第九部 第二章 第5話
その門から、ひとりの女性が姿を現した。
白の世界に差し込む柔らかな光を背にして現れたその人影は、堂々たる輪郭を持ち、歩み出す一歩ごとに衣擦れの気配さえも優雅に響かせていた。
空間そのものが彼女の存在を受け入れるかのように淡く波打ち、音のないはずの白の帳に、確かな重みが生まれていく。
年のころは四十代後半から五十代前半。
高位貴族を思わせる深紫のドレスに金糸の刺繍が散りばめられ、その文様は単なる装飾ではなく、血脈や継承、長き歴史を象徴するかのような奥行きを宿していた。
肩から背にかけて流れるマントは白の空間に溶け込むように揺れ、縁から零れる淡い光の粒子が、歩みに合わせて静かに舞っている。
纏う気配は威厳と優雅さを兼ね備えながら、決して人を圧するものではない。
そこにあるのは、長い時を越えてなお磨かれ続けた落ち着きと包容であり、近づくほどに、見る者の胸に溜まっていた緊張が自然と解けていく感覚を伴っていた。
アリスはその姿を見た瞬間、思わず息を呑んだ。
(……レティシアが年を重ねたら、きっと、こんな雰囲気になるんだろうな)
それは推測ではなく、理解に近い直感だった。
理性よりも先に、魂が「知っている」と応じてしまう感覚。
目の前の女性は、単なる未来像ではなく、時間を越えても失われなかった“核”そのものを体現しているように見えた。
気品と穏やかさを同時に纏い、見ているだけで心が静まり、深い安堵が胸の奥に広がっていく。
未来という言葉だけでは足りない。
そこには、選ばなかった道も、選び続けた積み重ねも、すべてを抱え込んだ完成の気配があった。
隣に立つレティシアは、小さく目を見開いたまま、その姿から視線を逸らさずに呟く。
「……私が知らない、“年を取った私”がいるわね」
白の光がその横顔を淡く縁取り、瞳の奥に浮かぶ感情の揺らぎをはっきりと映し出していた。
驚きはあっても拒絶はない。
ただ、理解しようとする静かな視線だけがそこにあった。
すると、門から現れた女性は唇に笑みを浮かべ、軽く肩をすくめる仕草を見せる。
その笑顔には年齢を重ねた余裕と、どこか少女のような茶目っ気が同居しており、しかし目の奥に宿る光は凛と澄み切っていた。
「……そうね。なら、“初めまして”が正解かしら」
その言葉は誰かに向けられたというより、状況を確かめるための独白に近かった。
白の空間に溶けるように落ち、微かな余韻だけを残して消えていく。
女性――マダムは静かに踏み出し、白の空間に優雅に立つ三人を改めて見渡す。
その視線は柔らかく、しかし確かな重みを伴い、長年の時を越え、多くを見届けてきた者だけが持つ眼差しだった。
まるで、この瞬間が訪れることを、ずっと前から知っていたかのように。
「こんにちは。……初めまして、かしら?」
ゆったりとした口調で紡がれる言葉は、今度こそ明確に三人へと向けられていた。
白の世界に波紋のように広がり、空間そのものを穏やかに満たしていく。
「若い頃の私と、その“前世”さん……それから、未来へ転生した“私”さん。こうして三人が並ぶ光景を見る日が来るなんて、さすがに想像以上ね」
そう言って、マダムは胸に手を添える。
その所作は驚くほど自然で洗練されており、長年身に染みついた礼節と、揺るぎない尊厳、そして人を受け入れる余裕が、ごく当たり前のものとして滲み出ていた。
白の世界は静まり返り、門の奥で淡い光が規則正しく脈動を続ける。
三人の呼吸が重なり合い、時間という概念さえ希薄なこの空間で、確かに「次の段階」が訪れようとしていた。
そして彼女は、わずかに背筋を伸ばし、誇らしげに名を告げた。
それは宣言というよりも、長い時を越えてなお揺るがなかった真実を、静かに置くような声音だった。
「私も――レティシア・ファーレンナイトよ」
その瞬間、白の空間全体がかすかに震えた。
音はなかった。だが確かに、空気の密度が変わり、光の粒子が一斉にざわめく。
まるで世界そのものが、その名を“記録”するかのように、白の帳がゆっくりと波打っていった。
淡い光が脈動を強め、門の輪郭が一度だけ強く輝く。
それは歓迎とも、確認とも取れる反応であり、この場が単なる精神世界ではないことを、否応なく示していた。
アリス、レティシア、そしてはるな――三人は揃って息を飲み、言葉を失う。
驚きという感情だけでは収まらない、胸の奥を直接掴まれるような衝撃。
理解する前に、魂が先に揺さぶられていた。
まるで、決して覗いてはならないはずの「未来」を、今この場で直視してしまったかのような錯覚。
時間の流れそのものが一瞬、意味を失った。
アリスは無意識のうちに一歩後ずさり、目を大きく見開く。
喉が詰まり、声を出そうとしても空気だけが漏れた。胸の内側で何かが崩れ、同時に組み替えられていく感覚があった。
はるなは眉を寄せ、唇を固く結ぶ。
理性が必死に言葉を探し、分析し、整理しようとしているのが分かる。
だが、そのどれもが追いつかず、ただ視線だけが彼女――“名乗った存在”を捉え続けていた。
レティシアは口元に手を添えたまま、立ち尽くしていた。
瞳は揺れ、呼吸は浅く、しかし視線だけは逸らさない。
そこにあるのは恐怖ではない。否定でもない。
ただ――自分自身の未来を、他者として突きつけられた者だけが抱く、静かで深い動揺だった。
「……あなたは……私、なの?」
掠れたような声が、ようやく零れる。
問いであり、確認であり、そして受け止めようとする意志の表れでもあった。
名乗った女性――マダムは、その視線を真正面から受け止め、わずかに頷く。
その仕草には迷いがなく、長い時間を越えてなお変わらなかった矜持が滲んでいた。
「ええ。あなたが今、ここに立っているからこそ、私はここにいる。否定も、置き換えも、奪取もないわ。私はあなたの“延長”であり、同時にあなたがまだ歩いていない時間の証明」
「未来は一つじゃない。でも――重なり合う瞬間は、確かに存在する。その一点が、今よ」
白の空間は再び静まり返る。
光の粒子はゆっくりと落ち着きを取り戻し、門の脈動も穏やかな律動へと戻っていった。
誰一人、その真意を完全には測りきれないまま。
言葉にしてしまえば壊れてしまいそうな均衡を前に、三人はただ立ち尽くしていた。
アリスは目を大きく見開いたまま、瞬きを忘れて立ち尽くしていた。
胸の奥で鳴っているはずの鼓動の音が、まるで遠くへ引き離されていくように薄れていく。
呼吸をしている感覚すら曖昧になり、肺の中の空気が抜けもせず、入ってもこない。
喉の奥だけがひどく乾き、その違和感だけが妙に鮮明だった。
白の空間は相変わらず静かで、柔らかな光に満ちている。
だが、先ほどまで感じていた安らぎは、今や微塵も残っていなかった。
光は変わらないはずなのに、どこか重く、密度を増したように感じられる。
その隣で、若きレティシアがわずかに前へ出た。
それは無意識の動きだった。
硬直したアリスをかばうように、守るように。
背筋は自然と伸び、肩には力が入り、青い瞳が細められる。
その表情には、王として、戦士として培ってきた鋭さが宿っていた。
だが――声を発した瞬間、その仮面の下にある揺らぎが露わになる。
「……本当に、知らないの。誓って言える。私は、自分が女王を退位した後の記憶が、ひどく曖昧なのは分かっていた。でも……それでも、どこかで思っていたのよ。いずれは思い出せる、と。少なくとも、自分がどう生きて、どう死んだのかくらいは……」
言葉を選ぶように、わずかに間が置かれる。
その沈黙が、かえって胸の内を雄弁に語っていた。
「けれど……今、こうして“未来の私”を前にして……分かった。私は、自分の最期を、まったく知らない。思い出せない、じゃない。最初から……そこだけが、存在していない」
抑えられた声の奥に、確かな震えが潜んでいた。
高潔さと誇りを常に纏ってきた彼女には、あまりにも珍しい、剥き出しの戸惑い。
白の空間の静寂が、その弱さを逃がすことなく、はっきりと際立たせる。
アリスは眉を寄せ、胸の奥に意識を沈めた。
そこには確かに、もう一人のレティシアの記憶が流れている。
重なり合い、溶け合い、自分の一部となったはずの記憶。
瞼を伏せると、古い書物を一頁ずつめくるように、数々の映像が浮かび上がる。
血と魔力の匂いが混じる戦場。
重厚な玉座の間で交わされた無数の言葉。
国を背負う決断と、失われていった多くの命。
――だが。
最後の頁に指をかけた、その瞬間。
視界は、唐突に黒く塗り潰された。
霧。
深く、重く、光を拒む黒い霧が、そこにあるはずの映像をすべて覆い隠している。
手を伸ばしても、触れた感触すらなく、ただ虚無だけが広がっていた。
アリスはゆっくりと目を開き、かすれた息を吐く。
「……私の中の記憶にも、最後の部分が……ありません。ぽっかりと、切り取られたみたいに。たしかに……そこに至るまでのすべては、はっきりあるのに……その先だけが、最初から“空白”なんです」
その言葉を自分の口で認めた瞬間、心臓が強く跳ねた。
どくん、と一際大きな衝撃が胸の内に響き、空白だったはずの場所が、逆に強い存在感を持って迫ってくる。
白光に満ちた空間は変わらない。
それでも、どこか薄暗い影が差したように見えた。
レティシアとアリスの間に生じた「記憶の欠落」。
それは単なる欠片ではない。
意図的に覆い隠された何か――あるいは、触れてはならない“出来事”そのものなのだと、二人は言葉にせずとも理解していた。
はるなは、少し離れた位置で、二人をぽかんとした表情で見つめていた。
視線が右へ、左へと忙しなく行き来し、眉は上がったまま固まっている。
「えっ……え? ちょっと待って。待って待って。私は前々世だから、レティシアじゃないし、王様でも女王様でもないし……理屈は分かる、分かるけど……ちょっと情報量、多すぎない? 記憶がない未来の自分? 欠落した最期? 門? 白い空間? これ全部、同時に処理しろって言われてるの、私?」
乾いた笑いが喉から零れるように混じり、言葉は次第に早口になっていく。
冗談めかした調子を保とうとしているが、目尻には隠しきれない焦りが滲んでいた。
「いや、笑ってる場合じゃないんだけど……正直、頭が追いつかない。追いつかないけど……これ、夢じゃないんだよね。たぶん。っていうか……夢だったら、もっと都合よくできてるはずだし」
その困惑は、むしろこの異様な状況が、紛れもなく“現実”であることを、強く突きつけていた。
白の空間は沈黙を保ったまま、三人を包み込む。
光は静かに揺らぎ、まるで彼女たちの戸惑いと動揺を、黙って見届けているかのようだった。




