連ね、干した果物や燻製肉の香ばしい匂い、挽きたての香辛料の刺激的な香りが風に混じる。
行き交う人々の笑い声や呼び込みの声、木箱を積み上げる音、秤の分銅が触れ合う軽い金属音が、絶え間なく重なっていた。
人波の中を、アリスとレティアは並んで歩く。
アリスの手には小さく丸めた羊皮紙のリストと羽根ペン。
レティアは肩掛けの布袋を下げ、すでに買い物に胸を躍らせている様子だった。
「えっと……保存食、簡易調理器、魔力充填式ランタン、それから浄化タブレット……」
アリスは羊皮紙に目を落とし、一つひとつ丁寧に確認する。
「班全体で一か月分。余裕を持たせて、三日分は多めに見積もる。重量は分散、消耗品は複数人で分担……」
「塩分と糖分も偏らないようにしないと。森の中だと汗もかくし、魔力の消耗も激しいから」
羽根ペンで購入済みの項目に小さく印をつける。
「はいはーい、保存食の担当は任せて」
レティアが勢いよく片手を挙げる。
「乾パン系は固くて飽きるから、もう少し食べやすいのも欲しいわよね。干し果物とか、蜂蜜漬けのナッツとか」
「でもちゃんと日持ちするものにするから安心して」
張り切った声に、近くの客が一瞬振り向く。
「あとでミレーネに見せても怒られないように、栄養バランスも考えなきゃね」
アリスが小さく笑いながら釘を刺す。
「たんぱく質、炭水化物、ビタミン。最低限は確保しないと、絶対に説教されるよ」
レティアが唇を尖らせる。
「さすがにチョコだけ買い込んだりはしないよ」
「ちゃんと干し肉も買うし、乾燥野菜も選ぶわよ」
「……たぶん」
「……ちょっと信用できないかも」
アリスが半眼でつぶやく。
「ひどーい」
レティアが笑いながらアリスの肩を軽く突く。
「私だって学習するのよ。前回、甘いものばかり持って行ってラースに呆れられたの、ちゃんと覚えてるんだから」
人混みの中で二人のやり取りは不思議と際立ち、まるで喧騒に溶け込む軽やかな音楽の一節のように響いていた。
やがて、威勢のいい声が飛ぶ。
「お嬢さん方、見ていきな! 今朝仕入れたばかりの干し肉だよ。保存もきくし、焼けば香りが立つ!」
筋骨たくましい店主が大きな樽を叩く。
樽の中には、香辛料に漬け込まれた干し肉の束がずらりと並び、赤茶色の表面が朝日に照らされて艶を帯びている。
「いい香り……」
レティアが思わず顔を近づける。
「ほらな? 嬢ちゃん、鼻が利くな」
店主がにかっと笑い、試食用の小片を差し出す。
「嬢ちゃん、美味いぞ。一口どうだ?」
「じゃあ……いただきます」
レティアが口に運ぶ。
噛んだ瞬間、香辛料と肉の旨味が広がり、彼女の目がぱっと輝いた。
「うん、いける! 塩気もちょうどいいし、香りも強すぎない。これなら班のみんなも喜ぶはず」
「焼けばさらに香ばしくなるでしょうし、刻んでスープに入れても良さそう」
アリスが小声で念を押す。
「……買いすぎないでよね」
「一か月分って言っても、肉ばかりじゃ偏るから」
「わかってるって」
レティアは笑って受け流しつつ、結局少し多めに量ってもらっていた。
次に立ち寄ったのは、魔力充填式ランタンを扱う魔道具店。
店内は薄暗く、壁際に並んだランタンが淡い光を明滅させている。
青白い灯りが呼吸するかのように揺れ、天井の木梁に影を落としていた。
「こちらは新型ですよ。魔力を込めれば七日間は持続します。旧型の半分の軽さで、持ち運びも便利です」
店主が胸を張る。
アリスはランタンを手に取り、底に刻まれた術式をじっと観察する。
「……安定化の紋様が改良されてる。流線型の魔力循環式だ」
「これなら夜間の揺れにも強そうね。衝撃で消える心配も少ない」
店主が驚いたように目を見開く。
「さすが学院の学院生さんだ。そこまで見抜くとは」
「森での長期演習なら、信頼性が一番大事ですから」
アリスは静かにうなずいた。
その横で、レティアは隅に置かれた色鮮やかな小瓶に目を奪われていた。
「ねぇ、アリス! これ見て! 『浄化タブレット・フルーツ風味』だって!」
瓶の中には淡い橙色や桃色の小さな錠剤が詰まっている。
「……ちょっと待って、それ本当に効能あるの? お菓子みたいなんだけど」
アリスが眉をひそめる。
レティアは瓶を持ち上げ、店主に問いかける。
「これって……効くんですよね?」
「もちろん! 水質浄化用の簡易魔術式が組み込まれております。ただ……ちょっと甘い味付けにしてあるだけでして」
「……甘い必要ある?」
アリスがじとっと見る。
「うん! 演習中に甘いのって癒しになるでしょ?」
「森の中って、たぶん想像以上に単調よ。だから小さな楽しみは大事なの」
「……やっぱりチョコ代わりにしてるじゃない」
アリスの呆れた声に、レティアは舌を出す。
「えへへ」
結局、その瓶はリストに加えられた。
市場の喧騒の中、二人のやり取りは絶えず笑いを生み、買い物は単なる準備でありながら、まるで小さな冒険のような彩りを帯びていった。
そうして市場の奥へと進んでいたところ。
香辛料の匂いが一段と濃くなり、乾燥果実の山が陽光を受けて琥珀色に輝く一角へ差しかかった瞬間、不意に人混みの向こうに見慣れた背丈と、光を反射する眼鏡の輪郭が視界に入った。
布袋や籠を抱えた人々の間から、黒髪と細身の影がすっと浮かび上がる。
「あれ、ザック? ……と、ラースも」
アリスが声をかける。
振り返った二人の姿が、朝の光の中にくっきりと現れた。
眼鏡を押し上げながら落ち着いた表情を見せるザック・ミルドレイ。
肩に大きな布袋を担ぎ、いかにも力強そうなラース・エルヴァン。
「やあ、アリス。偶然だな。君たちも準備中か」
ザックは周囲の喧騒に負けないよう、少し声を張りつつも穏やかに言う。
「演習まで時間があるとはいえ、物資は早めに確保しておきたいからね。人気の品はすぐなくなる」
「市場の動きは戦場と同じだ。出遅れた者が困る」
「俺らも演習用の追加物資を買いに来てたんだ」
ラースが肩を揺らしながら布袋を掲げる。
「保存用ポーション、耐水布、簡易結界杭、それから予備の革手袋。長期だと何が起きるかわからねえからな」
「重いけど、これくらい背負えないと前衛は務まらねえ」
布地がぎしりと軋む音がする。
「こっちは保存食がまだでね……レティアが吟味してるところ」
アリスが笑いながら言う。
「ちゃんと栄養と重量を計算しないと、班全体に響くからね」
「でも、味も大事だよ。士気に関わるから」
レティアが胸を張る。
「うん。いざという時、食べる楽しみくらいは大事でしょ」
「森の中って、想像以上に単調だと思うの。だからこそ、小さな楽しみがあると気持ちが違うわ」
「それに、ちゃんと干し肉も乾燥野菜も選んでるから安心して」
そのきらきらした瞳に、ラースは小さく笑う。
「そっちは頼んだ」
「俺は味に文句は言わねえ。ただ、腹が減らなきゃそれでいい」
四人は自然と並び、市場の奥へ歩き出す。
天幕の影をくぐり、露店の間を縫い、時折立ち止まって品を見比べる。
まるで小さな遠征隊を組んでいるかのように、歩調も揃い、気分も軽やかだった。
――しかし。
「えっ……これ、もう売り切れ?」
アリスの声が少し上ずる。
目当ての「高濃度浄化タブレット」が並ぶはずの棚には、ぽっかりと空白だけが残っていた。
小さな札には「本日分完売」の文字。
「今朝早くに他の学生がまとめ買いしていったみたいだよ。もう次の入荷は明日以降だって」
店主が申し訳なさそうに言う。
場の空気が一瞬沈む。
人々のざわめきが遠く感じられた。
「困ったね……替わりになるのは……」
レティアが小声で呟く。
「高濃度タイプは水源が不安定な場所で便利なのに」
「森の奥に入ったら、清流が常にあるとは限らないわ」
ザックはすぐに棚を調べ、箱の裏書きを確認する。
「この『中濃度タイプ』を数で補うしかないかも」
「単体効果は落ちるが、二錠同時投入でほぼ同等になる」
「ちょっと重くなるけど、効果は十分だ。持続時間も問題ない」
「重量は分散すればいい。俺が半分持つ」
ラースが即座に言う。
「重さなんて気にすんな。必要なもんは持ってく」
アリスは頷く。
「ありがとう。じゃあ、それでお願いするね」
「予定外だけど、対応できるなら問題ない」
レティアも素直に袋を差し出す。
「じゃあ中濃度を多めに。……次は売り切れ前に来ないとね」
代替品を受け取りながら、小さく息を吐く。
ちょっとしたハプニングも、こうして仲間と一緒なら心強い。
最後に軽く雑談を交わす。
「演習、気を抜くなよ」
ラースが短く言う。
「もちろん。そっちもね」
アリスが微笑む。
「術式の試験、楽しみにしてる」
ザックが静かにうなずく。
「実地検証こそ本番だ」
「じゃあ、演習で」
四人はそれぞれ手を振り合う。
ザックとラースは人混みの中へと消えていった。
「さ、こっちもそろそろ終盤ね」
レティアがリストを覗き込む。
「うん。あと一、二件だね」
アリスも頷く。
二人は再びリストを見比べながら、日差しのまぶしい市場の通りを歩き出す。
香辛料の香り、ざわめく人々の声、色鮮やかな店先。
その一つひとつが、どこか楽しく、ほんの少しだけ冒険の匂いを孕んでいた。
買い出しの一日が、ゆっくりと、しかし確かに進んでいく――。
二人は食料品や簡易保存食、魔導具の予備部品などを買い揃えたあと、通りの一角にある衣料品店の前で足を止めた。
石畳の通りに面したガラス張りのショーウィンドウには、季節物の軽装や色鮮やかな布地が整然と並び、薄いレースのカーテン越しに柔らかな陽射しが差し込んでいる。
通りすがりの女性客が足を止めては品定めをし、友人同士で小声の感想を交わしていた。
淡い風に揺れるディスプレイ用のスカーフが、きらりと光を反射する。
「そういえば、演習用の着替えとかも必要かもね」
アリスがショーウィンドウを見上げながらぽつりと呟く。
「森の中で一か月だと、汗も泥も避けられないし、替えは多めにあったほうが安心だよね。洗って乾かす時間も限られるだろうし」
「下着とか替えのシャツ、寝間着も忘れずにだよね。汗かくだろうし」
レティアも頷きながら応じる。
「寝るときくらいはちゃんと乾いた服で休みたいもの。疲労の回復にも関わるわ」
「それに……その、演習中とはいえ、身だしなみも大事だし」
少し照れたように笑い、頬がほんのり赤くなる。
それに気づいたアリスも、つい微笑みを返した。
店内に入ると、清潔な空気とほのかな石鹸の香りが迎える。
入口から奥まで整然と服が並び、木製の棚にはきれいに畳まれたシャツやジャケットが色ごとに積み上げられていた。
壁際のハンガーには、季節に合った軽装の訓練服や動きやすい日常着、さらに女性向けのカジュアルなワンピースが揃えられている。
窓から差し込む光が布地を透かし、柔らかな影を床に落としていた。
「これ、軽くて丈夫そうだね。素材も魔力伝導を妨げないって書いてある」
アリスは棚から淡い灰青のシャツを手に取る。
「縫製もしっかりしてる。肩周りも動かしやすそうだし、魔力循環にも影響が出にくい素材だと思う」
「長時間着ても疲れにくそう」
指先で生地を確かめると、薄手ながらも張りのある質感が心地よい。
「そっちもいいけど、これなんかアリスに似合いそうじゃない?」
レティアが指差したのは、淡いラベンダー色のカットソー。
「色合いが柔らかくて、アリスの金髪に映えそう。いつも落ち着いた色を選びがちだけど、たまにはこういうのも素敵だと思う」
「えっ……あ、ほんとに? あんまりこういう色って自分では選ばないけど……」
戸惑いながらも、アリスの口元は自然とほころぶ。
「演習の後とか、ちょっと街に出るときにも着られそうだし」
「ずっと訓練服ばかりじゃ息が詰まるでしょ?」
レティアがいたずらっぽく勧める。
アリスはラベンダー色の生地を胸元に当てる。
午後の光に照らされ、金髪がいっそう柔らかく見えた。
「……悪くない、かも」
「うん、すごく似合ってる」
レティアが満足そうに頷く。
二人は訓練用と日常用の服をそれぞれ選びながら、店内をあれこれ見て回る。
ハンガーを揺らすたびに布がさらりと擦れる音が響き、試着室へ向かう女性客の笑い声が遠くから聞こえてくる。
ときおり鏡の前に立ち、袖の長さや丈を確かめながら真剣に品定めをしていた。
「……あれ? この上着、サイズ合うのなくなってる」
レティアが薄手のジャケットを手に取り、首をかしげる。
「ほんとだ……さっきのお姉さんが最後のMサイズ持って行っちゃったかも」
アリスが隣の棚を覗き込み、後ろを振り返る。
「人気なんだね、これ。軽いし、縫製もいいし」
「森でも街でも使えそうだから、みんな考えることは同じかも」
「ま、明日もう一回来てみよっか。入荷あるかもしれないし」
レティアは明るく笑って肩をすくめる。
「それに、また一緒に来る理由ができたってことだもの」
「買い出しって、こうして寄り道するのも楽しいし」
「そうだね。それに、また来る理由ができたってことで」
アリスも小さく笑い返す。
二人は目を合わせ、どこかほっとしたような笑みを交わす。
午後の柔らかな陽射しがガラス越しに差し込み、買い物袋を手にした二人の姿を淡く照らし出す。
店先に揺れる布地の影が足元を彩り、二人の買い出しの一日は、ほんのりとした温かさを伴ってさらに続いていった。




