第十部 第一章 第3話
どこか落ち着いた空気が漂う午後の校舎内。
磨き込まれた石造りの廊下には、大きな窓から斜めに陽光が差し込み、長い影を床に描き出していた。
高い天井に反響する足音は乾いて澄み、白い壁面にかけられた学院紋章の金縁が光を受けてきらりと輝く。
遠くからは談笑する学生たちの声や、教科書を抱えた靴音が重なり、穏やかな喧騒となって流れてくる。
その中で、不意に後方からはっきりとした声が響いた。
「アリス!」
呼びかけに振り返った瞬間、蒼い瞳に映ったのは、かつて《実地演習Ⅰ──対魔物討伐訓練》で共に戦った班編成の仲間たちだった。
廊下の向こうからこちらへと駆け寄ってくる三人の姿が、逆光に包まれて浮かび上がる。
先頭にいたのは、温和な笑みを絶やさないミレーネ・フォルトナー。
淡い茶色の髪が陽光を受けて柔らかく揺れ、優しい気配が周囲の緊張をほどくように広がる。
胸に抱えた本を落とさぬよう押さえながらも、歩みは弾んでいた。
そのすぐ横を並んで歩くのは、引き締まった体格に鋭い目つきを持つラース・エルヴァン。
黒髪は整えられ、制服の襟元もきちんと整っている。
強靭な雰囲気を漂わせながらも、その唇の端には照れ隠しのような笑みが浮かんでいた。
そして一歩下がって姿を見せたのは、眼鏡をかけた痩身の青年、ザック・ミルドレイ。
歩幅は控えめだが視線は鋭く、周囲の様子をさりげなく観察している。
多くを語らずとも、その眼差しには懐かしさと安堵が滲んでいた。
久しぶりの顔ぶれに、アリスの胸の奥にはじんわりと温かなものが広がる。
舞踏祭以来の再会。
張り詰めた日々の合間に差し込む、穏やかな光のような時間だった。
「久しぶりだね、舞踏祭以来じゃない? みんな。元気にしてた?」
アリスが少し照れたように笑みを浮かべて声をかける。
「私は変わらず訓練漬けの日々だよ。でも、こうして顔を合わせると、やっぱり安心するね」
三人の表情がぱっと明るくなる。
「もちろんです。アリスこそ、元気そうで安心しました」
ミレーネが優しく微笑む。
「演習が止まってから、みんな少し落ち着かない日々でしたけれど……また一緒に立てると思うと、心が軽くなります」
「舞踏祭のとき以来か……」
ラースが腕を組み、やや呆れたように言う。
「アリスは、また何かとんでもないことしてるって噂だったぞ。白銀だの、結界破断だの、やたら大げさな話ばかり耳に入ってきた」
「本当に、目立ちすぎだ」
だが口元は緩んでいる。
「でもな、噂よりも直接会ったほうが安心する。ちゃんと無事でいるかどうか、自分の目で確かめないとな」
「目立つのは、いつものことだろ」
ザックが静かに言葉を添える。
「だが、目立つということは標的にもなるということだ。無茶はするな」
眼鏡の奥の視線は淡々としているが、その声はどこか柔らかい。
「俺たちが後ろを固めるから、前に出るときは遠慮なく出ろ。連携は、あの時よりも精度を上げてある」
仲間たちとの何気ないやり取り。
その空気が、胸の奥に残っていた緊張をふっと和らげていく。
「……また一緒に動けるのかな?」
ミレーネが少し期待を込めた声で問いかける。
「正直、あの演習が止まってから、少しだけ不安だったんです。このまま班が解体されたらどうしようって。でも、もしまた同じ班なら……嬉しいです」
アリスは穏やかに微笑む。
「うん。私も、また一緒に動けたら嬉しいよ」
「前回は不意打ちみたいな形で終わっちゃったけど、今度はちゃんと、最後までやり切りたい」
「実は、初回演習はこのメンバーで行うって、さっき教官が言ってた気がする」
ザックが何気ない口調で口にする。
「名簿を見た。ほぼ確定だ」
三人の視線が一斉に集まる。
「そうなんだ?」
アリスが目を丸くし、瞬きを繰り返す。
「なら、運がいいな」
ラースがにやりと口角を上げる。
「前回も、アリスのおかげで後ろを安心して任せられたからな。あのときの結界展開、正直しびれた」
「今回も頼りにしてるぜ。ただし、無茶はするなよ。お前が倒れたら、士気が落ちる」
「私も嬉しいです」
ミレーネが静かにうなずく。
「また、あの時みたいに――いえ、それ以上に力を合わせて頑張りましょう。前回は不測の事態でしたけれど、今回は準備も整っています」
「皆で帰ることが、いちばん大事ですから」
その仕草は祈りにも似て、凛とした気高さを帯びていた。
仲間たちの言葉と眼差しを受け止めながら、アリスの心は不思議なほど落ち着いていく。
あのとき共に戦った記憶が、今度は確かな自信へと変わっていくのを感じていた。
「じゃあ、また始まるね」
アリスは静かに言う。
「怖さもあるけど……それ以上に、楽しみだよ」
廊下の向こうで鐘が小さく鳴る。
午後の光が四人の影を長く伸ばし、石床に並んで揺れていた。
再び同じ班で。
再び同じ森へ。
彼らの歩みは、もう止まらない。
少しの間、立ち話で近況を交わした。
午後の陽光はさらに傾き、窓枠の影が石床に長い格子模様を落としている。
行き交う学生たちの気配はあるものの、四人の周囲だけがどこか静かな輪郭を持ち、柔らかな空気に包まれていた。
「舞踏祭のあと、私はしばらく治癒術の補助任務に回されてたんです」
ミレーネが穏やかに切り出す。
「学院内の怪我人対応や、基礎術式の再調整ばかりで、正直退屈でしたけど……でも、あの時間があったからこそ、改めて自分の役割を見つめ直せた気もします」
「前線に立つ人を支える術って、思っていたより奥が深いんです。魔力の流れを読むこと、声をかけること、安心させること……全部が技術なんだって」
その声音は柔らかく、それでいて芯があった。
「演習が再開するなら、やっと本番って感じですね。今度は、もっと皆の力になれます」
アリスは自然と頷く。
「似合ってるよ、治癒術の補助」
「ミレーネがそばにいると、場の空気が落ち着くんだ。前回だって、私たちが無茶できたのは、後ろにミレーネがいたからだと思ってる」
「支えるって、簡単そうに見えて一番難しいよ。だから誇っていい」
ミレーネの頬がほんのり赤く染まる。
「……そんなふうに言ってもらえると、救われます」
ラースが鼻を鳴らす。
「俺は地元の武術大会に出てたんだが、準決勝で負けちまった」
肩をすくめ、わざと軽く言ってみせる。
「相手は年上で、間合いの取り方が巧妙だった。正面から打ち合えば勝てると思ってた俺が甘かったな」
「……まあ、いい経験にはなったけどな」
だが、その目は悔しさを隠せずに輝いていた。
「でも、負けたまま終わる気はない。次は必ず取り返す」
アリスはくすりと笑う。
「ラースなら、次はきっと優勝だよ」
「だって、悔しさをちゃんと自分の中で燃やせる人だもん。負けた理由を分析して、次に活かせる。そういう人は強くなる」
「それに、準決勝まで行ったってことは、十分すごいことだよ」
ラースはわずかに頬を赤くし、照れ隠しのように鼻を鳴らす。
「うるせえな。……でも、覚えとけ。今度の演習じゃ、俺が前に立つ」
「アリスにばかり目立たせてたまるか」
ザックが静かに眼鏡を押し上げる。
「僕は……いつも通り、図書館と研究室にこもってたよ」
「新しい術式の論文をまとめてたんだ。基礎理論は古い文献を再解釈したものだけど、展開速度を三割短縮できる可能性がある」
「演習で試せるかもしれない。実地環境での安定性を確認したい」
淡々とした口ぶりの中に、わずかな高揚が混じる。
アリスはその変化を見逃さない。
「それ、絶対すごいよ」
「ザックの術式って、いつも一歩先を行ってるもん。前回も、あの拘束陣がなかったら危なかった」
「今回も、きっと皆を助ける力になる」
ザックはわずかに目を伏せる。
「……評価は、実証してからだ」
「だが、皆と組むなら試す価値はある」
三人それぞれが、舞踏祭から今までの日々を自然に語り合う。
笑いと悔しさと静かな情熱が交じり合い、廊下の光の中に溶けていく。
(……やっぱり、この仲間たちといると落ち着く)
胸の奥に、じんわりと懐かしい温かさが満ちる。
やがて、ザックがちらりと時計を見た。
「それじゃ、また演習地で」
「集合時刻、遅れるなよ」
ラースが肩を落とす。
「……ちぇっ、俺たちはこれから別の講義なんだよ。もっとゆっくり話したかったのにな」
「せっかく久しぶりに会えたのに、時間が足りねえ」
ミレーネがくすっと笑い、ラースの腕を軽く小突く。
「また演習地で会えるでしょう? それまで我慢しなさい」
「同じ班なら、嫌でも顔を合わせますよ」
「わかってるけどさ……」
ラースは頭を掻き、最後に名残惜しげな視線をアリスへ向ける。
アリスは目を細め、小さく微笑む。
「うん、楽しみにしてる」
「だから、そのときにゆっくり話そう。演習が終わったあと、ちゃんと皆で振り返りもしたいし」
「今度は、もっと上手くやれる気がするんだ」
ラースはようやく小さく頷く。
「……ああ。俺もだ」
三人は人の波に紛れて歩き出す。
制服の背が陽光に照らされ、やがて角を曲がって見えなくなる。
アリスは自然と胸に手を当てる。
まだ温もりが残っている。
短い会話を交わしたあと、三人はそれぞれの予定へ向かった。
廊下に残されたアリスの耳には、まだ彼らの声が余韻のように響いている。
小さく息を吐き、横に視線を戻す。
そこには静かに待っていたレティアの姿があった。
栗色の髪が光を受けて柔らかく揺れ、穏やかな微笑が浮かんでいる。
急かすでもなく、ただ自然にそこに立っていた。
「ありがとう、待たせちゃったね。行こうか」
アリスがそう声をかける。
「ううん。あなたが嬉しそうに話しているのを見るの、好きだから」
「……いい仲間ね。本当に」
レティアは目を細めて微笑む。
「また一緒に立てるなら、きっと強いわ。あなたも、あの子たちも」
「さあ、次の講義へ行きましょう。私たちも、負けていられないもの」
廊下の先へ、二人は並んで歩き出す。
午後の光が背中を押すように差し込み、長い影が静かに伸びていた。
再会の余韻を胸に抱きながら、アリスは前を向く。
そのとき、別の方向からも明るい声が響いた。
石造りの回廊に反響し、柔らかな余韻を伴って届く。
「レティア!」
弾むような声音。
振り向いたレティアの視線の先に立っていたのは、彼女の班で共に活動したメンバーたちだった。
快活そうな笑みを浮かべるイリーナ・カレスト。
長身で落ち着いた雰囲気を纏うヴィクトール・グランハルト。
そして控えめに小さく手を振るリゼット・フローレンス。
三人とも演習以来の再会に胸を弾ませているのが、表情や仕草からありありと伝わってくる。
午後の光が彼らの制服の肩章を照らし、淡い輝きを宿していた。
「元気にしてた? また一緒に演習で頑張れるなんて、心強いわ」
イリーナがぱっと花が咲くような笑顔を見せる。
「舞踏祭のあと、みんなそれぞれ忙しかったでしょう? 正直、班がそのまま続くかどうか不安だったの。でも、名簿を見て思わず声が出ちゃった」
「レティアがいるって分かった瞬間、これなら大丈夫だって思えたのよ」
その明るい声が廊下に広がり、周囲の空気を一層和らげる。
「ええ、私もよ。あなたたちとまた組めるなら安心だわ」
レティアは自然と表情を和らげる。
「前回は想定外の事態も多かったけれど、それでも皆で乗り越えられた。それは、あなたたちがいてくれたから」
「今回が長期であっても、きっと大丈夫。私はそう信じているわ」
胸の奥に小さな安堵の灯がともる。
「今回は長期だし、役割分担も増えるだろう」
ヴィクトールが腕を組み、低く落ち着いた声で言う。
「物資管理、警戒、結界展開、索敵。ひとつでも崩れれば全体が揺らぐ。だからこそ、互いに補い合わなきゃならない」
「前回よりも一段階上の連携が求められるはずだ。だが……」
わずかに視線を柔らげる。
「この班なら可能だと思っている」
「……でも、レティアが班にいるなら、きっと大丈夫」
リゼットが控えめながらもしっかりとした声で言葉を添える。
「レティアは、前に立つだけじゃない。後ろを見て、全体を見てくれる」
「だから……私は安心して動ける」
その真っ直ぐな眼差しには、厚い信頼と静かな尊敬が宿っていた。
仲間たちの言葉を受け止め、レティアの胸にはじんわりと温かさが広がっていく。
彼女はそっと姿勢を正し、柔らかい笑みを浮かべた。
「ありがとう。……みんなで必ず、乗り越えましょう」
「今回も誰一人欠けることなく、そして前回以上の成果を出す。それが目標よ」
「私一人ではなく、班全体で強くなりたいの」
その言葉は穏やかでありながら、確かな決意を帯びていた。
するとイリーナが、ふとレティアの隣にいるアリスへ視線を向ける。
目を輝かせ、声を弾ませた。
「――あっ、アリスじゃない! なんか久しぶり!」
「最近ほんと噂ばっかり聞くから、本人に会えるとは思ってなかったわよ」
急に話を振られたアリスは、驚きつつも口元を緩める。
「うん、舞踏祭以来だね」
「そんなに久しぶりって感じはしないけど、ちゃんと話すのは久しぶりかも」
リゼットが控えめに微笑みながら、少し茶化すように言葉を重ねる。
「なんかね、いろいろ噂になってるよ、アリス」
「白銀だとか、模擬戦で圧倒したとか、結界を貫いたとか……どれが本当なのか分からないくらい」
アリスは小さく声を漏らす。
「いや〜……ちょっと話が大きくなってるだけだと思う」
「そんな大したことじゃないよ。たまたま、うまくいっただけ」
視線を逸らし、耳のあたりがわずかに赤く染まる。
「その“たまたま”がすごいのよ」
イリーナが楽しそうに笑う。
「でも、変わらないわね。そこが安心する」
「強くなっても、ちゃんと同じ顔で笑ってるんだもの」
三人は顔を見合わせ、小さく笑みをこぼす。
場の空気が一層柔らかくなり、先ほどまでの緊張が嘘のように解けていった。
ひとしきり再会の挨拶を交わしたあと、イリーナが軽く手を振る。
「それじゃ、私たち次の講義があるから」
「演習地でまた会いましょう。そのときは、ちゃんと作戦会議もするわよ」
「了解だ」
ヴィクトールが短く応じる。
「体調を整えておけ。長期戦だ」
「またね、アリス。レティア」
リゼットが小さく手を振る。
三人は軽やかな足取りで廊下の向こうへと去っていく。
石床に響く足音が次第に遠ざかり、やがて人の波に紛れて見えなくなった。
見送ったアリスがふっと肩の力を抜く。
すぐ隣で、レティアが小さく笑みを浮かべる。
「……なんだか今日は、懐かしい顔にたくさん会える日ね」
「うん。みんな元気そうでよかった」
アリスは頷く。
「それぞれがちゃんと前に進んでるのが分かると、なんだか嬉しいね」
二人は自然と歩調を揃え、再び廊下を並んで歩き出す。
窓から差し込む午後の陽光が、彼女たちの背中を柔らかく照らす。
長い影が石床に並び、静かに重なった。
再会の温もりを胸に抱きながら。
彼女たちは、次の時間へと歩みを進めていった。




