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第九部 第三章 第17話

 グリフォラスの巨体が、ついに大きく揺らいだ。


 膨れ上がった紫紺の肉体が一瞬だけ軋み、四肢の動きが鈍る。

 蠢いていた瘴気の流れが乱れ、巨躯を支えていた均衡が崩れかけた。


「――効いてる……! 確実に、再生の処理が追いついていません……このまま押し切れます!」


 アリスの確信に満ちた声が、張り詰めた戦場に響き渡る。

 白銀の瞳が揺らぎなく怪物を射抜き、その周囲で光球が脈打った。


 だが、その瞬間――。


「グウゥゥゥ……オオオオオッ!!」


 地を割るような重低音の咆哮が、森全体を震わせた。

 地面に走った亀裂が拡大し、枯れかけた草木が吹き飛ぶ。


 紫紺の肉体が蠢き、裂けていた四肢が不自然に膨張を始める。

 骨が軋み、筋繊維が裂けるような音が響く。


 破裂音を伴って肉片が弾け飛び、濁った瘴気が爆ぜるたび、新たな血肉が無理やり形成されていった。

 縫い合わせるのではなく、押し固めるように。


「――っ! 強引に再生を加速させてる……! 流れが乱暴すぎる、構造を無視している……!」


 アリスは息を呑み、即座に距離を取る。


 魔力の流れがさきほどまでとまるで違う。

 自然な修復ではない。


 繊細な再構成の代わりに、力任せに組織を生み出している――明らかに無理を重ねた、異質な再生だった。


 それでも、回復は成立している。


「……これは、奥の手か何かですか? 再生そのものを暴走させている……代償を払ってでも、出力を引き上げるつもりですね」


 レイラの声には苦々しい響きが混じる。

 青白の瞳が細められ、剣先に力が込められた。


「おそらく……一時的な限界突破……! 肉体の損耗を無視して、魔力を強制的に流し込んでいる……長くは持たないはずです。でも、その間の出力は跳ね上がる……!」


 アリスは答えながら、白銀の瞳を鋭く光らせる。


 グリフォラスの目がギラついていた。

 そこに理性の光はなく、獣の狂気だけが宿る。


 筋肉は異様なまでに膨張し、皮膚の下で瘴気が奔流のように走る。

 裂けた肉から滴る血は大地を焦がし、周囲の草木が黒く枯れていった。


 肉体の損傷と引き換えに、出力を爆発的に引き上げる――。

 それは、限界を超えた危険な兆候だった。


 アリスは振り返り、声を張り上げた。


「――レイラさん、ここからは少し危険です。出力が跳ね上がります、正面から受ければ押し潰されます。私が前に出ます、後方から支援に回ってください!」


「いえ、それでは同じことの繰り返しです。出力が上がるなら、こちらも同時に圧を重ねるべきです。私も踏み込みます、レティシア様!」


 返ってきたのは、確かな意志を帯びた声。


 その響きに、アリスは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに頷いた。


「……わかりました。なら、次は同時にいきます! 爆裂と斬撃を重ねて、再生の処理そのものを潰します!」


 二人は同時に地を蹴った。


 白銀と青白の光が交錯し、戦場に二条の光跡が走る。

 踏み込むたびに地面が砕け、空気が震えた。


 アリスの周囲で《フレイム・ボール》が輝きを増す。

 淡い白銀の光球は脈動するように明滅し、その周囲に細かな粒子が渦巻き始める。


 魔力の密度は極限に近く、空気が震え、耳の奥に低い唸りを感じさせるほどだ。


「――撃ち放て! 全弾、偏差修正なし、同時着弾!」


「――合わせます! 衝撃を重ねます!」


 アリスとレイラの声が重なった瞬間、戦場の空気が爆ぜた。


 十数発の光球が一斉に射出される。

 流星群のような光の奔流が、ほぼ同時にグリフォラスの各部へと着弾した。


「グォオオオオッ!!」


 爆ぜる閃光。


 四肢が弾け飛び、胴が抉られ、紫黒の血飛沫が滝のように噴き出す。

 膨張していた筋肉が裂け、内部で圧縮されていた瘴気が逆流する。


 爆風が煙と瘴気を巻き上げ、魔力の衝撃波が大地を軋ませた。

 森の木々が悲鳴を上げるようにしなり、周囲の大気が白銀と青白に照らされて揺らめく。


 連鎖的な爆発の余波の中で、アリスは前へ踏み込み、白銀の剣を構える。

 その刃は蒼白の光を帯び、再生しかけた肉へと狙いを定めていた。


 その背後には、青白い光を纏ったレイラの姿が続いている。

 蒼白の《エーテルソード》が低く唸り、次の一撃を待つ。


 ――共鳴する光と剣。


 二人の一撃が、ついに呪獣の巨体を本格的に追い詰めようとしていた。 


 爆煙を切り裂くように、二条の閃光が駆け抜けた。

 爆裂の余波で巻き上がった土砂と瘴気の煙が渦を巻く中、その中心を貫くように白と蒼の軌跡が一直線に走る。


 アリスの《ルミナ=コード》が首筋を狙い、白銀の残光を放つ。

 刃は音を置き去りにする速度で振り抜かれ、空気そのものを薄く裂いた。


 レイラの《エーテルソード》が胸部の中心を正確に捉え、蒼白の輝きを閃かせた。

 蒼い光刃は一直線に伸び、心臓部へと吸い込まれるように突き立つ。


 咄嗟にグリフォラスの腕が二人へ振り下ろされる。

 極太の巨腕が唸りを上げ、風圧だけで周囲の木々を薙ぎ払う。


 だがその刹那――爆炎の中から飛び出した複数の光球が軌跡を描き、巨腕を迎撃した。

 白銀と青白の閃光が直撃し、肉を削り、衝撃でその腕を鈍らせる。


 連続再展開された光球の防御射撃が、呪獣の動きを確かに封じ込めた。

 爆ぜるたびに瘴気が散り、紫黒の血が弾け飛ぶ。


 (今――!)


 二人は迷わなかった。


 アリスとレイラの剣が交差し、同時に閃光を描く。

 白銀と蒼白が一瞬だけ重なり合い、十字の光が夜を裂いた。


「――ッ!!」


 次の瞬間、紫紺の血飛沫が夜空に舞った。

 首筋から胸部にかけて、深々と刻まれた斬痕が走る。


 斬撃は深く刻まれ、巨体が大きく仰け反る。

 重苦しい震動が大地に伝わり、空気そのものが震えた。


 今度の一撃は違った。

 表層を裂いただけではない。内部の構造を断ち、再生の核へと届いている。


 確かに、確実に、グリフォラスの肉体へと深く突き刺さっていた。


「グウウゥゥ……アアア……アアアア……!!」


 咆哮とも悲鳴ともつかぬ、不協和音のような呻きが漏れ出す。

 怒りか、苦痛か、あるいは絶望か。


 判別もつかぬその声は、耳を刺す金切り音となって周囲を震わせた。


 だが同時に、巨体がぐらりとよろめく。

 両の瞳がかすかに濁り、体勢を維持することすら困難になっていた。


 裂けた首筋から溢れ出した瘴気は乱流を起こし、肉の蠢きは先ほどまでの勢いを失っている。

 再生の脈動が、不規則に乱れていた。


 アリスが息を詰め、白銀の瞳を細める。


 (……届いた? 再生の中心が乱れている……限界に近い。あと一歩、あと一撃で――!)


「レイラさん、次で決めましょう。再生が完全に崩れる前に、核を断ちます。合わせられますか?」


 決意のこもった声は静かだが、揺るぎない。


「はい。合わせます。どこを狙いますか」


 レイラは蒼白の光を纏いながら即座に応じる。


「胸部中央――さきほど乱れた部位です。私が外殻を破ります。あなたが内部を断ってください。躊躇は不要です」


「承知いたしました。全出力でいきます」


 二人の呼吸が、ぴたりと重なる。


 二人の掌に、再び光が集う。

 白銀と青白の輝きが花弁のように広がり、夜空に咲き乱れる。


 十二、二十四……重なり合う光球が揺らめき、戦場を昼のように照らした。

 光は脈動し、空気が熱と振動で震える。


 瘴気と光が拮抗し、森の闇が押し返される。


 アリスは《ルミナ=コード》を正面に構え、白銀の魔力を刃へと収束させた。

 レイラは《エーテルソード》を両手で握り直し、蒼白の光を極限まで圧縮する。


 ――決着の一撃。


 二人の全力が、ついにひとつとなろうとしていた。


 ――グリフォラスの巨体が、ついに膝をついた。

 岩盤を砕きながら巨躯が崩れ落ち、衝撃が地を這う波となって周囲へと走る。

 抉れた地面の亀裂から砂塵が噴き上がり、低く重たい土煙がゆっくりと広がった。


 紫紺の肉体はなお蠢いている。

 だが、その動きは鈍く、瘴気の奔流も途切れ途切れだった。


「レ……ティシア……なぜ……ここ……いる……?」


 かすれた片言の声が、獣の喉から零れ落ちる。

 血と瘴気に濁った息が夜気を震わせ、言葉は崩れかけながらも確かに意味を成していた。


まえの……レティシア……違う……強い……なぜ……?」


 濁った単眼が揺れる。

 そこには敵意だけではない、理解できぬものへの困惑が滲んでいた。


「ワタシ……覚えてイル……あの頃……レティシア……強カッタ……でも……今ノ……強サ……ワカラナイ……」


 掠れた声が続くたび、巨体が痙攣するように震える。


「ナゼ……門……開カセナイ……ワタシ……門……渡リタカッタ……」


 瘴気が胸部から噴き出し、森の木々を黒く焦がす。


「レティシア……妨害……する……?」


 言葉は途切れ、やがて呻き声とも叫びともつかぬ、不協和音の咆哮へと変わる。

 森が震え、瘴気が飛沫のように撒き散らされた。


「……レティシア様、今です! 迷わせる言葉に惑わされないでください、今なら核を断てます!」


 レイラの鋭い声が爆炎の向こうから響いた。


「はい、行きます――! 言葉に引きずられません、今ここで終わらせます!」


 アリスは即座に応じ、両手を広げる。

 白銀の《フレイム・ボール》が一斉に展開された。


 十二……光球は幾重にも増幅し、空に浮かぶ花のように咲き乱れる。

 超高密度のエーテルが脈動し、空気がびりびりと震え、耳鳴りにも似た圧が戦場を包む。


 指先を軽く振ると、それらは意思を持つかのように弾丸めいて疾走し、グリフォラスの頭部と胸部へと次々に衝突した。


 爆発。


 白銀の閃光が空間を焼き裂き、衝撃が地を軋ませる。

 爆圧で土砂が吹き飛び、瘴気が霧散する。


 そのたびに、反対側からはレイラの青白い《フレイム・ボール》が正確に撃ち込まれ、挟撃のように敵の動きを封じ込める。


「集中を切らさないでください、再生の起点を潰します!」


「了解です、右側を抑えます。頭部の再構成を阻害します!」


 白銀と青白の光球が交差し、紫紺の肉を穿ち続ける。


 (展開、射出、再展開……! 無限に繰り返せる限り――攻め続ける! 再生に思考を割かせない!)


 光球が炸裂するたびに戦場の空気は歪み、耳を劈く爆圧が押し寄せる。

 紫黒の血肉が飛散し、瘴気が吹き飛ばされる。


 再生の兆候はあれど、その速度はもはや追いつかない。

 抉られた箇所が閉じる前に、次の衝撃が上書きする。


 白銀と青白――二色の光が交錯するその光景は、まるで夜空に咲く双つの流星群のようだった。


 アリスの目が、光と爆煙の中に紫紺の巨影を捉えた。

 その姿は揺らぎ、瘴気に包まれながらも、なお生き長らえている。


「レティシア様、私は右側を抑えます。中心部、お願いします! 胸部の奥、まだ動いています!」


 レイラの声が鋭く響く。


 アリスはわずかに頷き、白銀の瞳に力を宿した。


「ありがとうございます、レイラさん……いえ――援護、感謝します。中心を断ちます、同時に踏み込みますよ」


 彼女の掌に、再び《エーテルソード》が顕現する。

 白銀の刃は剣でありながら、まるで意志そのものが具現したかのように輝き、揺るぎない光を放った。


 同時に、レイラの手にも蒼白の剣が抜き放たれる。


 二人の身体が風を裂き、矢のように空間を跳んだ。


「――今だああッ!! 再生の核を断ちます!」


 交錯する刃――。


 青白と白銀の閃光が、敵の中心を十字に切り裂いた。

 肉が裂け、瘴気が爆ぜる。


 その瞬間、グリフォラスの巨体が仰け反り、最後の咆哮を放った。


「グオオオオアアア……アア……ッ……!!」


 それは怒りではなかった。

 苦しみでもなかった。


 どこか悲しげで――むしろ、長い呪縛から解き放たれたような、哀切と安堵の入り混じった声だった。


 次の瞬間――爆散。


 白銀と青白の光が交差し、紫紺の肉体が内側から弾け飛んだ。

 閃光が森を白昼のように照らし、大地が大きく揺れる。


 飛散した瘴気は霧散し、夜気を震わせながら消えていった。


 残されたのは、光に照らされて立つ二人の少女と――静寂だけだった。


 巨体が、光と共に弾け飛んだ。

 紫紺の肉塊は空へと散り、闇の残滓となって霧のように消えていく。


 残されたのは、押し寄せる静寂と――空気に漂う、微かな瘴気の粒子だけだった。


 アリスはゆっくりと地へ降り立ち、荒い息を一つ吐き出す。

 胸を上下させながらも、その瞳には確かな光が残っていた。


「……終わりましたね、レイラさん。瘴気の反応も消えています」


「……はい、レティシア様。完全に消滅を確認しました。見事な連携でした……貴女が核を断ってくださったからこそです」


 レイラは膝をつき、肩で息をしながらも深く頭を下げる。

 その顔には、戦いを乗り越えた誇りと安堵の色が滲んでいた。


 疲労の汗が頬を伝うが、瞳の奥は凛として揺らがない。


 アリスはそっと彼女に歩み寄り、ためらいなく手を差し伸べる。


「ご無事で何よりです。……本当に、ありがとうございました。あなたの支えがなければ、あの再生は崩せませんでした」


 その声は柔らかく、戦場の余韻を和らげるように響いた。


 レイラは一瞬だけ目を伏せ、そして静かにその手を取る。


「それは、私の方こそ……。貴女の隣で戦えたことは、何よりの誇りです。……レティシア様。どんな名であれ、私は貴女と共に剣を振るいます」


 握られた手に込められた力は、静かでありながら確かな強さを持っていた。


 戦場を照らしていた光は消え去ったはずなのに――


 二人の手の結び目から、なお温かな輝きが生まれているかのようだった。

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