第九部 第三章 第16話
アリスは呪獣の肉体を凝視していた。
紫紺の肉が蠢きながら閉じていく様を、白銀の瞳で捉える。裂けた組織が泡立ち、骨が軋みを立てながら組み直され、瘴気を媒介に再構成されていく。
その過程は確かに異様で、常理を逸している。
――だが、その速度は明らかに鈍い。
「……どうしてだろう?」
息を呟くように漏らす。
普段ならば一瞬で癒えてしまうはずの呪獣の傷。
深々と穿たれた穴も、断ち切られた筋繊維も、瞬き一つで繋がるはずだった。
だが今は、再生そのものがどこかぎこちなく、まるで内側から抵抗を受けているかのように遅れている。
アリスは瞼を細め、魔力感知を限界まで高める。
視界が変わる。紫黒の肉体の内側に走る魔力の流れが、網の目のように浮かび上がる。
太い幹線のような流路が幾重にも分岐し、細い光の糸となって全身へ巡っていた。
その一つ一つが、血管を巡る生命の脈動のように明滅し、再生へと力を送り込んでいる。
「……再生は確かに働いてる。でも――同時に広範囲に大きな傷を負ったとき、回復力が分散されてる……?」
小さく呟きながらも、その瞳は確信へと近づいていく。
裂けた四肢、爆ぜた胸部、抉れた首筋。
それぞれの部位へ魔力が同時に流れ込み、再構築を試みている。しかし供給は均等に分かれ、どこか一箇所へ集中していない。
結果、全体の再生が遅れている。
思考の奥で閃きが走った。
(そうか……一点を狙っても再生されてしまう。でも、複数の箇所を同時に破壊すれば……再生は追いつかない! 再構築に必要な魔力は有限。ならば、分散させ続ければいい……!)
胸の奥に、期待と不安が入り混じった熱が芽生える。
突破口になりうる仮説――だが、それを実現するには単独では足りない。
「レイラさん」
振り返り、息を整えながら声を掛ける。
「ちょっと試してみたいことがあるの。再生の流れを観察していたら、同時多発的な損傷に対して回復力が分散しているように見えました。私一人では圧が足りない。だから、あなたの攻撃と私の攻撃を完全に重ねたい。私のサポートをお願いできますか?」
声音は静かだが、迷いはない。
レイラは一瞬驚いたように目を見開く。だがすぐに、その青白い瞳に輝きが戻る。
「もちろんです、喜んで! 再生を飽和させるのですね。ならば私は、最大火力で刻み続けます。あなたの合図に、必ず合わせます」
唇が戦士の笑みを刻む。
二人の間に、新たな連携の火花が煌めいた。
白銀と蒼白の光が交差し、戦場の空気が再び熱を帯びる。瘴気の渦が二人を包み込もうとするが、その中心で光は揺らがない。
グリフォラスが巨腕を振るう。地面が抉れ、土砂が弾け飛ぶ。
アリスは紙一重で身を滑らせ、風圧をかわしながら隣のレイラに声を投げかけた。
「レイラさん、まずはあなたが攻撃してください。全力で、途切れなく。再生を止めさせないように、刻み続けて」
澄んだ声だが、その奥には鋼の意志が宿る。
「そして、あるタイミングで、私と攻撃をチェンジしてください。私が踏み込む瞬間に、あなたは退いて魔力を練り直す。その一瞬を――絶対に見逃さないで」
レイラの瞳が鋭く光る。
「……わかりました、任せてください! あなたの呼吸に合わせます。必ず」
次の瞬間、レイラが地を蹴った。
蒼白の《エーテルソード》が唸りを上げ、閃光のように呪獣へ斬りかかる。
一閃、二閃、三閃。
刃が肉を裂くたび、紫黒の血飛沫が舞い、瘴気が霧状に散る。肩口を断ち、腹部を抉り、脚を深く切り裂く。
だが裂け目は瞬時に閉じ、超再生が絶え間なく働く。
泡立つ断面が盛り上がり、筋繊維が絡み合い、骨が噛み合う。
それでも、レイラの猛攻は止まらない。
「再生するなら、させ続けます……! あなたの魔力を削り取るまで、何度でも!」
斬撃の雨が巨体を刻み、咆哮と火花が森を揺るがす。
幹が裂け、地面が抉れ、瘴気が暴風となって荒れ狂う。
「――チェンジ!」
アリスの声が鋭く戦場に響いた。
レイラは即座に攻撃を断ち、刃を翻して後退。踏み込みの勢いを殺さず、空間を明け渡す。
その隙を逃さず、アリスが前に躍り出た。
白銀の魔力が奔流となって広がる。彼女の両手から十二の《フレイム・ボール》が同時展開される。
青白く透き通る高密度の魔力球体が円環を描き、呪獣を囲むように配置される。内部で炎光が脈動し、空気が歪む。
「再生を分散させたまま、さらに重ねる……逃がさない……撃ち抜け!」
十二の光弾が一斉に放たれた。
流星のような閃光が、四肢、胸部、首筋、腹部へ同時に突き刺さる。
内部で炸裂したエーテルが連鎖的に爆発し、巨体を内側から抉る。
轟音。
紫紺の肉が内圧に耐えきれず裂け、瘴気が噴き出す。
さらにアリスは爆裂に重ねて、光速のごとき踏み込みで距離を詰める。
青白く輝く《ルミナ=コード》が閃く。
斬撃、斬撃、連撃。
爆炎の中へ飛び込み、再生途中の組織を断ち切り、未完成の肉を削ぎ落とす。
――爆発と斬撃。
同時に走った二重の衝撃が、呪獣の巨体を大きく揺らした。
紫黒の肉は再生を始めている。
だが、その速度は明らかに鈍っていた。
瘴気の流れが乱れ、再生しきれなかった肉片が崩れ落ち、地面に落ちると黒煙となって消える。
「やはり……再生は働いている。でも、確かに鈍っている……分散させ続ければ、いずれ限界が来る」
荒い息を吐きながらも、アリスの眼差しは鋭い。
「……だが、それでも脅威であることに変わりはない」
呪獣はまだ倒れない。
再生は続き、瘴気は渦巻き、森は軋みを上げる。
その声が、戦場全体にさらに張り詰めた緊張を広げていった。
アリスの視線が、抉れた肉体の複数箇所に走る。
紫紺の肉は蠢いていた――再生はしている。
裂けた肩口、爆ぜた肋骨、抉られた腿部。
どの傷口からも紫黒の瘴気が糸のように伸び、断面同士を縫い合わせようとしている。
だが、その動きはどこかぎこちない。
「……やはり。複数箇所を同時に再生させようとすると、魔力が分散される分、少し時間がかかるのですね……。一つの傷なら瞬時に塞がるはずなのに、今は明らかに遅い……流れが追いついていません」
白銀の瞳が、肉体内部を巡る魔力の流線を追う。
太い幹のような魔力の幹線が枝分かれし、傷口ごとに供給を振り分けているのが見える。
だがその分、どこにも十分な密度が届いていない。
脳裏に浮かぶのは、かつての湖底遺跡での戦い。
広域魔術で封じ込め、地形そのものを変えてようやく抑え込んだあの死闘。
地面を穿ち、水脈を断ち切り、膨大な水を流し込んで巨大な湖を生み出し、封印へと持ち込んだあの光景が鮮明によみがえる。
「これがあの時に分かっていれば……湖なんて、作らなくても済んだのに。あそこまで地形を壊さなくても、分散を飽和させれば抑え込めた……」
苦笑が一瞬だけ浮かぶ。
だがすぐに瞳の色を鋭さに戻し、現実へと意識を引き戻した。
「レイラさん」
声は落ち着いているが、確かな熱を帯びている。
「今の再生、少し遅れていたのをご覧になりましたか? あれは、同時に複数箇所を修復しようとしたせいで、魔力の再構成が分散していたからだと思います。再生そのものは強力です。でも、供給は無限ではない」
「つまり……一点突破ではなく、面で崩す、ということですか?」
レイラが即座に問い返す。
「はい。一度に複数の部位へ攻撃を仕掛ければ、超再生が追いつかなくなる可能性があります。その隙に、弱点と思われる箇所へ一気に本命の一撃を加える――それが、私の考えです。分散させ、鈍らせ、飽和させる」
レイラの青白い瞳が細められ、思案の光が走る。
「理に適っています。再生を止められなくとも、処理を飽和させる……ならば、持久戦ではなく圧殺ですね。やってみましょう」
「ありがとうございます。私が左側から展開しますので、右側をお願いします。タイミングを合わせましょう。私の合図で、斬撃と爆裂を完全に重ねます」
「承知いたしました。あなたの呼吸に合わせます」
二人は短く言葉を交わし、視線を合わせる。
その瞬間、言葉以上の意思が通じた。
次の瞬間、同時に駆け出した。
白銀と蒼白の光が交差し、戦場に火花が散る。
アリスが展開した《フレイム・ボール》は、淡い白銀の輝きを放って空気を震わせる。内部で高密度の魔力が脈打ち、小さな星のように鼓動している。
対するレイラのそれは、氷のように冷たく澄んだ青白の光を宿し、鋭い冷気を帯びたように揺らめく。蒼白の光球は静謐だが、内側に鋭い切断性を秘めている。
二色の光球は互いに干渉しあいながら軌道を描き、まるで意思を持つ生き物のように敵を包囲するよう浮遊した。白銀が外周を取り、青白が内側へ潜り込む。
「《フレイム・ボール》――リンク展開。偏差制御、開始。外周制圧、散開します」
アリスの声と同時に、白銀の光球が一斉に震え、無数の矢のように散開する。
「《フレイム・ボール》――集中配置。攻撃位置、合わせます。右肢、胴部、関節部に収束」
レイラの指示が重なり、青白の光球が回転しながら密集配置を取る。
――魔力の命令が走った瞬間、両者の光球が軌道を描き、標的へと殺到した。
一発、二発、三発。
命中と同時に鋭い閃光を散らして炸裂する。
だが砕け散ったかに見えた光球は、瞬時に再展開され、再び閃光を帯びて飛翔する。
撃ち、爆ぜ、消え、また現れる。
その連鎖は止まることなく繰り返され、まるで無限の雨のように敵の肉体へと降り注いだ。
「グオォォオオオオッ!!」
咆哮が轟き、瘴気が乱流となって吹き荒れる。地面が抉れ、黒く染まった草木が引き裂かれる。
だが、四肢、胴部、関節を穿つ光の雨は止まらない。
爆裂の衝撃で巨体が揺れ、裂けた肉が紫黒の血を飛び散らせる。
再生の気配はある。
断面は蠢き、肉片が吸い寄せられるように結合を始める。
しかし――遅い。
今まで瞬きの間に閉じていた傷口が、じわり、じわりとしか塞がらない。
破壊される部位の数が、修復の速度を確実に上回り始めていた。
(……同時に複数の傷を再生させようとするほど、その能力は分散され、処理が追いつかなくなる。なら――途切れさせずに攻撃を続ければ、再生は自壊する)
アリスの瞳が鋭く閃く。
彼女は剣を逆手に持ち替え、展開した白銀の光球の間を縫うように疾風のごとく踏み込んだ。足元の地面が砕け、白銀の軌跡が残像を描く。
その足取りは空間を裂くように軽やかで、白銀の髪が流星の尾のようにきらめく。
同時に、レイラもまた跳び込む。
青白い残光を背に纏い、しなやかな肢体が空を舞う。
蒼白の《エーテルソード》が振り抜かれ、唸りを上げながら紫黒の肉を切り裂いた。
炸裂する光。
絶え間なく響く魔力干渉の爆音。
爆裂と斬撃の閃光が重なり合い、森の闇を断続的に白と青で切り裂いていく。
その合間を縫うように、二人の斬撃が左右から交差する。
刃が交錯するたび、火花のような魔力の光が弾け、グリフォラスの巨体が痙攣したように震える。
一撃ごとに肉が削がれ、光球が即座に追撃を重ねる。
再生しようとする組織は爆裂に妨げられ、瘴気の渦は次第に乱れ始めていく。
「グゥゥオオオオオッ……!」
その咆哮は、先ほどまでの威圧ではなく、苦痛と苛立ちを混ぜたものへと変わっていた。
呼吸の合った連撃と、絶え間ない砲火の波状攻撃。
それは確かに、呪獣の動きを鈍らせ、圧倒していた。
――いける。
突破口は、もう目の前にあった。




