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第九部 第三章 第18話

 戦いの余韻が、まだ濃く戦場に残っていた。


 爆ぜた大地からは焦げた土の匂いが立ち上り、砕けた岩片が夜風に転がるたび、乾いた音が小さく響く。

 瘴気はほとんど霧散しているが、それでも空気の奥には微かな苦味が残り、喉を刺すような感覚を伴っていた。


 レイラはふと大きく息を吐いた。

 胸の奥に溜め込んでいた緊張を手放すように、ゆっくりと右手を空へと掲げる。

 指先が震えることはない。だが、その仕草には長く続いた戦闘の重みが滲んでいた。


 次の瞬間、彼女の指先から淡い煌めきが解き放たれた。


 それは精霊の魔力――。

 細やかな光粒がふわりと舞い上がり、優しい風を伴って彼女の全身を包み込む。

 淡い蒼白の粒子は夜空に溶けることなく、まるで意思を持つかのように旋回しながら周囲へと広がっていった。


 傷ついた大地を慰撫するように、光の粒は砕けた地面や焦げた草木の上に降り注ぐ。

 ひび割れた土の表面を撫で、荒れた空気を鎮め、爆ぜた魔力の残滓を静かに浄化していく。


 アリスの目の前で、レイラの輪郭がわずかに揺らぐ。


 光に照らされる横顔は、先ほどまでの柔らかく穏やかな表情を少しずつ失い――

 その奥に隠されていた、もうひとつの姿が滲み出していった。


 長い耳の面影は淡く揺らぎ、次第に薄れていく。

 蒼白に輝いていた瞳は色調を落とし、鋭く澄んだ蒼へと収束する。


 戦場を駆け抜けた戦士の気配が静かに後退し、代わりに現れたのは、無表情で冷ややかな顔立ち。


 ティアナ騎士団少尉、レイラ・アスコット。


 職務に徹する兵士としての顔が、光と共に再び表へと現れた。


「……アリスさん。答え合わせは、戻ってからだ」


 短く、抑揚のない声音。

 先ほどまでの丁寧で柔らかな口調は消え、簡潔で無駄のない言葉だけが残る。


「ここでは余計なことは話すな。まだ索敵は完全には終わっていない」


 ぶっきらぼうに言い放ち、周囲へと視線を巡らせる。

 その眼差しは鋭く、完全に任務モードへと切り替わっていた。


 アリスはその変化を静かに見つめる。

 さきほどまで隣で笑っていた面影は消え、代わりに軍人としての緊張がそこに立っている。


 白銀の輝きを帯びたアリスは、静かに頷いた。


「……了解です、少尉。ここでは報告以外、何も話しません」


 短く返す。


 レイラはわずかに顎を引いた。


「戦闘内容は整理しておけ。再生の挙動、門に関する発言、あれは記録に残す」


 感情を挟まない、事実のみの指示。


 それでも――。


 二人の間に流れる空気は、決して冷え切ってはいなかった。


 次の瞬間、アリスは静かに目を閉じる。


 胸の奥で荒れ狂っていた魔力の奔流を、少しずつ整えるように呼吸を整えた。

 吸い、止め、ゆっくりと吐く。


 全身を包んでいた白銀の光が揺らぐ。

 結晶のように煌めいていた粒子が、ひとつ、またひとつと溶けるように消えていく。


 奔流の勢いを抑え込むたび、張り詰めていた筋肉から力が抜け、肩がわずかに落ちた。


 やがて、髪を覆っていた白銀の光は薄れ、金の色を取り戻す。

 蒼銀に輝いていた瞳も、本来の澄んだ蒼へと落ち着いていった。


「……ふぅ」


 深く息を吐き、アリスはゆっくりと目を開ける。

 その瞳には、戦いを終えた安堵と、わずかな疲労の影が浮かんでいた。


 レイラは横目で確認する。


「動けるか」


「はい。問題ありません」


「なら戻る。異常があれば私が前に出る」


 命令口調に近い、簡潔な宣言。


 灰と静寂に包まれた戦場を後にし、アリスとレイラは無言のまま仮設拠点へと歩を進めた。


 砕けた地面を踏むたび、砂利が小さく軋む。

 焦げた木々の間を抜ける夜風が、二人の髪を静かに揺らした。


 淡く揺れる魔導灯の光に照らされて、二人の影が長く伸びる。


 並んで歩く影は、寄り添うことなく一定の距離を保ったまま――

 それでも確かに、同じ方向へと伸びていた。


 灰と静寂に包まれた戦場を後にし、アリスとレイラは無言のまま仮設拠点へと歩を進めた。


 森を吹き抜ける風は弱々しく、戦いの余波で折れた枝葉がかすかに擦れ合う音だけが響いている。

 足元の地面は所々抉れており、踏みしめるたびに乾いた土が軋んだ。

 焼け焦げた痕跡からはまだ薄く煙が立ちのぼり、その匂いが二人の鼻を刺す。

 しかしその匂いすら、さきほどまでの緊張と轟音に比べれば、どこか遠いもののように感じられた。


 アリスは深く息を吸い込み、肺を満たす。

 白銀の輝きを収めた後の身体はずしりと重く、四肢の奥に鈍い疲労が残っている。

 歩みは決して速くはなかったが――それでも、確かな足取りで前へと進む。


 隣を歩くレイラもまた、無表情を取り戻したその顔の奥に、戦士としての緊張をなお宿していた。 

 視線は常に周囲を巡り、耳はわずかな物音も拾い上げようと澄まされている。


 だが時折、彼女の指先から淡い青白の粒子が零れ、それが夜気に溶けて小さな光となって漂っていった。

 まるで二人の歩みを照らす灯火のように。


 やがて、木々の隙間から仮設拠点の灯りが見え始める。

 簡易結界に守られた外縁部には、魔導灯の柔らかな光が揺れ、帰還を告げる小さな道標のように瞬いていた。


 仮設拠点の外縁――そこに立っていたのは、セシリア・グレオール准尉を先頭に、任務にあたっていた仲間たちの姿だった。

 彼女の軍服は土埃に薄く染まり、額にはかすかな汗が滲んでいる。

 それでも背筋は真っ直ぐに伸び、冷静さと安堵を同時に湛えた眼差しで二人を迎えた。


「おかえりなさい、アリスさん、レイラ少尉。無事の帰還を確認しました。負傷はありませんか。魔力反応の乱れも大きくはありませんが、念のため報告をお願いします」


 静かな声。

 だがその声音には、張り詰めた緊張から解き放たれた安堵の響きが確かに滲んでいた。


 アリスは深い息を吐き、軽く頷く。


「はい、セシリアさん。外傷はありません。魔力の消耗はありますが、制御は安定しています。再生型呪獣でしたが、撃破を確認しました」


 白銀の輝きを収めた後の身体にはまだ重さが残っていたが、その瞳は澄んでいる。


 レイラは一歩前に出て簡潔に報告する。


「呪獣グリフォラス、完全消滅を確認。残留瘴気は急速に霧散中。周辺索敵、異常なし。ただし門に関する発言あり。詳細は後ほど」


 無機質で簡潔な口調。

 偽装中の少尉としての声色だった。


 少し後方にはクラリスやマーロ、エルネアの姿もあった。

 皆、戦闘で積み重ねた疲労を隠せずにいたが、それでも無事に二人が戻ったことに安堵したように、張り詰めた顔が少しだけ緩んでいる。


「……無事で何よりです。あれほどの交戦だったのに、よく持ちこたえましたね」


 クラリスが小さく言う。

 灰青の瞳には、研究者としての分析の光と、友としての心配が同時に浮かんでいた。


 アリスは苦笑する。


「一応、元気だよ。外傷はないし、魔力も問題ない。ちょっと重いけど、倒れるほどじゃないから安心して」


 軽い調子で答える。

 けれど吐息にはわずかに疲労の影が混ざり、立ち姿には戦闘の余韻が残っていた。


 クラリスは眉を寄せる。


「そう言っている時のあなたが、一番心配なの。魔力枯渇の前兆は自覚しにくいのよ。あとで必ず精密チェックをします。拒否権はありません」


「はいはい……わかりました、クラリス。ちゃんと受けます」


 穏やかな返事を返したアリスに、クラリスはようやく表情を和らげ、小さく頷いた。


 その横で、エルネアがレイラに視線を送る。


「……少尉は。ずいぶん無理をしたみたいですね。今にも倒れそうですよ」


 声音は叱責ではなく、心配の色を帯びている。


 レイラは視線を逸らさず答える。


「問題ない。戦闘可能状態を維持している。任務中に倒れることはない」


 短く、しかし揺らがない声。

 その奥に疲労はあるが、意志は崩れていない。


「それに、支援があった。単独ではない」


 わずかに付け加えた一言は、決して多くを語らない。

 だがそこには確かな連携への評価が含まれていた。


 エルネアはその変化を見逃さず、ふっと口元を緩める。


「ふふ……相変わらずですね。でも、今日は少しだけ柔らかいですよ、少尉」


「気のせいだ」


 即答。

 だがその声は、ほんのわずかに角が取れていた。


 セシリアが全体を見渡し、静かに告げる。


「全員、警戒は維持したまま休息に移ります。詳細報告は本部テントで。今夜は長くなりそうですね」


 夜風が静かに吹き抜ける。

 戦場の匂いはまだ残っている。


 それでも――。


 拠点の灯りの下に立つ彼らの姿は、確かに生還者のそれだった。


 張り詰めていた森の空気は、ゆっくりと解けていく。


 そして、灰に覆われた夜の中で、

 二人の少女の影は、仲間たちの灯りと重なりながら、静かに揺れていた。


 静かな光に照らされた仮設拠点。

 簡易結界の内側には魔導灯が規則正しく並び、淡い橙色の光が夜気をやわらかく照らしている。

 戦闘の余波で舞い上がった灰がまだ地面に薄く積もり、踏みしめるたびにかすかな粉塵が浮かび上がった。


 そこに戻ってきた仲間たちの姿は、疲れを帯びながらも、確かに生還を喜び合う温かなものだった。


「掃討は完了。周辺三百メートル圏内の残存反応もすべて消失と確認。感知班の二重照合も終了している」


 報告の声が低く響いた。

 告げたのは、G-M19魔導兵装を身に纏ったナディア・フェルグリッド中尉。


 黒鉄色の兵装表面には複数の裂傷と焦げ痕が刻まれ、肩部装甲の一部には応急的な魔力補修の痕跡が淡く光っている。

 スキャンゴーグル越しの視線は鋭く、ヘッドセットから伝わる声音は冷静でありながら、油断なき警戒と、確かに任務を果たしたという自負を滲ませていた。


「瘴気濃度は急速に低下中。ただし完全霧散までは推定三十分。封鎖結界は維持する」


 淡々とした言葉の一つ一つが、戦場の終息を現実のものとして積み重ねていく。


 その報告を受け、セシリアはわずかに眉を上げ、静かに頷いた。


「了解しました、中尉。感知班には最終確認を継続させてください。異常値が一瞬でも上昇した場合は即時通達を」


 一拍置き、全体を見渡す。


「全隊、警戒態勢を維持しつつ帰投準備に入ってください。負傷者の優先処置、装備点検、戦闘記録の仮保存を順次実施」


 彼女の声は落ち着いていたが、そこには指揮官としての揺るぎない統率があった。


 隣でレイラもまた、短く、静かに頷く。

 すでに少尉としての冷静さを完全に取り戻しており、表情から感情の色はほとんど読み取れない。


「異常なし。第二線の再展開は不要。帰還経路の安全も確認済み」


 簡潔で無駄のない報告。

 だが、ほんの一瞬だけ――その瞳に揺らいだ安堵の影を、アリスは見逃さなかった。


 灰と瘴気の漂う静寂の中、ようやく戦場に「終わり」の空気が広がりつつあった。


 間もなく、駆け寄ってきた医療班の術師たちがアリスとレイラのもとへ並び立つ。

 腰に提げた携行式の測定術式装置が展開され、光のパネルと魔力紋様が空中に浮かび上がった。


 淡い光帯が二人の身体を包み、脈拍、呼吸、血流、魔力循環を高速で読み取っていく。


「アリスさん、軽度の魔力消耗。許容範囲内ですが、回復処置を推奨します」


「了解。処置は拠点内で受ける」


 短い応答。


 その最中、術師の一人がレイラのこめかみ付近に目を留め、軽く眉をひそめた。


「……左側、出血の痕跡あり。外傷性。流血していたのに無処置とはどういうことですか、少尉」


 補助光が当てられると、青白い髪の隙間から首筋へかけて、乾いた血が筋のように流れていた跡が浮かび上がった。

 戦闘の熱気の中では気づきにくかったが、確かに鮮明に残っている。


 レイラは淡々と答える。


「行動に支障はなかった。優先度は低いと判断した」


「判断は医療班が行います。異常値は見られませんが、脳震盪の可能性も否定できません。少尉、こちらへ」


 有無を言わせぬ声音。


 医療班の二人が両脇に控え、レイラを慎重に誘導する。


 レイラは抵抗の素振りを見せない。


「了解。処置を受ける」


 短い承諾。

 背筋は真っ直ぐに伸びているが、足取りにはかすかに疲労が滲んでいた。

 半ば強引に連れられるというより、彼女自身もまた「必要だ」と理解している様子だった。


 その背を、アリスは一瞬だけ見送る。


(……レイラさん……)


 胸の奥に残る安堵と不安が交錯する。

 白銀を収めた蒼の瞳が、ほんのわずかに揺れた。


 セシリアの背後では、到着したばかりのティアナ騎士団魔導兵装部隊が、手際よく戦場の処理を進めていた。


 瓦礫や焦げた地面に散らばる瘴気の残滓を収束させ、魔獣の残骸を結界で封じ、符号化された記録札へ戦闘データを書き込んでいく。

 兵装の関節部が低く唸り、青白い補助光が夜気を照らす。

 そのすべてが規律正しく、終結へ向けて整然と動いていた。


 セシリアは静かに振り返る。


「事後処理は増援部隊に任せます。私たちは学院へ帰還します」


 一拍。


「全員、撤収準備。帰還ルートは第三経路を利用。魔導輸送車両の出発は十五分後。遅延は許可しません」


 簡潔で、迷いのない命令。


「了解!」


 各所から応答が重なり、隊員たちは一斉に動き出す。


 荷をまとめる者、通信機で経路確認を行う者、車両へ装備を積み込む者。

 それぞれが滞りなく任務を遂行する姿に、緊張の余韻とともに「終わり」の空気が広がっていった。


 アリスはふと視線を横へ向ける。

 医療班に付き添われ、車両へ向かったレイラの背中は、すでに灯りの向こうに消えている。


(……戦いは終わった。でも――あの言葉の意味を、すべて理解するには、まだ時間がかかる)


 呪獣が残した断片的な言葉。

 門。

 渡る。

 妨害。


 胸の奥に静かな波紋が広がる。


 アリスはゆっくりと空を見上げた。

 高く、澄み切った夜空。

 雲の切れ間から星が瞬き、一筋の風が頬を撫でて通り抜けていく。


 その風は、戦場に残された痕跡すら、少しずつ遠い記憶へと押し流していくかのようだった。

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