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第九部 第二章 第4話

 ――次の瞬間、アリスの意識は、すべての感覚を失った。


 視界が、音が、重力さえも霧散する。

 まるで肉体という枠組みが剥ぎ取られ、魂だけが空虚に投げ出されたかのようだった。


 気づけば彼女は、真っ白な空間に立っていた。


 上下も左右も存在せず、天も地も区別のない、無限に広がる白の世界。


 だがそれは空虚な虚無ではなく、淡い光に満ちた乳白色の膜の中にいるようで、圧迫も孤独もなく、ただ曖昧な温度感が包み込んでいた。


 冷たくもなく、温かくもなく――むしろ「温度という概念そのものが剥奪された場」とでも呼ぶべき、異質な静けさ。


 夢ではない。


(……これは、夢じゃない。眠っている感覚が、どこにもない? 目を閉じているわけでも、覚めかけているわけでもない……)


 ――と、アリスは直感で理解する。

 ここは現実と隣接しながらも、完全に切り離された層。


(ここは……“外”だ。現実の延長線上にあるのに、どこにも属していない……)


 彼女は確かに「眠ってはいない」と感じていた。

 意識は冴え渡り、しかし肉体の感覚からは切り離され、漂うような浮遊感に包まれている。

 心臓の鼓動さえも遠く、ただ存在だけが宙吊りになっていた。


(身体が、ない……でも、消えてはいない。わたしは、ここに“在る”)


 ふと。

 前方の空間に、わずかな「ゆらぎ」が生まれた。

 静止した白の世界に、初めて生じた変化。


(……来る)


 それは白い霧のようなものだった。

 柔らかな糸煙が幾重にも重なり、渦を巻き、中央に収束していく。

 

 やがてその中心から、光の粒子が組み上がるように「何か」が浮かび上がった。


 ――紋様。

 石碑に刻まれていたものと同じ、円環と直線が複雑に交差する封印構造。


(やっぱり……石碑……。でも、これは“外側”じゃない。もっと……近い)


 光の糸で描かれた幾何学は、まるで呼吸するように淡く脈動し、幾重にも重なりながら回転し続ける。


 その輝きはやがて分解し、細かな粒子となって彼女の周囲をゆっくりと舞い始めた。 


 霧に散る星屑のように、光はアリスの肩や髪をかすめ、耳の奥にさえ微かな震えを残す。


(触れていないのに……触れられている。

 音じゃない。言葉でもない……それなのに、はっきりと)


 (……これは……)


 言葉にならない思考が彼女の中に浮かぶ。

 意味は理解できない。

 だが――確かに「何かを伝えよう」とする意志だけが、強く、直接、意識に流れ込んでくる。


(伝えたい……? それとも、確かめたい……?)


 それは声ではなかった。音でもなかった。

 だが、確かに彼女を“見ている”。

 深く覗き込み、確かめようとしている。


(……見られてる)

(逃げられない。でも……拒まれてはいない)


 ――識別中。


(……識別……?)

(わたしを……調べてる……?)


 そんな感覚が、一瞬、脳裏を走った。

 まるで彼女の魂の奥底を「読み取る」かのような感触が。


(怖くない……)

(でも、軽くもない)

(これを受け入れたら……戻れなくなる気がする)


 直後、空間そのものが静かにひび割れ、紋様が光の粉となって崩れ落ちていく。

 音はなかった。だが、落下する瞬間のような強烈な浮遊感がアリスを包む。


(……来る……!)


 次の瞬間――世界は轟々たる光の奔流に変わった。

 白の帳が一気に弾け飛び、万の光脈が天と地の区別もなく渦を巻いてアリスを呑み込む。

 星々が砕け散るかのような閃光の雨が降り注ぎ、意識の輪郭さえ光の波に溶けていく。


(待って……! これは……移動……? それとも――)


 彼女はただ、抗えぬ奔流に飲まれながら――


(……連れていかれる……、わたし自身が……“次”へ……)


 ――自分の存在そのものが、どこかへ「移ろおう」としていることを、確かに感じていた。 


 アリスは目を覚ました。

 だがそこは、現実空間ではなかった。

 依然としてすべてが白く、限りなく広がる異空間――終わりのない乳白色の帳が上下左右を満たし、地平も空も存在しない世界。

 息をしている感覚すら薄れ、時間の流れまでもが希薄に思える。

 音も、風も、温度もない。

 あるのは、存在そのものを包み込むような、曖昧で均質な白だけだった。


 その静寂を破るように、遠くから「気配」が忍び寄ってくる。

 音ではない。足音でもない。

 それでも確かに、自分に向かって近づいてくる“意志の重み”があった。

 温度を伴わないはずの空間に、なぜか懐かしさと温もりだけが波のように広がってくる。


 アリスは、ゆっくりと振り返った。


 そこにあったのは――はっきりと見覚えのある二つの影。

 彼女と深く統合されたはずの存在、レティシア・ファーレンナイト。

 そして、前世のさらに前、最初の魂の記憶に刻まれたもう一人――長瀬はるな。


 二人の姿は、淡い光の薄膜に包まれるように柔らかく浮かび上がっていた。

 

 輪郭は確かに人の形を保っているが、肉体としての重さはなく、光が人の形を借りてそこに「在る」ような不思議な存在感だった。


 レティシアの蒼銀の瞳は静かに輝き、はるなの表情は、かつて研究室で向けられたものと変わらぬ穏やかさを湛えている。


「……久しぶりね、アリス。こうして、意識の層を隔てずに向き合うのは、本当に久しぶりだわ」


「正直に言えば……もう二度と、あなたと話せる機会は来ないと思っていた。でも、やっぱり来たのね。あなたは、ちゃんとここまで辿り着いた」


 二人の声は重なり合いながらも混ざることなく、旋律のようにアリスの胸に染み込んでいく。

 音として耳に届くというより、魂の奥に直接触れてくる感覚だった。


 アリスは、二人から視線を逸らさず、胸の奥に溜め込んでいた想いを、そのまま言葉にする。


「私……ずっと、思っていました。もう、お二人には会えないんだって。記憶としては残っていても、こうして話すことは……きっと、もう許されないんだって」


「怖かったです。進めば進むほど、置いていくみたいで。あなたたちを、過去に閉じ込めてしまうみたいで……」


「それでも、進まなきゃいけないって分かっていて……だから……」


「……会えたとき、何を言えばいいのか、分からなくなってました」


 言葉が尽きたあとも、白い空間は何も言わず、ただ三人を包み込む。

 その沈黙を、はるながやさしく受け止めるように微笑んだ。


「それでいいのよ。迷って、怖がって、それでも進んだ。それが、あなた自身の選択だった。それだけで、十分すぎるほど」


「私たちは“置いていかれた”なんて思ってない。むしろ……ちゃんと連れてきてもらった、って感じかしらね」


 続いて、レティシアが静かに頷く。


「統合とは、消失じゃない。切り捨てることでも、忘れることでもない。あなたが選び続けた結果が、今の“アリス”を形作っている」


「こうして再び会えていること自体が、その証明よ」


 二人の眼差しには、懐かしさと誇り、そして確かな慈愛が宿っていた。

 胸の奥が、きしむように熱を帯びる。

 涙という形を取る前に、感情そのものが静かに溶けていく。


 しばしの沈黙の後、アリスは周囲を見回し、小さく問いかけた。


「……ここは、また私の深層意識なんでしょうか。それとも……夢の延長、みたいな場所?」


 はるなが首を横に振る。


「違うわ。これは、あなたの“内側”ではない。もっと根源的な場所。あなたと、私たちと、そして――あの石碑が繋がっている“接点”」


「あなたが誰かに引き込まれたんじゃない。自分の意志で、ここに到達したのよ」


 その言葉が、確かな実感として胸に落ちる。

 その直後、レティシアの視線がふと揺れ、アリスの背後――白の奥を指し示した。


「――あちらを、見て」


 促されるまま、アリスは振り返った。


 そこにあったのは、石碑に刻まれていたものと同じ構造。

 円環と直線が複雑に交差する封印紋様。


 だが、それは冷たい石の刻印ではなかった。

 光の粒子がひとつひとつ編み込まれるように集まり、立体的に組み上がった“構造体”。

 柔らかく明滅する光脈は、脈動する心臓のように規則正しい律動を刻み、白の空間に淡い波紋を広げている。


 円環が回転し、直線が結び直され、やがて“門”を思わせる形が明確になっていく。


 アリスは、思わず息を呑んだ。


「……待ってる……?」


「ええ」


 レティシアは静かに答える。


「識別は終わった。あとは、あなたが進むかどうか。それだけ」


「この先は、もう私たちが代わりに見ることはできない。でも――」


 はるなが、穏やかに言葉を継ぐ。


「あなたなら、大丈夫。そうでしょう?」


 白の世界のただ中で、光の粒子が確かな輪郭を持ち始める。

 円環と直線がぴたりと嚙み合い、中央に淡い縦の裂け目が浮かぶ。


 その裂け目が、静かに、左右へと開いていった。


 光の粒子が舞い散り、

 門は、確かに――開かれた。

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